分かりにくい「国会は国権の最高機関」 

分かりにくい「国会は国権の最高機関」

岸井和
2024.09.27

憲法41条において「国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である」とされている。

「国の唯一の立法機関」とは細かい解釈は様々あろうが一定程度の具体性があり理解はできる。分立した三権のうち立法権は国会に帰属することを定めている。しかし、「国権の最高機関」については抽象的であって明確性を欠き、その意味内容はにわかには理解できない。国会での論戦でも「国権の最高機関である国会」というフレーズは頻繁に使われるが、国会に対する枕詞のように用いられているだけで実質的に何を意味しているのかは、おそらく発言している本人も十分には分からないのではないか。

 

本当に国会は「国権の最高機関」なのか?

国権は国家の権力、統治権を意味し、ざっくり言えば立法権、行政権、司法権のことであろう。そのなかで、国会が最高機関というならば、内閣や裁判所よりも上位にあると受け取られかねないが、それは明確に三権分立に反している。明らかに、そこには明治憲法で言うところの「統治権を総攬」するような意味はない。国会が最高性を主張して行政や司法に立ち入って、税金の徴収や判決内容を指揮命令するようなことはありえない。

それでは、何をもって最高機関だというのか。一般的には大きく分けて単なる「政治的宣言」とする立場と「法的意味を持つ」とする立場がある。

前者は、国会が直接国民から選ばれた議員で構成される機関であるがゆえに最も大きな重要性が認められることを意味するにとどまる(美濃部達吉「新憲法逐条解説」、宮沢俊義「全訂日本国憲法」、芦部信喜「憲法」、長谷部恭男「憲法」など多数)といった、いわば政治的美称説である。

後者については、短いフレーズから法的意味を見出だそうとして様々な議論が展開されてきた。三権相互の総合的調整作用をなす機能を導くもの(田中正己「日本国憲法の基礎的論点」)、他の国家機関との関係において国会優位の権限関係を見出だそうとするもの(清水睦「国会」)、権限が不明なものについては国会に帰属するとの推定を与えるもの(小林直樹「憲法講義」)、並列関係にある国家諸機関のうち一番高い地位にあり、国政全般の動きに絶えず注意しつつ、その円滑な運営をはかる立場にあり、国会が国政全般について最高の責任を負う地位にあるとするもの(佐藤幸治「憲法」)や、国民代表機関としての国会が、とくに行政府との関係で国政を監視し、批判し、統制する役割を重視することから国政監視機関として国会は最高機関と位置づけられるとするもの(松井幸夫『国会の国政監督』(樋口陽一編「講座憲法学」))などがある。

しかしながら、これらの法的効果を持つという学説は複雑すぎてストンと私の腹には落ちない。制度的にみれば衆議院の解散は内閣がほとんど自由に決定でき、国会の立法に対しての裁判所の違憲審査権は絶対的であるように憲法上の運用が進められてきた。さらに、理屈はともかく実態を見れば、その情報量、調査能力、人的資源からして国会には国政全般について責任を負う能力はない。

国会は上意下達のヒエラルキー的な組織ではなく、相対立するメンバーからなる横並びの組織であり「多数決」がなければ議論はまとまらない(その格好の例は特別多数が議決要件ゆえ「多数決」に持ち込みにくい憲法改正であろう)。内閣総理大臣に対する信任、不信任によって間接的に国政全般に対する責任を果たしているともいいうるが、政府は与党多数党の支持を受けており、実際には日本のみならず先進国を見渡しても信任、不信任が効果的に機能するのは非常に希な事態である。日本では内閣不信任は単なる会期末の行事と化している(「悲しき内閣不信任」参照)。

国会の国政監督権は行政の民主的コントロールを維持するうえで重要な機能ではあり、しばしば政府の不祥事を追及して成果を挙げてはいるものの、与党(政府)にその運用はコントロールされているなか、野党の情報収集能力にも限りがあり、決定的な結果はなかなか得られない。そもそも国政調査権を最高機関の話と結びつける必然性があるのだろうか。あるいは、司法には国政調査権は及ばない。総合調整機能、権限帰属の推定と実態はかけ離れている。果たして国会が国政全般の中心的位置を占めているのか、これを最高機関としての論理へと展開させるのは納得できるものなのであろうか。国政の、少なくとも国会と内閣の総合調整機能を果たしているのは、憲法には出てこない政府と与党、すなわち政府・総理・官邸(政府の政策の立案と実行)―党・幹事長・国対(党の政策立案と国会運営)ではなかろうか。

 

なぜ国会は「国権の最高機関」になったのか?

