国会の攻防(13)
昭和50年代③―値上げ三法案、日韓大陸棚協定、沖縄駐留軍用地特措法案、ロッキード・政治倫理
岸井和
2020.11.24
値上げ三法案(第76回国会、1975年)
第76回臨時国会は、前の常会において廃案となった値上げ三法案の成立を最優先の課題として召集された。会期は二度の延長を含め、106日間と当時としては最も長期の臨時国会となった(国会の召集と会期(5)参照)。しかし、そもそも前の会期で成立寸前まできていたのに公選法改正案審議の余波で不成立となった法案のやり直しであり、また、与野党対立のために空転期間が非常に長く、充実した国会審議とは言えないものであった。前国会では三木総理の「対話と協調」姿勢が野党寄りであったことに対する自民党内の強い批判を収めるうえでも、また、歳入の不足を解消するためにも強行してでも三法案を成立させる必要があった。他方、前国会では足並みが乱れた野党は、社会党を中心としてまとまりを回復し、近づく総選挙との兼ね合いから国民の負担が増大する値上げ法案の阻止、物価高阻止で一致していた。
9月11日の国会召集以来、法案の取り扱い審議について与野党の国対レベルでの協議が続けられたが、2週間以上が過ぎても法案審議に全く入れなかった。政府・与党はこうした事態にあせりを深め、26日の夜に自民単独で衆議院議院運営委員会を緊急開会し、値上げ三法案等を本会議での趣旨説明を省略して各委員会に付託することを決めた。10月1日には、野党が審議に応じない以上はやむを得ないとして、大蔵委員会と逓信委員会を開会し、与党だけの簡単な質疑をしたうえで、酒、たばこ、郵便の値上げ三法案を一気に採決に持ち込んだ。野党各党は、委員長職権による委員会開会、単独審議、強行単独可決に憤り、一切の国会審議に応じない方針を決めた。前国会では衆議院では円満に審議が進んだ法案が、運営の行き違いから、この国会では対決法案となってしまった。
与野党の膠着状態に対し、前尾繁三郎衆議院議長は9日になって「値上げ三法案については補正予算の審議に入った後の本会議において議長が処理する」などの裁定文を示すとともに、あわせて「三法案の処理は再来週中(※筆者注:25日(土)まで)に処理いたしたい」と口頭で説明した。補正予算は災害、不況対策や公務員給与に関わるもので野党も早期に審議したいところであり、三法案については一時的に棚上げされることになることから社会党と民社党は裁定を「尊重」するとしたが、共産党と公明党は「遺憾」との態度であった。自民党は国会が正常化され、三法案の衆議院通過のメドがたったことから「値上げ優先」の主張が通ったものとしてこれを受け入れた。16日の衆議院議院運営委員会では、9月26日の職権開会、法案付託について田澤吉郎委員長が陳謝した後、三木総理が出席し、仮谷忠男建設大臣の失言問題に関し異例の質疑及び質疑を行った1)これ以降で内閣総理大臣が衆議院議院運営委員会に出席して質疑を行った例は、令和2年4月7日のコロナ国会における新型コロナウイルス感染症緊急事態宣言の事前報告に関する件まで45年間なかった(国会に会期は必要なのか?参照) 。これは表向きは社会党の要求であったが、実際には補正予算審議入りのために自民党が策を授けて、社会党の顔を立てたものであった2)1975.10.16朝日新聞。
値上げ三法案は、補正予算審議中の24日に衆議院本会議に上程された。しかし、野党は補正予算の審議中断は避けるべきだとして本会議の開会に反対した。再度の廃案に危機感を持つ自民党は、この日の本会議は絶対に譲れなかった。野党は徹底的な審議引き延ばし作戦をとることで合意し、本会議を決めた田澤議院運営委員長の解任決議案、強行採決をした地崎宇三郎逓信委員長解任決議案、上村千一郎大蔵委員長解任決議案、法案を所管する村上勇郵政大臣不信任決議案、大平正芳大蔵大臣不信任決議案を提出した。
前尾議長不信任決議案については、共産党と公明党が提出を主張したものの、社会党が「裁定を尊重する」立場をとった経緯から見送られた。代わりに、議長を補佐する立場にある議院運営委員長解任決議案が本会議開会を強行したことを理由に提出されたのである。議院運営委員長解任決議案はこれまでにも提出されたことはあるが、いずれも撤回されて採決に至ったことはなかった。しかし、この例を最初として、本会議の強行開会に伴い提出、採決されることがしばしば起こるようになっていく。
