Prime Minister、 首相、内閣総理大臣
岸井和
2024.11.11
日本の内閣総理大臣は英訳するとPrime Ministerとされる。日本語の重々しい漢語の名称に比してPrime Ministerは何となく軽い感じがする。逆にPrime Ministerを和訳して内閣総理大臣とするのも違和感を持つ。
Prime Ministerを直訳すれば首相であろう。相は「たすける」の意味で、古来の中国では天子を助けて国務を司った丞相、宰相という役職、つまり大臣(相)が存在し、君主を補佐する大臣のトップということから首相という言葉が生まれた。現在の首相という用語は慣用的、時事用語として使われ法的用語ではない。外相、財相などという使い方も同様である。また、慣用として内閣総理大臣を宰相ということもある(たとえば、原敬を平民宰相というように)。
大臣とMinister
大臣とMinisterであるが、どちらも上位にいる者に仕える者という意味である。
日本の大臣という用語は古墳時代から見られ(「おおおみ」)、律令制度下での太政大臣(だいじょうだいじん)、明治維新後の太政官制の下での太政大臣(だじょうだいじん)、内閣制度発足後の国務大臣など、古代から現在にまで使われる用語であるが、いずれも天皇などに仕え、政務の重要事項を決定する高位の奉公人、家来ということになる。
一方で、Ministerは、召使、従者などを意味する古期フランス語、ラテン語から由来し、大きな存在に仕える小さな(minus)人(ter)ということである。Prime Ministerは国王の第一の召使first servantという意味でもある。 従って大臣とministerは本来的に似通った言葉であり、江戸時代において既にministerに大臣の訳を充てていた1)堀達之助 英和対訳袖珍辞書 1862年(文久2年)(日本最初の英和辞書とされる)。 ministerの訳として「大臣、宰臣、王公ノ国事ヲ裁判スル為ニ寄任セラレタル人」などとある。堀は江戸幕府の役人、通詞。。
内閣総理大臣とPrime Minister
内閣総理大臣という用語は明治時代、太政官制度から内閣制度への移行に際し内閣職権において最初に現れた(1885年太政官達第69号)。さらに、明治憲法発布にあわせて内閣官制が制定されると、ここで内閣総理大臣の地位や権限が改めて定められた(1889年勅令第135号)。内閣を総べ理(おさ)める大臣として近代国家を目指す明治時代に制度として誕生した。ただし、明治憲法には内閣総理大臣を規定した条項は存在せず、名称も出てこない。現行憲法においてはその選任方法、職務権限などが定められるようになった。
それでは、内閣総理大臣を英訳する際、当初からPrime Ministerが当然のごとく使われたのかというと、必ずしもそうではないようである。伊東巳代治の憲法義解の英訳2)伊藤博文著 伊東巳代治訳 COMMENTARIES ON THE CONSTITUTION OF THE EMPIRE OF JAPAN 英吉利法律學校 1889年ではMinister President of Stateを使用し、三省堂の新式日英辞典3)新渡戸稲造、高楠順次郎共編 新式日英辞典 三省堂 1905年。なお、本辞典では太政大臣がPrime Minister of Stateとされている。ではMinister President of State、Prime Minister、Premierの順に記載されている。明治期は国家体制の根幹もドイツを倣ったことから(「National Diet?-ダイエット(日本の国会)は通じない?」参照)、ドイツ流のMinister President(「大臣主席」と訳されることが多い)が比較的多く使われていた(Prime Ministerは太政大臣と訳されることもあった)。しかし、各国の内閣制度を比較しつつ、英訳した場合の意味や語感、あるいは実質的に内閣総理大臣と似通った役割を果たしている者の名称から試行錯誤したうえで、時間の経過とともに次第にPrime Ministerが定着していき、現在では公式にもそれが充てられている4)1902年の三省堂の新訳英和辞典ではprime ministerは首相とのみ訳されている。他方で、現在では総理大臣、首相と訳されている。「内閣」総理大臣とまで訳さないのは辞典筆者の苦心の跡を感じさせられる。
その後、三省堂の辞典では1916年のInouye’s Japanese-English dictionary = 新譯和英辭典25版(井上十吉編)を最後に内閣総理大臣の訳にMinister President of Stateを充てたものは見当たらなかった。。
他方で、英国のPrime Ministerという用語は法制度的に定められたものではない。18世紀の初めころからは、内閣で最も主要な立場を占める大臣はFirst Ministerと呼ばれ、あるいはPrime Ministerとも呼ばれるようになった。当時の大臣は例えばFirst Lord of Treasury(第一大蔵卿)のように仰々しい名称がつけられていて、Prime Ministerは宮廷で使われる通称でしかなく、大臣中の第一人者first among equalsというだけで、職務権限を定めたものはなかった5)従って、正式な大臣としての地位を保持するために必ず大蔵第一卿となるのが例である。。
1721年にウォルポールが最初のPrime Ministerとなったとされ、これを機に普通名詞が固有名詞化した。だが、本人はこの軽い名称を嫌っていた6)岸本俊介 最初の首相ロバート・ウォルポール 丸善出版 2017年。その後も長らく正式な名称とは言えず、初めて公式の文書に出てきたのは1878年のベルリン条約の署名であり、正式に法律の中に名称が登場するのは1917年7)Chequers Estate Act1917。Prime Minister在任中にチェッカーズ領地(英国首相の公式別邸)の使用権を認めるもので、Prime Ministerの権限等を定めるものではない。である。Prime Ministerの方が歴史は長いが、内閣総理大臣はまず法的に規定された。
