国会の攻防(10)
昭和40年代③―沖縄返還協定、筑波大学法案(小選挙区法案、国鉄運賃法改正案、防衛二法案、健保法改正案)
岸井和
2020.10.25
⑤沖縄返還協定1)正式名称は「琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定の締結について承認を求めるの件」(1971年、第67回国会)
第67回国会の最大の課題は沖縄返還協定承認案件であった。衆議院では沖縄関連の議案処理をめぐり5件の不信任決議案が提出され否決されたが、激しい攻防はなかった。その理由はいくつか考えられる。まず、基礎的な環境として自民党が1969年12月の総選挙で大勝し、300を超える議席を有していたことである。自民党としては数による強行突破ができるという勢いがあり、野党には300議席が相手では…という諦めの雰囲気もあった。また、自民党は、社会党から公明党、民社党を切り離すことに成功し、野党は一枚岩で対抗できなかった。日韓案件、大学運営臨時措置法案の過度の混乱の経験を踏まえ国対政治も成熟し始め、「内閣国対長官」と呼ばれた竹下登官房長官が野党との内々に話し合いを進め、うまく分断を図った。日米繊維交渉問題で佐藤総理を議院運営委員会において釈明させ2)1971年10月19日の衆議院議院運営委員会。総理が出席するのは異例であり、野党の得点と評価できる。、科学技術庁長官の引責辞任3)科学技術庁国立防災科学技術センターの崖崩れ実験が失敗し死者を出した事件で、就任後4か月余りで引責辞任。野党にとっては政権にダメージを与えたことになる。を認め、沖縄返還協定の委員会採決時期についても野党の意向を探るなど、事前の地ならしをしていた。
沖縄返還協定の衆議院での審議入りは11月5日であったが、その前哨戦として10月27日には福田赳夫外務大臣不信任決議案、田中角栄通産大臣不信任決議案が淡々と否決された。福田は中国の国連復帰と沖縄返還問題、田中は日米繊維交渉を理由とする。
返還協定については、「沖繩の返還なくして日本の戦後は終わらない」とする佐藤政権の最大の課題の一つであり、野党は核抜き復帰、核再持ち込みの懸念、米軍基地の問題などで政権への信頼を欠いていた。特別委員会では11月17日に混乱のうちに採決が行われた。会期末の12月24日までの自然承認を念頭に、強行採決に伴う善後処理に必要な時間も計算に入れた採決であった。
野党は合法的物理的抵抗を含めた対応を視野に国会はしばらく空転したが、船田中衆議院議長(2度目の議長職)は、採決は有効との前提で、委員会での補充質疑を行うこと及び非核三原則と沖縄の核抜き、沖縄米軍基地の整理縮小を国会決議として行うことのあっせん案を示し、自民党、公明党、民社党がこれを受け入れ、社会党と共産党は拒否した。自民党の野党分断が成功したことになる。
11月22日には特別委員会が再開され補充質問が行われた。社会党、共産党と沖縄出身議員は欠席した。本会議は24日に開かれ、やはり社会党、共産党と沖縄出身議員が欠席していたため物理的抵抗もなく粛々と沖縄返還協定は承認すべきものと決し(公明党、民社党は反対)、参議院で議決されなくても自然承認されることが確定した。続けて、自公民3党提出の「非核兵器ならびに沖縄米軍基地縮小に関する決議」が全会一致で可決された。
社会党は、3党だけによる変則審議、議長職権による開会、正規の手続きを踏まない決議案を議題としたことなどに反発し、翌日に船田、荒船清十郎正副議長不信任決議案を提出したが、2時間半弱の短時間で淡々と否決された。すべて終わってからの不信任で、公明党、民社党に手柄を採られて怒りのやり場がなかったためであろうし、手じまいの行事でもあった(公明党、民社党は本会議に出席していたが表決には加わらなかった)。