10月24日午後7時前からの本会議は、田澤議院運営委員長、地崎逓信委員長、上村大蔵委員長の各解任決議案、村上郵政大臣、大平大蔵大臣の両不信任決議案の審議、それらの審議に伴う発言時間制限の動議、質疑や討論終局の動議、採決ごとに牛歩が繰り返され、徹夜国会となり、値上げ三法案は翌25日の午前11時近く、約16時間をかけて可決された。衆議院で時間を稼ぎ、参議院段階での時間切れを狙っていた。
参議院の委員会審査も野党の抵抗にあい、遅々として進まず、11月20日になって大蔵委員会で酒、たばこ法案の採決を強行、混乱のうちに可決すると、同じ日に自民党は両院議長に12月20日まで26日間の会期延長を申し入れた。野党は法案の強行採決は不当とし、会期延長に対しても強く反対、全面的な審議拒否に出ることとした。会期延長の件は22日に衆議院でのみ議決された(社公は欠席、民共は反対)。国会の外では公労協のスト権ストが始まり国民生活が混乱する一方で、国会の審議も空転が続く。
12月9日になって、河野参議院議長は与野党を招き、酒、たばこ値上げ法案を12日の本会議で処理するよう要請した。委員会採決から20日近くも棚ざらしになっていること、他の法案の審議も残っていることなどから「要請」という形で提案し、それと同時に委員会審査の経緯を考慮し本会議で質疑、討論を行うことを提案した。
12日の午後5時半前から始まった参議院本会議では、河野議長不信任決議案、大平大蔵大臣問責決議案が否決され、午後11時半近くに延会となった。議長不信任案決議案については共産党のみの提出であり、短時間で起立採決の結果否決されている。
翌13日午前10時過ぎからの本会議では、桧垣徳太郎大蔵委員長解任決議案を否決した後、酒税法改正案とたばこ定価法改正案の審議に入った。値上げ二法案については、両案を委員会に再付託する動議、酒類原価の資料提出要求動議、審議のため議員派遣を行う動議、たばこ価格に関し証人喚問を求める動議、たばこ原価の資料提出要求動議などが提出された。基本的には動議の内容には制約はない。野党としてはこれまでにない趣向を凝らした動議を提出して遅延作戦に出た。
値上げ二法案が可決、成立したのは午後11時過ぎとなったが、この間、徹夜にはならなかった。河野議長の徹夜はしないとの方針もあり、野党もその方針に従った。徹夜をしたならば消費したであろう時間を計算し、その分を休憩時間に充てて日程を組んでいたことになる。値上げ二法案の議事に終局動議は提出されず、自民は野党各党の質疑の申し出を全て受け入れ、議長の要請に従って審議を行ったという体裁をとった。野党は、前の国会から反対してきた値上げ法案に引き続き反対を貫いたことをアピールできれば十分ということであった。最後の値上げ法案採決の際には牛歩も行わず、予定調和的に日付が変わる前に可決され、緊迫感に欠ける抵抗戦術であった。
残りの郵便料金値上げ法案は、18日に社会党委員長の下で整斉と採決され、22日の本会議において平穏に議了した。
なお、混乱収束後、国会を総括するような意味合いで社会、共産、公明の共同で提出された三木内閣不信任決議案は、12月19日の衆議院本会議で否決されている。
③日韓大陸棚協定3)日本国と大韓民国との間の両国に隣接する大陸棚の北部の境界画定に関する協定及び日本国と大韓民国との間の両国に隣接する大陸棚の南部の共同開発に関する協定の締結について承認を求めるの件、沖縄駐留軍用地特措法案4)沖縄県の区域内の駐留軍用地等に関する特別措置法案。修正議決された結果、法律名は「沖縄県の区域内における位置境界不明地域内の各筆の土地の位置境界の明確化等に関する特別措置法」となった。当時、一般的に沖縄地籍法案と呼ばれていた。(第80回国会、1977年)
1976年12月には衆議院議員の任期満了に伴う総選挙が行われ、自民党の敗北の責任を取って三木内閣は総辞職し、代わって福田赳夫内閣となった。国会の構成は公明党、民社党が議席を増加させ、新自由クラブの躍進が目立った。保革伯仲の状況は続き、福田総理は国会においても「協調と連帯」を掲げ、話し合いの精神を強調せざるをえない状況であった。
第80回国会は福田内閣の最初の本格的国会であったが、ここでの懸案は日韓大陸棚協定と沖縄駐留軍用地特措法案であった。