内閣総理大臣とPrime Ministerは同じなのか?1
それでは、なにゆえに1721年なのか。それは、この年に、ウォルポールが国王からの信任、議会からの信任を得つつ、内閣を統轄的に運営するようになったからである。国王や議会の信任を得るということは逆に言えば国王や議会をコントロールすることができるようになったのである。それまでは、国王の信頼は得ていても政敵が存在し騒々しい議会からの信任は必ずしも得られず、国政を安定的に遂行することはできていなかった。だが、この年にウォルポールは、その行政能力、国王からの厚い信任、金銭やポスト配分を利用して初めて議会(特に下院)を支配下に置くことに成功したのである(ただし、その後のPrime Ministerは必ずしも国王や議会の信任を得られたわけではないが)。
明治期の内閣総理大臣は天皇から任命され、天皇を国務大臣として輔弼した。だが、議会での選任手続きはなく超然内閣を主張しても、議会との関係は不安定で、天皇の助力に頼むか、議会を解散することで乗り切った。ドイツ式の王権の強い、制限的議会を目論んだが、それでも、内閣総理大臣にとって天皇からの信任はもちろん、議会への責任は避けられず、ドイツ流のMinister Presidentは英国流のPrime Minister化せざるを得なかったともいえよう。その後、日本も政党政治へと変化し、内閣総理大臣の議会からの信任の重要性を認識していった。
内閣総理大臣とPrime Ministerは同じなのか?2
内閣総理大臣をPrime Ministerと訳すとしても、Prime Ministerを内閣総理大臣と訳すことは難しい。
英国のPrime Ministerを含め、ロシアの連邦政府議長・Председатель Правительства Российской Федерации(Prime Minister)、 ドイツの連邦首相・Bundeskanzler(Chancellor=Prime Minister)、中国の国務院総理・国务院总理(Premier)、韓国の国務総理・국무총리(Prime Minister)など各国首相は内閣総理大臣とは訳すことには困難を感じる(そもそも内閣制度ではない国もある)。英国のPrime Ministerも外務省のホームページでは「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国首相…」と紹介されており、内閣総理大臣と訳されていない(外務省の「各国の元首名等一覧表」によれば首相を総理大臣と訳しているものはない)。内閣総理大臣は日本独自の制度の枠内で選任方法や職務権限が法規で規定され、外国とは制度的に異なっている。例えば、人事権も行政権も国家主席が持つ中国で国務院総理を内閣総理大臣と訳したら誰しもが無理だと感じよう。
とはいえ、各国とも首相とは訳す。都合がいいことに、Prime Ministerは英国では固有名詞化されているにもかかわらず、その選任方法、権限が明確に定義されていないことから曖昧模糊とした存在でもあり、それがゆえに他国の「首相」Prime Ministerについても定義を深く考えることなく使用される。両者ともに上位者に任命されて国政を中心になって司る存在に対する(英国を除いて)普通名詞と化しているのである。国王か天皇、大統領などー実権があるか形式的なものかはさておきーが任命し、通常の行政を担うのが首相とされる。その権限は上位者との関係で限定的な場合もあり、国政全般にわたる場合もある。とともに、国家の最高権力者であるか、ないかなど決定的に異なる存在なのである。
脚注
本文へ1 | 堀達之助 英和対訳袖珍辞書 1862年(文久2年)(日本最初の英和辞書とされる)。 ministerの訳として「大臣、宰臣、王公ノ国事ヲ裁判スル為ニ寄任セラレタル人」などとある。堀は江戸幕府の役人、通詞。 |
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本文へ2 | 伊藤博文著 伊東巳代治訳 COMMENTARIES ON THE CONSTITUTION OF THE EMPIRE OF JAPAN 英吉利法律學校 1889年 |
本文へ3 | 新渡戸稲造、高楠順次郎共編 新式日英辞典 三省堂 1905年。なお、本辞典では太政大臣がPrime Minister of Stateとされている。 |
本文へ4 | 1902年の三省堂の新訳英和辞典ではprime ministerは首相とのみ訳されている。他方で、現在では総理大臣、首相と訳されている。「内閣」総理大臣とまで訳さないのは辞典筆者の苦心の跡を感じさせられる。 その後、三省堂の辞典では1916年のInouye’s Japanese-English dictionary = 新譯和英辭典25版(井上十吉編)を最後に内閣総理大臣の訳にMinister President of Stateを充てたものは見当たらなかった。 |
本文へ5 | 従って、正式な大臣としての地位を保持するために必ず大蔵第一卿となるのが例である。 |
本文へ6 | 岸本俊介 最初の首相ロバート・ウォルポール 丸善出版 2017年 |
本文へ7 | Chequers Estate Act1917。Prime Minister在任中にチェッカーズ領地(英国首相の公式別邸)の使用権を認めるもので、Prime Ministerの権限等を定めるものではない。 |
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