National Diet? -ダイエット(日本の国会)は通じない?-

国会議事堂

National Diet? -ダイエット(日本の国会)は通じない?-

岸井和
2022.2.21

ナショナル・ダイエット

日本の国会は、National Diet of Japanと英語表記されている。このダイエットという言葉は問題があり、一般の英米人に対して意味が通じないことも多い。「ナショナル」をつけなければほぼ100パーセント通じない。食事制限のダイエットを想起させることが多く、国会にはつながらない。国会の英語名をダイエットとする国は少なく、ParliamentやCongressを使用することが多い。

 

ターク

では、なぜダイエットなのか?それは明治憲法下の帝国議会がImperial Dietという英語名を使っていたことによる。占領軍は憲法改正とともに議会制度を変革したが、国会の英語名にはあまり関心がなかったように思われ、インペリアルをナショナルに変更しただけであった。さらに、インペリアル・ダイエットのもとをただせば、帝国議会のお手本となったプロイセン帝国議会の名称、Reichstagを英語にしたものある。ドイツ語のReich(ライヒ)は「帝国」、tag(ターク)はもともとは「日」の意味であるが、のちに「議会」の意味も持つようになる。英語のダイエットの用法はラテン語の語源に由来し、ドイツ議会の呼称に充てたものとされる。

すでに12世紀にはドイツ圏の議会はタークと呼ばれていた。「日」を意味するタークが「指定された日に会議する議会」という意味として用いられるようになっていた。「(指定された)日」が「議会」となった背景は、国王が一定の日を定めて議員に召集することを命じたことによろう。議員は自発的に議論するというよりは、国王の命に従い集まって国王からの諮問事項を協議しなければならなかった。議員は好むと好まざるとにかかわらず、主権者である国王の諮問に応じる義務を負っていた。特に神聖ローマ帝国、プロイセン帝国における議会の位置付けは、国民が代表を選んで自らの権利を主張するための場というよりは公共の問題を審議し、公共の事項を処理するが、最終的には国王の意思を追認する場としての性格が顕著であった。

 

タークがダイエットに

一方で、ダイエット(議会)は中世ラテン語のdieta(指定された日)及びdies(日)という言葉に関連して生まれたものとされる。同じ由来を持つフランス語のdieteがドイツ語のタークを翻訳するために用いられ、16世紀前半には議会(主としてドイツ議会)の意味も持つようになる。16世紀末になると、タークを英訳する際にもフランス語と同様の起源を持つダイエットという言葉が転用された。「日」というドイツ語が「議会」を意味し、その「日」という用語にあわせて「議会」の意味を持つようにした翻訳借用語である。つまり、ここでダイエットは指定された日、集会、会議、議会といった意味を持つようになる(なお、食事制限を表すダイエットとは語源が異なる。こちらはラテン語ではdiaetaで、中世英語ではdieteであり、似てはいるが別の言葉である。現代英語では同じ表記になってしまった)。

ところで、ドイツの議会がダイエットと英訳された16世紀、英国では絶対王政が敷かれ、議会の権限は強くはなかった。議会は毎年開かれるわけではなく、女王の必要に応じて召集された。しかしながら、英国ではパーラメントという言葉が使われていた。フランス語のパーラー(話す)という言葉から来ており、議員が活発に話し合いをするというニュアンスが感じ取れる。当時の国王の権力は強かったが、それでも議会の顔色は窺うという伝統があった。17世紀の市民革命によって議会の権限は強まり王権を越えるようになり、パーラメントという名称に実質が伴うこととなる。いずれにせよ、ダイエットという言葉は選ばなかった。

 

プロイセン式の帝国議会

日本の近代化は遅れて19世紀後半に議会が始まる。西洋列強に追いつくためには、統治機構の整備と富国強兵は速やかに行わなければならない。しかし、明治の先達は行政府の整備は慌てて進めたが、議会の設立には躊躇があった。議会を始めとする立憲体制の必要性は認識していたものの、民度が低いなかで政府に抵抗する民党の発言権を認めれば、国力の低下、富国強兵の著しい障害になると考え、議会は時期尚早と引き延ばしを繰り返した。それでも、政府の内外、社会全体の立憲体制を求める根強い潮流を押しとどめることはできず1881(明治14年の政変)には国会開設を約束せざるを得なくなった。

