国会の攻防(18)

国会の攻防(18)
平成6年から平成17年 ―
政治改革、戦後50年決議、住専処理、預金保険法案、駐留軍用地特別措置法改正案

岸井和
2021.01.18

 

この11年間に与野党の対決法案などを巡って不信任決議案等が提出され、徹夜で国会の攻防が繰り広げられたのは、1999年の組織犯罪対策三法案1)組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律案、犯罪捜査のための通信傍受に関する法律案、刑事訴訟法の一部を改正する法律案、2004年の国民年金法改正案しかない。これは政権争奪戦、連立政権、不安定政権がしばらく続いたことや、新しい政党構成のなかで新しい戦術が求められたことなどによる。しかしそれでも、政治改革四法案2)公職選挙法の一部を改正する法律案、衆議院議員選挙区画定審議会設置法案、政治資金規正法の一部を改正する法律案、政党助成法案、戦後50周年決議3)歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議案、住専処理、預金保険法改正案、住民基本台帳法案、加藤の乱と55年体制とは異なる形でありながらも国会の混乱はしばしば起こった。

 

①政治改革四法案(1993年、第128回国会、細川政権)

新生党の小沢一郎が中心となって、非自民政権を作る、政治改革を完遂するという旗印の下に8党1会派が結集して1993年8月に細川内閣を作り上げた。細川内閣の最大の仕事は政治改革である。細川総理に対する国民の期待は大きく、その内閣が進める政治改革への熱気はすさまじいものがあった。自民党はこの雰囲気の中で、政治改革に真っ向から反対し、それを廃案にすることはできなかった。

第128回国会に細川内閣の提出した政治改革四法案は、衆議院を通過するが、参議院では否決されてしまう。与党でありながら「党が消滅してしまう」との危機感を持つ社会党議員のなかから造反が出たのである。内閣の最大課題が否決された。憲法の規定に基づいて、両院協議会が設置されたが、与野党の議論は平行線のままであった。そもそも両院協議会は衆議院の賛成会派と参議院の反対会派から構成されることから協議がまとまるはずのない欠陥制度でもある。だが、日本の将来のためには何としてでも選挙制度を変革しなければならないという熱気が両院協議会を機能させることになる。

土井たか子衆議院議長は細川総理と河野自民党総裁に与野党の協議機関で協議を続行することを求めた。社会党出身の土井議長はひとまず政治改革の棚上げを狙っていた。しかし、両者の会談で政治改革について合意をみてしまう。最大の問題は、小選挙区と比例区のそれぞれの議席数であった。自民党は自らに有利だと思われる小選挙区の議席数を増やしたかった。細川総理は自民党に大幅に譲歩し、与党案の「小選挙区250比例区250ではなく「小選挙区300、比例区200」で合意する。それを受けた両院協議会で成案が決定、会期終了日の1994年1月29日に各院で可決された。両院協議会での成案決定は41年ぶりであった(その後も成案が得られたことはない)。法案内容の細部については政治改革協議会4)第121回国会(1991年)の会期終了日に政治改革法案の廃案と引き換えに与野党間で設置された組織(国会の攻防(16)参照) で詰めたうえで、次の国会で法律が改正された。

政治改革問題は、その方針を否定できるような雰囲気ではなく、さらには単純な与野党対立ではなく、与党内、野党内にも意見の相違があり、戦術的に不信任決議案等を利用して抵抗することは不可能であった。細川内閣時代、野党である自民党が不信任決議案等を提出したのは、ガット・ウルグアイ・ラウンドでコメ貿易の国内市場を部分開放することを合意したときだけである。農家に対するアピールを示すため、参議院では畑英次郎農林水産大臣問責決議案を提出し(1994126日に1時間足らずで粛々と否決)、衆議院では羽田孜外務大臣、農林水産大臣不信任決議案を提出した。しかし、コメの開放問題は自民党政権の時からの課題であったものを細川内閣が処理の肩代わりをしたということでもある。会期終了日には自民党は衆議院の二つの不信任決議案については本会議に上程しないことで了解した。