参議院においては、特段に混乱することもなく12月22日の本会議で承認が決した4)参議院でも、外務大臣(10月28日否決)と通産大臣(11月9日否決)の問責決議案が衆議院と同様の理由で提出されているが、12月1日の参議院の審議入り前であったため直接に返還協定の議事に影響を与えることはなかった。。自然成立ではなく、議決を行い参議院の存在意義を示した。また、その翌々日、衆議院では佐藤内閣不信任決議案が否決されている。なお、返還協定関連の沖縄振興開発特別措置法案などの国内法案5)沖縄返還協定は「沖縄返還協定特別委員会」で審査され、関連国内法案はこれとは異なる「沖縄及び北方問題に関する特別委員会」などで審査されていた。は、12月14日に衆議院を円満に通過し、参議院審議のため会期を3日間延長したものの結局は継続審議となった。だが、河野謙三参議院議長は関連国内法案を継続とする議長あっせんを提示するとともに、次の国会の冒頭で成立させることについて社会党から暗黙の了解を取りつけていた(いずれの法案も次の第68回国会冒頭の12月30日に成立)。社会党の顔を立てたことになる。
⑥小選挙区法案、筑波大学法案6)正式法案名は「国立学校設置法等の一部を改正する法律案」、国鉄運賃法改正案7)正式名称は「国有鉄道運賃法及び日本国有鉄道財政再建促進特別措置法の一部を改正する法律案」、防衛二法案8)正式名称は「防衛庁設置法及び自衛隊法の一部を改正する法律案」、健保法改正案9)正式名称は「健康保険法等の一部を改正する法律案」(1973年、第71回国会)
第71回国会は、「野党が審議引き延ばしをはかるなら、会期を延ばせばよい。年中、国会を開いておくことでもいいではないか10)1973年9月25日 朝日新聞」との田中総理の強気の発想から、二度の会期延長により280日間という超長期国会となったが(過去最長。国会の召集と会期(5)参照)、結局は会期末には参議院審議が暗礁に乗り上げ、ギリギリまで攻防が続いた。
また、1971年通常選挙後(第66回国会)、参議院議長に河野謙三が選ばれたことも影響した。河野議長は、重宗王国を批判し、参議院改革を訴えたことから、社会党の支持と自民党三木派らの造反によって重宗前議長が後継候補として推した自民党の本命候補者を破って当選した。河野議長は、強行採決や徹夜国会に否定的な考えを持っており、繰り返される会期末の混乱の反省に立って参議院の審議時間の確保についても求めた。
この国会前半で大きな問題となったのは、小選挙区法案である。自民党選挙制度調査会が衆議院は小選挙区比例代表並立制、参議院全国区には非拘束名簿式比例代表を導入するなどの基本方針を決定すると、前年の総選挙で安定多数は維持したものの議席を大きく減らした田中総理は自民党に有利な選挙制度改革に乗り気となり、会期中に成し遂げようとした。小選挙区制は小政党にとっては不利であり、野党は自民党の選挙公約にも施政方針演説にも出てこなかったと強く反発した。政府は当初会期切れ前までに選挙区割り以外の法案を提出することを決めるとともに大幅な会期延長を衆議院議長に要請した。これに伴い、野党は両院の委員会審査を拒否、与党内の椎名悦三郎副総裁、三木武夫副総理らも反対したため、5月16日には中村梅吉衆議院議長、河野参議院議長の要請により法案提出は断念された。鳩山一郎政権以来の小選挙区制導入の試みは頓挫し、海部政権に引き継がれる。
会期終了前日の5月19日には自民単独で7月24日まで65日間の会期延長を決めた。24日に、中村議長は、「会期の再延長は考えていない、委員会で単独採決があっても簡単に本会議に上程しない」との見解を示し、国会は正常化するかに思えたが、その翌日議長が「野党をごまかした」とパーティーで発言し、29日には辞任するに至った。後任には前尾繁三郎議長が選出された。
5月30日になってようやく国会審議は再開されたが、重要法案は輻輳していた。提出されるごとに問題となる、お金の問題の国鉄運賃法改正案、健保法改正案と理念の問題の防衛二法案であり、それと筑波大学法案であった。国鉄と健保は前年には時間切れ廃案となっていた法案であった。筑波大学法案は、東京教育大学を筑波に移転し新大学を設立するとともに、大学を管理する上部機関を設置することなどを定めるが、野党は国などの上からの統制が強化され大学の自治が損なわれるとして反対の姿勢をとった。
6月14日には国鉄運賃法改正案、28日には防衛二法案、29日には筑波大学法案と健康保険法改正案が衆議院を通過した。防衛二法案と筑波大学法案は委員会では強行採決となったため、前尾議長裁定により補充質疑、賛否の確認を行ったうえで本会議に上程され、平穏に衆議院を通過した。