憲法制定過程の当初、英国式の「議会主権(Parliamentary Sovereignty)」が意識されていた。議会制定法が国家の最高の意思であり、裁判所は違憲審査権を持たず、政府は議会の一委員会的存在である。日本の国会についても、GHQは「総理以外の国務大臣の任命も国会の同意を必要とし、最高裁の判決に対して国会が再審権を持って判決を破棄できる」という、まさに「国権の最高機関」として国会に強い権限を与える提案をしていた。しかし、これらは日本側との交渉、あるいは帝国議会の審議の中で修正され、姿を消した(大山礼子「日本の国会ー審議する立法府へ」)。この過程で最高機関の持つ意味は変質したと言わざるを得まい。

憲法担当の金森徳次郎大臣は「国会の立法権が司法権、行政権よりも高位にあるといふ意味ではなくて、国会は至高のものであるところの国民の総意を集めてゐると言う意味を表はす為に『最高機関』と言ふ表現を用ひた」とし、帝国議会においても「……詰り國民は主權の主體である、併し機關としては、色々な國家の働きを擔任する部分としては、其の國民を背景に持つて出來上つて居る議會が最高であると云ふことは、自然のことであります、之を本と致しまして、例へば内閣は國會の意思を基本としてのみ存在し得るのであると云ふことになる譯であります、裁判所は其の意味に於きまして、國會から抑制はされませぬけれども、結局國會が作つた法律を其の儘尊重して、裁判をすべき立場にありまするが故に、國會最高と云ふことが言へるのであります、……」(第90回帝国議会 衆議院帝国憲法改正案委員会第17号 昭和21年7月19日)と答弁している。

ただ、前述のとおり修正を経て国会の権限は大幅に縮小されつつも、「国権の最高機関」という言葉は残り、現在に至るまで解釈上の混乱が続いている(長谷部恭男編「注釈日本国憲法(3)」〔宍戸常寿執筆部分〕)。

 

「国権」とは何か?

そもそも国会の持つ「国権」の意味も分かりづらい。国権とは権力なのか、権能なのか。国会の大きな役割として内閣総理大臣の指名、法律の制定、予算や条約の承認がある。これらはデュープロセスとして民主的正当性を確保するうえで国会の関与は絶対的に必要である。

しかし、国会は総理を指名できるがその後の内閣の構成や行政上の権限はない。立法権という国民に義務を課し権利を付与する大きな権力を持つが、誰かに強制して法に従わせる権力は基本的にない。何らかのルールを守らせ、逮捕することも、税を払わせることも、強制的に法を適用し、罰則を科することもできない。国民の権利や義務を定めるがそれを実効あらしめるのは行政や司法である。

強制できるのは内閣不信任可決(解散か総辞職)、政府の国会出席、議員の懲罰や証人喚問の出頭程度である。議論の府であり、近世の英国議会に見られたような統治権上の権力を行使することはおそらく憲法違反でもあろう。実態的に見れば、内閣総理大臣の指名は事前に多数党(自民党)の党内手続きで決まっている(例外は細川政権や村山政権のような連立政権)。総理指名の際に国会では何の議論もせずに直ちに選挙を始めるのは議論しても意味がないからだろう(早急に総理を決めなければ行政の遅滞を招くのは理解できるが、最重要議事に際して議論が全くないのはいかがなものか)。

法律は議員立法もあるが成立するのはほとんどが政府提出法案である(例えば、今年の通常国会では議員立法は8件、政府提出法案は61件の成立)。もちろん議論の過程は重要であり、その結果法案が修正されることもあるが、修正内容は施行期日の修正、数年後の見直し、国会への実施状況の報告義務などがほとんどであり、政府提出法案の根幹にかかわることは少ない。

予算や条約は政府しか提出権限がない。条約については事実上国会は修正もできない(学説は違うものもあるが実務上は修正権はない)。追認するか否かの選択肢しかない。

つまり、乱暴な言い方であるかもしれないが、実態的には国会の仕事は政府が提案したことを議論して認めることである。これにより憲法上の、民主的な正当性を与え、権威付けをすることとなり、政府は専制的ではないとのお墨付きを得られることになる。論理ではなく、実態としての国会の仕事は議論をした上でオーソライズすることにある。実質的には国会はその権能を使うことによって権力というよりは権威(付)の府として活動している。もちろん権威主義的統治機関という意味ではなく、民主的権威付与のための統治機関である。これは戦後約80年にわたって築かれてきた憲法慣行であり、この慣行を変更することはよほどの事態がない限り困難である。「国権の最高機関」に法的意味を持つと解する学説にはその「よほどの事態」に備えての理論準備があるのかもしれないが、実態を無視した空理空論にもなりかねない。

 

やはり「国権の最高機関」は国会に対する政治的美称?

ひるがえって最高機関という意味を改めて考えると、①国会はまず主権者から選挙によって選ばれた議員から構成される、②議員はその中から、内閣総理大臣を選出し、総理が内閣を組織する、③その内閣は最高裁判所長官を指名する。すなわち国家の統治機構は国民の負託を得た国会を起点として内閣、裁判所へと順次形成されていくこととなる。国会は統治機構を形成していくうえで、一番川上の立場を占めているわけで、権威ある最高機関として、いわば政治的美称として評価できるのではなかろうか。

国会はしばしば批判される「多数決」によって意思を決定するしかない意見の一致が得られない分裂した組織である(これは多様な意見の反映をすることには役立つが)。しかもそれを構成する国会議員の当選への執念や金銭感覚は普通ではなく、一般の社会組織と比べて逮捕される構成員の比率が多い。それでも国権の最高機関と称されている。

民主主義は不完全なシステムではあるが、国家機構を形成するうえでそれ以外の賢明な手段は見当たらず、しかも民主主義を直接に反映している国家機関は国会しかない。民主主義国家では民意を代表する議員からなる民意を反映する機関というのはアプリオリな重要性、権威があり、その権威を源泉として国会は国の統治機構やその行為の正当性を包括的にオーソライズする。具体的な法的意味はないとはいえ、国会が「国権の最高機関」と称される意義は存在するということか。

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