政治改革法案が成立すると内閣の求心力は急激に衰える。国民福祉税構想の失敗、東京佐川急便からの借金問題により細川は総辞職し、羽田内閣ができる。この過程でさきがけは閣外協力に一歩身を引き、社会党に黙って与党統一会派の改新が突如として結成されたために、怒った社会党は連立を離脱した。これにより、非自民政権は衆議院の過半数を割り、存続基盤を失った。総予算の成立を待って、自民党は羽田内閣不信任決議案を提出する。決断を促す一手であり、提出の翌々日に内閣は総辞職を決定する(不信任決議案は自然消滅ということになる)。したがって、非自民政権時代は、前記の参議院の農林水産大臣問責決議案の一件のみが議題となっただけで、法案の成否を巡る与野党の攻防はなかった。

 

②戦後50周年決議(1995年、第132回国会、村山自社さ政権)

羽田内閣総辞職を受け、今度は自民党が機敏に奇策を放った。自民党と社会党の連立政権の誕生である。両党は長年の「対立と馴れ合い」を経て、不思議な信頼関係が醸成されており、自民党は社会党委員長の村山を総理とすることで連立を組む。自民党は権力奪回のためなら全てを呑み込み、社会党は社会党首班の政権を拒否できない。

村山内閣は、日米安保、自衛隊、国旗・国歌などを容認し、55年体制における対立軸であった基本政策を大転換する。対立のための理念は放棄され、馴れ合いが残った。国対政治は旧体制の遺物として批判の的となっていたが、自社さは国対で与党内での政策の調整作業をすることとなる。法案提出までの与党内の調整は時間がかかるようになったが、自社さは国会では確実な多数を持っており国会内での与野党協議の場は減少した。国会が空洞化したとも言われた。野党の中心勢力は、改新から改革(1994年9月)、新進党(1994年12月)へと政党名を変えていくが、自民党から離脱した議員、公明党や民社党の議員が中心であり、根本的な価値観の相違は薄れ、与野党でのイデオロギー対立はなくなっていく。

村山政権の時代、野党がわずかに抵抗を示したのは、総理の戦後50周年談話を受けて行われた1995年6月9日の「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」が衆議院本会議で採択されたときであった。日本が過去に行った植民地支配、侵略行為やアジアに与えた苦痛を認識し、深い反省の念を表明するといった内容で、それまで社会党の基本理念を放棄して政権与党の政策を自民党に任せてきた村山首相の強い信念に基づくものであった。

採決は粛々と行われたものの、与党からも大量の欠席者が出て、与野党で半数以上の議員が欠席した(憲法第56条による総議員の3分の1以上の出席があったため、定足数は満たしていた)。決議の内容に不満な多くの自民議員が欠席したが、自民党幹部が採決を容認したのは自社さ政権を維持するための対価でもあった。新進党は欠席し、共産党は反対した。

これに対し、新進党は土井たか子議長不信任決議案、鯨岡兵輔副議長不信任決議案、中村正三郎議院運営委員長解任決議案、村山内閣不信任決議案を12日に提出、13日の本会議に上程された。野党の本会議欠席と不信任決議案等の提出の理由は、戦後50周年決議案文の内容を与野党で協議している最中に本会議を強行開会し、強引に同決議案を議決したことへの抗議である。4件の不信任決議案等の処理は4時間ほどで終了し、牛歩も混乱もなかった。

参議院は混乱を回避するため同様の決議は行わなかった。

この時を除いて、約1年半の村山内閣では国会の大きな混乱はなかった。最も対立する可能性を持った自社間で事前に調整したうえで法案も提出され、さらには阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件に追われ、与野党対決法案はほとんど提出されなかった。野党は未曾有の災害や事件を前に与党との対決路線をとることができず、共産党以外の野党は政府に協調しほとんどの閣法に賛成した。

③住専処理、預金保険法改正案、駐留軍用地特別措置法改正案5)日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定の実施に伴う土地等の使用等に関する特別措置法の一部を改正する法律案 (1996、1997年、第136、140、141回国会、橋本自社さ政権)