しかしながら、この四つの法案は参議院において混乱を招いた。会期末まで一週間となった7月17日の午前には、河野参議院議長が与野党の全委員長を集め、「審議の引き延ばし強行採決などの異常事態は起こらないと確信し会期再延長は考えていない」としたうえで、「与野党の間で修正問題などよく話し合ってもらいたい、お互いにゆずるべきはゆずり良識ある態度をとるよう希望する」と要請した。防衛二法案はともかく、国鉄、健保はカネの問題で国庫負担の在り方次第で解決可能であり、筑波大学は野党も対案を出しているので妥協の余地があると考えたからである。しかし、その同じ日に防衛二法案と国鉄運賃法改正案、筑波大学法案が各委員会でほぼ同時に強行採決され、健康保険法改正案についても質疑終局動議が提出された(健保が審査されていた社会労働委員会は社会党委員長のため、同日中に結論は出ず)。
与党は強行採決を突破口として局面の打開をはかる戦法だった。野党は一斉に反発し、審議は全面的にストップした。メンツをつぶされた河野議長は「これまで積み上げて来た参院改革に汚点をつけた」「自民党の強行採決は極めて根拠がうすく、法律論として認められても、政治的には認められない11)1973年7月18日 朝日新聞」と非難した。河野議長が就任してからはこれまで強行採決はなかった。衆議院では審議引き延ばしがあり、強行採決にはそれなりの根拠があったが、参議院ではそうではなかった。
23日には、河野参議院議長は「24日の本会議で国鉄、健保は修正のうえ、筑波大学は原案どおり可決、防衛二法案は継続審議」とのあっせん案を提示したが、不調に終わっている。
参議院の審議時間を確保するため、7月24日未明の衆議院本会議では自民党単独で再度の65日間の会期延長を議決した。前尾議長に対しては、野党は単独採決や再延長はしないとの約束を無視したものだと批判し、議長は「国会の権威、議長の権威…を高める努力をすることによって、今回の罪をつぐないたいと思う12)1973年7月24日 朝日新聞」と応えざるを得なかった。
その後も国会審議は止まったままであったが、8月10日になって、前尾議長は、「再延長の期間については、参院における法案処理を中心に考慮し、衆院における法案については、各委員会ごとに各党の話し合いにより、さらに協議の上、その取扱いを決めてもらいたい」などの「事態収拾のための議長見解」を提示した。衆議院において野党が一致して反対する法案の審議は進めないとの意味であり、自民党の強硬策に対する議長の抵抗であったが、自民党は前尾議長の辞任を回避するため受諾、野党四党も受け入れた。
一方の参議院は、8月21日に、自民党、社会党、民社党、二院クの四党で参議院の正常化について確認書を取り交わした。筑波大学法案 、国鉄運賃法改正案 、防衛二法案の強行採決の撤回は認めないが、質疑を続行し改めて委員会で採決が行われるまで河野議長の手元で凍結し本会議には上程しないという内容であり、与野党の言い分をそれぞれ半分ずつ認める内容であった。
9月14日になって、カネの問題である2法案、健保法改正案は修正議決され、国鉄運賃法改正案は補足審議を終了し、その後17日の参議院本会議で議了した(いずれも修正議決のため、翌18日の衆議院本会議で回付案が同意され、成立)。
防衛二法案、筑波大学法案については、9月20日に、河野議長は、参議院に法案が送られてきて3か月になり賛否はともかく決着をつけなければならないとして参議院本会議で審議することを決断した。当初は24日までの委員会審査終了を提案したが社会党は「委員会審査がいつ終わるかわからない」としらばっくれた。やはり理念に関する法案でそもそも妥協することには困難であった。すでに両法案は委員会で採決されているので、議長が凍結を解除することになる。
