国会の攻防(11)

国会議事堂

国会の攻防(11)
昭和50年代①

岸井和
2020.11.02

国会議事堂

(5)1975年~1984年(昭和50年代)

1975年から1984年の昭和50年代の法案審議に関しては、少なくとも国会においてはそれまでの時代と比べて平穏な運営の時期といえよう。三木武夫、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘と5人の総理が入れ替わったが、国会の中で大きな混乱となったのは三木内閣時代の公選法改正案と酒・タバコの値上げ法案と、福田内閣時代の沖縄駐留軍用地特措法案をめぐるものしかなかった。

この時期の大きな特徴は、第一には与野党の対立よりはむしろ自民党内の派閥間の抗争の激しさであった。佐藤栄作総理の退陣後は派閥の対立が強まり、安定的に内閣が続かず、1976年の三木降ろし、1979年の四十日抗争、1980年のハプニング解散と続いた。大平内閣不信任決議案の可決は゛定例的゛゛儀式的゛な野党提出の不信任案に与党反主流派が乗っかってしまうハプニングであった(国会の攻防(2)参照)。しかし、与党内の混乱に野党が直接関与することは基本的にはできない。不信任決議案可決は別として政治の大きな舞台は国会の外にあった。

次に、法案に関していえば、与野党間の対立は穏やかであった。徹夜国会は前の10年と比べて大幅に減った。たとえば、社会党が理念上反対を続ける防衛二法案についても、かつては徹夜国会の原因ともなった(国会の攻防(7)(9)参照)。しかし、その後も社会党は法案には反対はするものの決定的対立の要因とはならなくなった。自衛隊が憲法に反するか否かは別として、事実上の存在として国民の間でも認められるようになり、徹夜や牛歩をしてまで反対することは支持を得られなくなった(もっとも、昭和40年代においても防衛二法案は他の対決法案に抵抗するための道具に過ぎなかったともいえるが)。安保条約は70年安保以降については自動延長となったため、国会外での反対運動は残ったものの、国会における審議の対象とはならず、国会混乱の材料とはなりえなくなった。憲法問題も潜在的な対立要因ではあったが、現実的な国会日程に乗せる気は自民党もなかった。これらの理念的に対立するはずの問題がクローズアップされることがなかったことも、与野党の対立が表面化しなかった一因でもある。

第三に、代わって与野党対立の要因となったのは、ロッキード事件を発端とする疑獄事件を巡る国政調査であった。その後のダグラス・グラマン事件も含め、野党は事件究明のために関係者の証人喚問を求め、また、関係議員の議員辞職勧告決議案を提出し、自民党への攻勢を強めた。しかし、自民党は最終的には現実問題を昇華させて政治倫理の理念の問題へとすり替えた。つまり、事実解明に焦点を当てるよりも、政治倫理確立のための器づくりに話をシフトしていき、1985年には各議院に政治倫理審査会を設置した。しかし、それはほとんど機能しないように制度設計されていた。この一連の動きは、国会の混乱の要因とはなったが、野党は疑惑追及のために国会を動かすことを求めることになるから、法案成立阻止のための不信任決議案提出などのような戦術をとりにくくなった。

第四には、保革伯仲と呼ばれた国会の構成の問題がある。197612月5日の衆議院議員総選挙では自民党公認候補の当選者は249と結党以来初めて過半数を失った(総定数は511)。その後の無所属からの入党者を含めると260議席と過半数はかろうじて維持したが伯仲国会の運営は厳しさを増した。この原因は自民党から新自由クラブが離脱した(1976626日)ことも大きい。他方では、国会対策としては思惑の異なる多数の政党が存在するため作戦を工夫する余地が広がることにもなった。衆議院の主たる野党は、社会党、公明党、民社党、共産党、新自由クラブとなる。国会の安定的運営を目指すうえで、なれ合いはあるが対立する社会党及び説得困難な共産党を除き、ほぼ自民党に同調する新自由クラブに加えて、公明党、民社党をいかに取り込むかは国対の腕の見せ所となった。

一口に「法案に反対」といっても、それには政党によって温度差がある。「採決も認められないほど絶対に反対」、「反対はするが採決は容認」、「修正などの妥協の上で賛成」など様々である。与党としては公民を社会党から切り離し、反対はしても少なくとも採決容認にまで懐柔することが重要となった。委員会や本会議に出席し反対させるだけでも意味は大きかった。与野党が拮抗しているなかで、「単独採決」、「与党の横暴」という世論の批判をかわすことができるからである。

これに加えて、社会党も絶対的野党第一党ではなくなると、反対政党としてのスタンスを維持はするが公民を無視しての強硬な反対は難しくなる。さらには国対を通じた自社間の「なれ合い」運営も成熟し、反対の限度もわきまえるようになっていた。このことをもっとも象徴的に表しているのは、正副議長不信任決議案である。1975年から84年(昭和50年代)には衆議院の正副議長不信任決議案は1件も提出されていない(正確には1972年から)。参議院においては会期末を中心に10件提出されているが、そのうち採決された6件のすべてが起立採決(否決)であり牛歩などの本格的な抵抗手段としては使っていない(共産党単独提出で、討論もなく趣旨説明の後直ちに起立採決のこともある)。内閣不信任決議案が政治的意見の対立表明であるのに対し、議長不信任決議案は主として議事抵抗を目的とするものであるから、抵抗をゆるめるようになった、あるいは抵抗する案件が少なくなったことを含意している。

また、不信任決議案や解任決議案の本会議の議事を見ても無秩序ではなくなった。与党からは発言時間の制限や質疑・討論終局の動議は提出されることはあるが、野党から不測の動議が提出され議事が収拾のつかない事態にはならなくなった。当然、警察官導入といったこともないし、議長席周辺が極度に混乱するといった事態もなくなる。それなりの時間はかかるが、議事の区切りにあわせて休憩をはさみ、一定程度の秩序を持って議事が進行していく。野党の抵抗方法は定型化し、進行の先行きがある程度見通せ、事前に与野党で打ち合わせをしているか暗黙の了解をしていることがうかがえる。

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