橋本内閣の時代には、中央省庁の再編、内閣機能の強化などの行政改革を始めとする六大改革が進められるが、国会における攻防は金融危機に関連問題を中心とするものであった。自民党政権に戻る一方で、新進党、民主党(199610月の総選挙後の元社さ議員を中心としたもの)が野党勢力の中心となったが、野党の抵抗戦術は社会党野党第一党時代とは異なった国民の支持を得られるような新しい方策を求めた。抵抗のための抵抗を避け、牛歩などの時代遅れとの批判をよばない、政権交代可能な政党として信頼される方法を模索したのである。それはその後の抵抗策として一定の方向性を示すものではあったが、かつての社会党のような激しい攻防ではなく、中途半端とも見える側面もあった。

 

住専破綻処理(1996年、第136回国会)

1996年1月、橋本内閣が成立してすぐに大きな争点となったのは、住宅金融専門会社(住専)問題の処理であった。バブル期に土地投機資金を貸し出していた住専が経営破綻し、その損失をいかに処理するかであった。政府は住専の母体銀行に破綻の連鎖が及ぶことを回避するために6850億円の公的資金の投入を決断する。しかし、金融機関の失敗を国民に負担させることへの批判は強く、野党は総予算を人質にする戦略をとって抵抗した。衆議院における予算委員会での審査の終盤になって、大勢の新進党議員は座り込んで予算委員室を封鎖し、総予算審議を物理的に妨害した。土井議長の退去勧告にもかかわらず長期にわたり、3月4日に始まったピケは三週間に及んだ。

だが、住専問題が争点となった参議院議員の補欠選挙で自民党候補が勝利すると、その状況を踏まえて事態は進展した。土井議長と与野党党首との会談(325)で「総予算の強引な採決はしない、(不正献金問題の)加藤紘一自民党幹事長の証人喚問は真摯に協議する」ことなど合意をみたため、新進党は審議への復帰を決めた。野党はピケという新しい手段に訴えたが、審議をせずにただ座り込んでいる姿は著しく不評であり、しかもあまりにも長期にわたったため、この作戦は新進党にとっては重荷になっていた。

 

預金保険法改正案(1997年、第141回国会)

1997年秋からの臨時国会の中盤、バブル期の過剰な融資や投資を原因に、北海道拓殖銀行や山一証券などの破綻が相次いで起こり、金融システムへの不安が広がった。政府は、預金保険機構を通じた公的資金注入によって債務超過には陥っていないが多額の不良債権を抱える金融機関を救済し、信用秩序の回復策を図るために預金保険法改正案を提出したが、このスキームに野党の強い反発を招いた。

12月5日には、新進党、民主党などが欠席のまま、与党は大蔵委員会での採決を強行した。しかも、速記者不在のまま採決を行ったためいったんは無効となり、夜11時前に強行採決をやり直すという失態を演じてしまった。9日には本会議でも新進党、民主党などが欠席のまま可決された。

この事態に対して10日に亀井善之議院運営委員長と村上誠一郎大蔵委員長の解任決議案が提出され、本会議に上程された。5日(金)の時点で、8日(月)の本会議開会を議院運営委員会の採決で強引に決めたものをその直後に野党のいない理事会でそれを取り消し(大蔵委員会での失態により8日の本会議は困難となった)、8日になると理事会において委員長職権で9日の本会議を強引に決めた。これを理由として議院運営委員長解任決議案が提出された。大蔵委員長解任決議案については、与野党の合意がないまま強行採決を行ったことである。

両決議案の提出のタイミングは微妙である。法案が本会議で可決してしまった後の腹立ちまぎれの提出である。いかに与党が横暴か、という主張はできるが、実質的効果はゼロである。与党にとっては困ることもない。本会議は4時間遅れで始まったもののこの二つの決議案の審議では牛歩はせず、所要は合計で約1時間30分程度であり、言葉で怒りは読み取れるが時間としては淡々と進んでいる。かろうじて意味があったとしたら、この日に参議院本会議において預金保険法改正案の趣旨説明を聴くことになっていたが、その本会議の開会時間が遅くなっただけである。しかも本会議後には予定通り参議院大蔵委員会で共産党以外の野党が欠席する中で趣旨説明まで行われているため、実質的には影響はなかった。