ここからは、不信任決議案等の連発による抵抗という事態になる。ここで特徴的なのは、反対する閣法審議への抵抗として野党が本格的に衆参をリンクさせて不信任決議案等を双方に提出してきたほぼ最初となる。メインは参議院だが、参議院の審議を妨害するために、9月20日に衆議院に山中貞則防衛庁長官不信任決議案、奥野誠亮文部大臣不信任決議案を提出した。2法案の所管大臣を衆議院に釘付けにして参議院審議を行えないようにする。しかし、野党は両不信任案に対して質疑も牛歩も行わず、21日の午後2時過ぎからの本会議は2時間40分ほどで終了し、その後田中内閣不信任決議案が提出されたため、参議院の法案審議入りは1日遅れた。
22日には、衆議院での内閣不信任案否決後、参議院本会議が午後8時近くになって開かれ、山中防衛庁長官問責決議案を否決、次に高田浩運内閣委員長解任決議案を否決し、防衛二法案は翌日の夕刻に可決された。24日の参議院本会議では、まず奥野文部大臣問責決議案を否決、次に永野鎮雄文教委員長解任決議案を否決、翌日になって筑波大学法案が可決成立した。その後、田中角栄内閣総理大臣問責決議案を議題とする動議が提出されたが否決され、この問責決議案は審議されていない。
これらの法案の処理のために9月22日から25日までの4日間本会議が続いたものの、徹夜国会とはならず、本会議が夜から始まった22日を除き、夕方には延会手続きを取り、翌日も朝10時台に本会議が始まっている。これは休憩等の動議の連発や長時間演説、牛歩等の戦術を野党側が用いなかったためである。
26日の最後の本会議において河野議長は「…長時間に及ぶ連日の本会議でありましたが、整然とした審査が行なわれましたのは、政策においていかにきびしい相違や対立がありましょうとも、良識と理性の府としての本院の運営につきましては、共通した正常化、話し合いの精神が貫かれていたからであるとかたく信ずるものであります。13)1973年9月26日 参議院本会議録」と総括している。
最も対立する法案はすべて成立した。280日もやられてはどうにもならないということであった。会期切れ、審査未了を目指す野党の伝統的手法を持ち出そうにも、慎重審議、審議不足を主張することができなくなった。と同時に、延長は河野参議院議長対策でもあったといえよう。
⑦昭和40年代の与野党の攻防とは
佐藤内閣の時代は、比較的安定した党内状況を背景に、戦後処理問題を中心に内閣にとって重要な法案は確実に成立させた。党内からは実行型内閣との評価もあった。
肝心な場面では政権が国会の議事を支配していた。参議院では全く委員会審査をしていない健保特例法改正案(69年)や大学運営臨時措置法案を強引に採決に持ち込んだ。日韓条約の衆議院本会議における抜き打ち採決、健保特例法改正案(69年)の記名採決から起立採決への突然の変更、参議院本会議における議長職権による大学運営臨時措置法案の突然の日程変更・採決などは異例の強権的議会運営である。議長は不承不承ながらも内閣の意向に従った。議事の責任者である船田、石井両衆議院議長は辞任をし、重宗参議院議長もいったんは辞意を示した。
日韓条約の審議の際、佐藤総理は「…最も大事なことは、私どもが民主主義を守り抜くこと、同時にまた、議会制度、議会主義制度に徹することだ…法規、先例等を尊重することはもちろんでありますが、同時にまた、多数決の原理を尊重しない限り議会制度は守れない。…衆議院における審議がたいへん短かったと…確かに、会議を開きましたのは八日間であった、かように思いますが、しかしながら、特別委員会を設置して以来二十日間を空費いたしました。二十日も空費しておいて八日であった」と答弁し14)1975年11月19日 参議院本会議録、野党の審議拒否、抵抗戦略に対し批判的であり、それは高姿勢ととられた。しかしながら、これらの強行措置は批判はされたものの政権を追い込むことにはならなかった。また、政権後半には強硬姿勢は大学運営臨時措置法案以外は見られなくなる。70年安保は自動延長であり、また、憲法を守るというスタンスをとり最大の対立となりうる憲法改正問題が生じなかったことにもよろう。
