国会の攻防(3)
─ 大臣不信任決議、問責決議、総理問責決議
岸井和
2020.08.28
3大臣不信任決議(案)(衆議院本会議)
大臣不信任決議案可決の効果については何ら規定がない。大臣は政治任用職であり、国会に対して責任を負っていることは明らかであるが、他方で、その任免については内閣総理大臣の権限であり(憲法68条)、国会の権限ではない。したがって、憲法69条にある内閣不信任決議とは別のものであり、大臣不信任決議案が可決しても法的には直接効果が及ぶものではない。また、参議院でも大臣不信任決議案を提出できないとする規定はないが、不信任ではなく、大臣問責決議案として提出するのが慣例となっている。内閣に対する衆議院との信任関係の距離感の違いが反映されていると思われる。
したがって、衆議院において大臣不信任決議案が可決されても、内閣として一定の行動を義務付けられるものではなく、直ちに大臣が解任されるわけでもないし、辞任しなければならないわけではない。しかし、政治的には放っておくことはできない。
大臣不信任決議案が提出されたことは多数回にのぼるが、その理由には大きく分けて二つの場合がある。一つは当該大臣の政策上の失敗、失言、スキャンダルなどを理由に大臣個人の責任を問うものである。もう一つは、与野党が対立する法案を審議している際、その法案の審議を阻止することを目的とするものである。
大臣個人の責任を問うケースにおいて、大臣不信任決議案が可決されたことが一例のみある。1952年11月28日(第15回国会)の池田隼人国務大臣不信任決議案である。池田通産大臣は、前日の代表質問の答弁において「インフレ経済から安定経済に向いますときに、この過渡期におきまして、思惑その他の、普通の原則に反した商売をやられた人が、五人や十人破産せられることはやむを得ない——お気の毒ではありまするが、やむを得ない」「倒産から思い余つて自殺するようなことがあつてお気の毒でございますが、やむを得ないということははつきり申し上げます。1)1952年11月27日 衆議院会議録」と発言したことから不信任決議案が提出された。野党から提出されたものであったが、与党自由党内の鳩山派から造反が出て可決される事態となった。池田大臣は可決の翌日辞任した。法的効力はないとはいえ、衆議院において信任を明示的に失った大臣が職務を続行するのは政治的に不可能である。
大臣の失言、スキャンダルはその後もしばしば生じているが、大臣不信任決議案の提出、あるいはその可決に至る前に辞任している場合もある。与党としては、諸々の情勢から大臣をかばいきれないと判断した場合は、自ら辞任を申し出させ、総理がそれを認める形をとっている。本会議での不信任決議案可決という事態、あるいは否決するにしても否決することに対する政権与党に対する批判を防ぎ、ダメージを最小限に抑え込もうとする方法がとられている。
また、法案の審議に抵抗するためにそれを所管する大臣の不信任決議案を野党が提出することも多い。決議案が提出されると、所管の委員会は審議がストップするのが慣例となっている。また、決議案を先に処理しなければ本会議において法案の審議に入れない。そのため、提出の時期は委員会中で議案の審査中であったり、委員会で採決が終わって議案を本会議に上程するタイミングであったりと、野党の戦術次第となる。しかし、この場合は決議案が可決されたことはない。採決に付されたものはすべて否決され、あるいは、与野党の対立が解消して撤回されている。
4問責決議(案)
(1)問責決議案
問責決議案は、主として参議院において、総理以下の大臣に対して、議院の決議権を根拠に大臣の責任をただすという意思を表明するものである。衆議院の内閣不信任にあたる法的効果を有する決議を行うことは憲法上の根拠がないうえに、内閣と参議院との関係から困難であるものの、内閣に対して参議院の意思を示せないということではない。この趣旨をふまえ、合議体としての内閣に対してではなく、例えば、内閣総理大臣安倍晋三君問責決議案として提出されるのが慣例である。衆議院の大臣不信任決議も法的効果の定めがないが、参議院の大臣問責決議案も実質的には似たようなものであり、不信任の意思を示す。
ただし、問責決議案は一般的に責任を問うという趣旨の決議であり、必ずしも参議院における決議に限るものではなく、また問責対象が大臣というわけではない。過去には、衆議院において、あるいはその委員会において提出されたこともあり、また、参議院でも特別委員長問責決議案が、あるいは委員会において大臣政務官問責決議案が提出されたこともある。