日韓大陸棚協定は大陸棚の境界画定(北部)、共同開発(南部)を取り決めるものであった。日韓の癒着、海洋法上の問題、中国との関係などを理由に民社党を除く野党は反対していた。本協定は1974年の第72回国会に初めて提出されたが、たびたび審査未了となり、改めて提出されたものである。日韓関係を考慮すべきものの、期限のある案件ではなく、与党も承認を急いでいたわけではないので遅れ遅れになっていた。しかし、4月27日には、民社党を除く4野党が欠席するなか外務委員会で強行採決が行われる。与党は翌日の本会議に上程することを望む。野党は協定の自然承認を狙ったもので参議院の審議権を奪うものだと強く反対した。これを受けた保利茂衆議院議長の裁定により本会議上程はゴールデンウィーク明け、つまり5月28日の会期末まで30日を切った時点まで凍結することで決着した。
沖縄駐留軍用地特措法案は、区域内の土地の位置境界を明確化するとともに、基地用地の使用期限を5年間延長するものである。野党は公用地等の暫定使用の延長は基地の永久固定化を招くものであるなどとして反対していた。根本には沖縄に対する差別と犠牲の問題があった。本法案は、駐留軍用地の使用期限が切れる5日前の5月9日に内閣委員会で社会党、公明党、共産党が欠席するなかで修正議決された。協定も特措法案も、自民党は民社党を野党陣営から切り離すことに成功した。
かくして、5月10日午後7時過ぎからの衆議院本会議は、日韓大陸棚協定と沖縄駐留軍用地特措法案が審議されることとなる。協定は議長裁定による合意に基づき、時間はかかったが混乱もなく、委員長報告の後、質疑、討論が行われ、起立採決の結果、承認すべきものと決した。民社党は総理への質疑において、自民の強引な委員会運営に対しては「連帯と協調」に反していると批判し、その後の討論においては議案について賛成の意を述べると他の野党から抗議の声が上がった。
なお、日韓大陸棚協定は、会期最終日の28日に衆議院で6月9日まで12日間の会期延長が議決され、衆議院通過30日後の6月8日の終了とともに憲法61条の規定により承認が確定し、実際に参議院は議決せずに自然承認となっている。
協定の承認後、引き続き特措法案の審議に入った。社会党と共産党は正示啓次郎内閣委員長解任決議案(社会党単独提出)、三原朝雄防衛庁長官不信任決議案、藤田正明総理府総務長官・沖縄開発庁長官不信任決議案を提出し抵抗戦術をとったため、徹夜国会となり、翌11日の午前9時前まで続いた。しかし、牛歩も行わず、徹底した抗戦ではなく、参議院選挙を見据えた、出来合いレースであった。
参議院の内閣委員会でも5月17日午後に特措法案の強行採決が行われた。これを受けて河野議長は手際よくその日のうちに「委員会において補充質疑を行う、本会議において円満に審議を尽くす」とのあっせん案を示し、共産党、二院クラブを除いて受諾したため、翌日には成立した。野党にとっても審議を遅延させて無法状態のまま土地使用を続けることは現実的な選択肢としてはありえなかった(ただし、5月14日に使用期限は切れていたので、4日間は法の空白が生じている)。
④昭和50年代の攻防
大平内閣、鈴木善幸内閣を経て、1982年には中曽根康弘内閣が成立する。中曽根内閣が田中派の圧倒的な力の下で誕生したこと、また、1983年10月に田中角栄に対し受託収賄罪で有罪判決が出たことから田中の影響力の排除、政治倫理の問題がクローズアップされていく。中曽根は国内の課題として行財政改革を掲げ、電電公社、専売公社、国鉄の民営化を着実に進めていく。これは公労協の弱体化につながり、社会党にとって大きな打撃となるものであったが、この間、国会では法案審議を巡って混乱に陥るほどの事態は生じていない。1979年の大平総理の一般消費税構想は総選挙で国民の反発により撤回され、国会の日程にはのぼっていなかった。
三木内閣の値上げ二法案の混乱の後、昭和50年代には大平内閣不信任決議案の可決という大きな事件はあったものの、これは与野党の対立というよりは与党内の造反の問題であり、与野党の関係でいえば、大きな混乱はなかった。保革伯仲であり、与党としても何度も強硬姿勢をとることは困難であった。三木は「対話と協調」、福田は「連帯と協調」を繰り返した。したがって、昭和40年代は繰り返し徹夜国会が行われ、奇襲作戦も繰り広げられたが、50年代の本格的な徹夜国会は、衆議院では第76回国会(値上げ三法案)、第80回国会(駐留軍用地特措法案)、参議院では第75回国会(公選法改正案など)しかない。