したがって、1890年に帝国議会を開設するにあたって、政府が議院内閣制の英国式(パーラメント)をとるのか、王権の強いプロイセン式(ダイエット)をとるのかの結論はほぼ明らかであった。天皇を中心とする国家体制にとって、英国流のパーラメントは急進的すぎる。議員となった粗野な民権運動家が総理大臣の選任に関与してはならない。天皇を中心として行政機関と立法機関は別々に存在していた。議会という体裁は整えるが、政府は議会に対し超然主義をとる。パーラメントは天皇主権と富国強兵を危うくするかもしれない議院内閣制を想起させる言葉であったかもしれない。憲法草案のときから既にドイツ語のタークという用語が見られ、それに合わせて帝国議会の政府英訳も必然的にインペリアル・ダイエットとなった。

議会に関する諸制度は表向きとは異なりなるべく万機公論に決しないように仕組まれていた。帝国議会の召集は天皇大権である。帝国議会側から召集を求めることはできなかった。立法権は天皇に属し、帝国議会はそれに協賛する存在である。まず政府提出法案から審議しなければならない。予算を否決してはいけなかった。貴族院という体制変革の危険性への防波堤もつくった。

 

帝国議会の活動期間

議会制度においてわけても重要なのは帝国議会の常会の期間は年にわずか90日しかなかったことである。毎年12月から翌年3月までであった。会期を延長したり臨時会を開くこともできたが、それは政府の都合によるものでしかなく、それもなるべく避けられた。常会は会期が延長されたとしても、戦後期の議会を除けば数日でしかない。議会の活動は短期間で、政府の必要以上に活動できないようになっていた。

議会開設後間もなく、議席を持った民党の力はあなどれず、「政費節減」「民力休養」を掲げ、政府の膨張政策に異議を唱え抵抗した。政府は議会からの攻撃にあっても、しばらくの辛抱であり、あるいは90日間しかない議会を停会にしてサボタージュし、さらに窮したときには天皇の詔勅を発して議会を宥めるか、議会を解散して対抗した。

時代とともに議会の政党化が進み大正時代の一時期には疑似議院内閣制が生まれた。依然として総理大臣の選任は大命降下で決められ議会がそれに直接関与することはできなかったが、政府を安定的に運営するためには議会の協力、特に衆議院での勢力確保が必須の条件となる。だが、この時期においてすら議会の会期はほぼ90日間であった。

明治憲法制定時の英国議会は1月下旬か2月上旬から8月上中旬までの7か月程度が通常であった。当時は無給の英国議員の方が働いており、農閑期の季節労働者である日本の議員の方には歳費が出ていた。英国では首相の任命も議会運営も政党間の駆け引きによる部分が大きくなり、日本のように年に三か月の活動期間では無理があった。

日本の場合、先進一等国としての体面を保つために議会を設置したが政府の用務以上のことはなるべく活動しないでもらいたいとの制度設計が周到にできあがっていたのである。

 

特定の日に集まるよう命じられる議会(=ダイエット)

日本も第二次大戦後になると、帝国議会は国会と改められ唯一の立法機関となり、それに伴って議会の活動期間は長くなり、議員の地位も高くなる。だが、国会を意味する英語はインペリアルはナショナルに改められたもののダイエットが引き続き使われた。また、形式的には天皇による一定の期日の召集命令も旧憲法下と同じように続いた。

国会の召集は現在でも戦前と同様に詔書の形式で行われている。「憲法と国会法によって〇月〇日に国会の常会を東京に召集する、御名御璽」となる。旧憲法下では詔書については公式令によって定められており、天皇の大権の施行に関する勅旨を宣するものであった。現在では詔書とは何なのかはっきりした定義はないが召集行為について戦前の形式を引き継いでいる。つまり(法的には定義が不明な)詔書によって天皇の命により日付と場所を指定して国会を召集することになっている(もちろん天皇の実質的権限は明らかに異なっているが)。

ダイエットという用語には、議会はお上の都合で集められるもので、その活動期間は制限的なものであるとの含意が読み取れる。議会は主体的ではなく受動的な存在である。議論の場というよりは命令されて集められた場である。現在のドイツ議会の正式名称はダイエット(ターク)の流れをくむブンスタークではあるが、英語表記ではパーラメントと書き換えられている。いずれにせよ、ダイエットは一般的には意味の通用しにくい言葉であり、制限的議会の意味合いも込められている印象があるので、他国では避けられるのかもしれない。国会の英訳はその国の議会の伝統、性格を表現しているという意味はあろうが、日本の国会は帝国議会時代から変わらずにダイエットを維持し続け、それが伝統的性格となって残っているのではないだろうか。

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