会期末が12日ということもあり、与党としては10日の趣旨説明を何としてでも行わねばならなかった。そして、12日には参議院で可決成立している。野党は、10日の本会議を強行したことを理由に12日に斎藤十郎参議院議長不信任決議案を提出、議事にしている。しかも、法案の成立した後にである。

野党は、預金保険法改正案の成立は緊急を要し、社会情勢から言ってやむを得ないと内々思っていたとしても、あからさまに意味不明の対応であり、理解に苦しむ。野党として政権獲得をするためにはどうすべきか、反対するだけではいけない、混乱を生じさせるだけではいけないとの思いから、責任野党としての国会戦術が迷走したように受け取れる。特に、野党第一党の新進党は分裂含みの状態で、なかには連立の組み直しを考える勢力もあることから他の野党からは疑心暗鬼の目で見られ、野党の対応は一貫性に欠けた。11日には衆議院において新進党単独提出の橋本内閣不信任決議案が会期末のセレモニーとして淡々と否決されている。民主党には、不信任案を共同提出すれば通常国会でも共闘することになるが「その時、新進党が果たして存在するのかという懸念6)1997.12.13 毎日新聞」があった。

 

駐留軍用地特別措置法改正案(1997年、第140回国会)

1997年の沖縄の駐留軍用地特別措置法改正案について、新進党は旧来の野党とは異なる姿勢を見せた。同法は、県の収用委員会の審査中も土地の暫定使用を認めるなどの米軍基地の強制使用の手続きを見直すなど日米関係に直結するものであり、与党内の調整で先送りできる問題ではなかった。つまり、連立与党に参加している社民党は米兵の女子小学生への暴行事件などもあったため賛成することはできなくなっていた。社民党が反対すれば参議院での成立は危うい。そこで、橋本総理は小沢新進党党首との会談で法改正に合意をとりつけた。与野党間で日米安保体制という日本の基本的スタンスに関わる問題での一定のコンセンサスが生まれ、激しい与野党の抗争の原因となることはなくなったことを示している。与党であるから社民党も徹底抗戦とは行かず、改正案は4月にスムーズに成立した。

しかしながら、1998年(第142回国会)の組織犯罪対策三法案(いわゆる通信傍受法案など)、日米ガイドライン関連法案7)日本国の自衛隊とアメリカ合衆国軍隊との間における後方支援、物品又は役務の相互の提供に関する日本国政府とアメリカ合衆国政府との間の協定を改正する協定の締結について承認を求めるの件(周辺事態確保法案)、住民基本台帳法改正案などは、社民党の支持が得られず、内閣から提出はしたものの橋本内閣において成立させることはできなかった。与党内にも自社さ連立維持派と連立解消派が存在するようになっていた。共産党のような一部野党を除き、与野党ともに政界再編、与党構成の組み換えの可能性を常に意識しており、それゆえに徹底的対立は避けられていた。

脚注

脚注
本文へ1 組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律案、犯罪捜査のための通信傍受に関する法律案、刑事訴訟法の一部を改正する法律案
本文へ2 公職選挙法の一部を改正する法律案、衆議院議員選挙区画定審議会設置法案、政治資金規正法の一部を改正する法律案、政党助成法案
本文へ3 歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議案
本文へ4 第121回国会(1991年)の会期終了日に政治改革法案の廃案と引き換えに与野党間で設置された組織(国会の攻防(16)参照)
本文へ5 日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定の実施に伴う土地等の使用等に関する特別措置法の一部を改正する法律案
本文へ6 1997.12.13 毎日新聞
本文へ7 日本国の自衛隊とアメリカ合衆国軍隊との間における後方支援、物品又は役務の相互の提供に関する日本国政府とアメリカ合衆国政府との間の協定を改正する協定の締結について承認を求めるの件

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