田中内閣の時代になると、政権の安定度は低下した。与野党が大きく対立したのは第71回国会のみであったが、小選挙区法案については自民党幹部からも反対され、衆参議長も必ずしも内閣の意向の通りには動かず小選挙区法案提出に反対に回った。筑波大学法案などの与党の強行採決を総理と近いはずの河野参議院議長すらも強く批判した。前尾衆議院議長は2度目の会期延長を自省し再延長後の審議は与野党合意のものに限るとし政権の意向に抵抗を示した。この結果、田中内閣の間、衆参ともに正副議長不信任決議案は提出されることはなかった。政権の思い通りには事態は進まなくなった。とはいえ、最終的には重要法案は成立してはいる。それは筑波大学法案の時には長期国会により審議時間確保と野党の息切れを待ったことが要因であり、田中内閣の後半は弱体化したため党内力学から見ても与野党対決の重要法案を提出することはむずかしくなっていたからである。1974年の対決法案、靖国神社法案(自民提出の議員立法)は成立しなかったが、支援組織と党内強硬派向けに成立させる姿勢を強くアピールしたもので、自民党単独で衆議院を通過させたが、その時点では参議院での採決見送りは決まっていた。
激しく対立する一方で、自社間のなれ合いの上での見せかけの対立もあった。主としてカネの問題である農地報償法案、健保特例法案(67年)については、自社間で手順について内々の合意ができていた。しかし、農地報償法案は自民内の、健保特例法案は社会党内の行き違いから亀裂が生じてしまった。表向きには与野党対立という緊迫した状況を演出するなかで、各党内で筋書きを知る党幹部とそれを知らない現場の議員との間の意思疎通や連絡に齟齬が生じ、予定通りに事が進まず、かえって政党間の対立は深まることもあったのである。特に、健保特例法案は因縁の法案となり1967年に続いて2年後、6年後にも混乱を引きずった。
本会議の議事進行については、野党は時間をかけて抵抗はしたが、内々に事前の打ち合わせが行われ、特に大学運営臨時措置法案の後は混乱のなかにも一定の秩序ができるようになった。とはいえ、興奮した一般の議員が想定を超えた抵抗を示すこともあり、幹部は対応に苦慮する場面もあった。また、靖国神社法案の最終処理は自民内の不満をガス抜きするために、社会党が手を貸したようなものである。自社国対間の持ちつ持たれつの関係であり、国対政治の真価を発揮したとも言えるのかもしれない。その一方で、昭和50年代以降、自民党が公明党や民社党を社会党から切り離して案件の成立を図る作戦が多くなるが、この時期においても既に同様の作戦が採られたケースも見られる。自社による中間野党の引っ張り合いが次第に国会の攻防の大きな鍵となっていく。
脚注
本文へ1 | 正式名称は「琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定の締結について承認を求めるの件」 |
---|---|
本文へ2 | 1971年10月19日の衆議院議院運営委員会。総理が出席するのは異例であり、野党の得点と評価できる。 |
本文へ3 | 科学技術庁国立防災科学技術センターの崖崩れ実験が失敗し死者を出した事件で、就任後4か月余りで引責辞任。野党にとっては政権にダメージを与えたことになる。 |
本文へ4 | 参議院でも、外務大臣(10月28日否決)と通産大臣(11月9日否決)の問責決議案が衆議院と同様の理由で提出されているが、12月1日の参議院の審議入り前であったため直接に返還協定の議事に影響を与えることはなかった。 |
本文へ5 | 沖縄返還協定は「沖縄返還協定特別委員会」で審査され、関連国内法案はこれとは異なる「沖縄及び北方問題に関する特別委員会」などで審査されていた。 |
本文へ6 | 正式法案名は「国立学校設置法等の一部を改正する法律案」 |
本文へ7 | 正式名称は「国有鉄道運賃法及び日本国有鉄道財政再建促進特別措置法の一部を改正する法律案」 |
本文へ8 | 正式名称は「防衛庁設置法及び自衛隊法の一部を改正する法律案」 |
本文へ9 | 正式名称は「健康保険法等の一部を改正する法律案」 |
本文へ10 | 1973年9月25日 朝日新聞 |
本文へ11 | 1973年7月18日 朝日新聞 |
本文へ12 | 1973年7月24日 朝日新聞 |
本文へ13 | 1973年9月26日 参議院本会議録 |
本文へ14 | 1975年11月19日 参議院本会議録 |
コメント