また、公職選挙法改正案をめぐる自民党と社会党の一致は例外的なものとしても、自民党は主として民社党を抱き込んで伯仲状況を乗り切ろうとした。野党の結束を崩し、自民党の単独採決という批判を回避する上でも有効であった。さらには、新自由クラブは1979年の首班指名では大平に投票し、1983年には自民党と連立政権を組んだ。
1985年(昭和60年)以降、消費税の問題、自衛隊による国際貢献の問題で自公民路線、社会党外しが明確になるが、その布石ともなった時期である。
他方で、ロッキード事件はこの期間の与野党の攻防の大きな焦点となった。1976年には両院にロッキード問題に関する調査特別委員会が設置され、真相解明のための激しい証人喚問が繰り返された。
鈴木内閣の終わりのころ、1982年からは議員辞職勧告決議案が頻繁に提出されるようになり、この取り扱いが国会内での対立の火種となった。田中角栄の第一審判決が近づき、さらには1983年10月に実刑判決が下されると、野党は「議員田中角栄君の辞職勧告に関する決議案」を提出し、激しく与党を攻撃した。自民党最大の実力者に対する辞職勧告決議案は可決されなくとも採決の対象となるだけでも政治的インパクトはこの上なく大きい。野党はこれを狙った。しかし、この決議の法的効果はなく、決議をしても無視されれば議会の権威に関わる。これは自民党のイクスキューズとなった。辞職勧告決議案の採決を拒む与党に対して野党は法案審議を拒否して抵抗することで、問題は拡散した。
それでも、総選挙に追い込みたい野党は与党と妥協した。福田一衆議院議長と木村睦男参議院議長は、11月12日に審議中の法案の成立と引き換えに衆議院を解散するとのあっせん案を提示した。いわゆる田中判決解散の直前(第100回国会)で、この与野党のなれ合いに参加しなかった共産党は参議院議長不信任決議案を単独で提出5)共産党は衆議院では不信任決議案提出の要件を満たすだけの議席がなかった。し、「解散と引きかえに田中辞職勧告決議を棚上げ6)1983.11.28 参議院本会議録」と強く非難している。
この一連の疑惑解明、責任追及作業は、基本的には野党が主導権を握るものであり、法案審議のように政府与党の主導の議事とは異なっていた。野党は調査を推進する立場におり、抵抗して廃案や譲歩を勝ち取るというパターンではなかった。不信任決議案や動議を提出して牛歩を繰り返すという戦法はとれなかった。
一方の自民党は疑惑解明から政治倫理の確立へと目先を変えようとする。1983年には参議院に、同年末の解散総選挙を挟んで翌年には衆議院に「政治倫理に関する協議会」が設置された。これは1985年の「政治倫理綱領及び行為規範」の策定、並びに両院における「政治倫理審査会」設置に繋がることになる。
脚注
本文へ1 | これ以降で内閣総理大臣が衆議院議院運営委員会に出席して質疑を行った例は、令和2年4月7日のコロナ国会における新型コロナウイルス感染症緊急事態宣言の事前報告に関する件まで45年間なかった(国会に会期は必要なのか?参照) |
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本文へ2 | 1975.10.16朝日新聞 |
本文へ3 | 日本国と大韓民国との間の両国に隣接する大陸棚の北部の境界画定に関する協定及び日本国と大韓民国との間の両国に隣接する大陸棚の南部の共同開発に関する協定の締結について承認を求めるの件 |
本文へ4 | 沖縄県の区域内の駐留軍用地等に関する特別措置法案。修正議決された結果、法律名は「沖縄県の区域内における位置境界不明地域内の各筆の土地の位置境界の明確化等に関する特別措置法」となった。当時、一般的に沖縄地籍法案と呼ばれていた。 |
本文へ5 | 共産党は衆議院では不信任決議案提出の要件を満たすだけの議席がなかった。 |
本文へ6 | 1983.11.28 参議院本会議録 |
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