衆議院においては1956年2月1日(第24回国会)に内閣総理大臣鳩山一郎君問責決議案が提出されているが例外的事例である。提出の理由は、前日の参議院本会議で「軍備を持たない憲法には反対である」旨の発言をしたことは憲法尊重擁護義務を定めた憲法99条に違反するということであった。ただ、このときの主戦場は参議院で、参議院にも同様に問責決議案が提出されている。これが参議院の問責決議案という名称での最初の提出例である。その後の総理の釈明を受けて衆参ともに問責決議案は撤回された。衆議院では、「参議院での政府攻撃を援護する戦術2)1956年2月3日 朝日新聞」ということから内閣不信任決議案ではなく問責決議案とした。仮に衆議院の問責決議が可決されていた場合の効果について解釈は微妙であろうが、そもそも提出それ自体の政治的効果を狙っただけのものであった。
衆議院の委員会における問責決議については、1954年12月4日(第20回国会)、予算委員会に吉田総理が出席してこないことを理由に中曽根康弘委員が吉田総理問責決議案を提出し、委員会において可決された。このとき、吉田内閣はすでにレームダック化しており、3日後には総辞職している。また、2013年6月25日(第183回国会)には丸川珠代厚生労働大臣政務官が民間の労働者派遣企業の新聞広告に肩書付で出ていたことを理由に問責決議案が参議院の厚生労働委員会に提出され可決された。このときは、ねじれ国会で野党が委員会の過半数を有し、自公の与党委員と政府は出席を拒否するという異常な事態であった。
参議院の特別委員長に対して本会議で問責決議案が取り扱われたこともある。特別委員長は委員会での互選によって選ばれるため、委員会において不信任決議案が提出されることが通常であるが、参議院では本会議で問責決議案が採決されたことが何度かある(いずれも否決)。本会議において問責の審議を行わせ、他の議案の審議を妨害するための便法である。たとえば、2015年9月18日(第189回国会)に、委員会での平和安全法制の強行採決を理由に、我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員長である鴻池祥肇に対する問責決議案が参議院本会議で否決されている。特別委員長問責決議案は野党の反対する法案に関連させて本会議の抵抗戦術の一環として提出されることがほとんどである。
これらの問責決議案は、「本院は、〇〇大臣〇〇君を問責する。右決議する。」といった本文であり、どこまで責任を問うのか意味が不明である。問責がすなわち辞任要求なのかも不分明である。法的定めがなく、その場の政治的雰囲気に影響される。
1954年4月23日(第19回国会)に参議院本会議で「法務大臣の検事総長に対する指揮権発動に関し内閣に警告するの決議案」が可決された。これも広い意味で問責決議の一つと考えられる。造船疑獄に関連して犬養法務大臣が指揮権を発動し佐藤栄作自由党幹事長逮捕を回避したことが理由である。これに対し政府は「只今決議されました院議に対しましては、謹んで承わります3)1954年4月23日 参議院会議録 緒方竹虎国務大臣発言」と素っ気なく発言し、決議は事実上無視された。この決議は問責決議に準じるもの、それと同等のものであると考えても差し支えないだろうが、決議一般にみられるように法的拘束力はない。
問責決議はその意味内容が曖昧であり、決議の場所(衆議院か参議院か、本会議か委員会か)、対象(大臣か、政務官か、特別委員長か)が様々に使われ統一されておらず、それに応じて一定の意味を見出すことは困難である。特に、60年以上前の前述の鳩山総理問責の一例しかないが、衆議院で大臣などに対し問責決議案が提出されれば、不信任決議案とは別の扱いをすることが含意されていることになろう。そのときどきの政治力学に応じて実効性が異なるものである。
(2)内閣総理大臣問責決議案(参議院本会議)
内閣総理大臣問責決議案は前述の第24回国会の鳩山一郎総理に対する決議に始まり、主として参議院において何度も提出されてきた。野党が政権に対して総括的批判の意味を込めて提出するケース、法案審議の抵抗手段として提出するケースなどがある。したがって、会期末近くに提出されることが多い。しかし、可決されたのは4例である。いずれも、衆参ねじれの時期である。採決に入る前から可決される見込みの強いことはすでに分かっており、議場にはいつにない緊迫感が漂う。
内閣総理大臣問責決議案が本会議の議題となることは衆議院の内閣不信任案と比較すると多くはない。参議院と内閣との信任関係性は衆議院の場合と異なること、問責決議が法的背景を持たず、仮に可決された場合はその効力が曖昧で、内閣がそのまま存続すれば院の決議の権威にかかわることなどから、参議院内で一定の自制が働いていたといえる。
1956年3月5日(第24回国会)に参議院において内閣総理大臣鳩山一郎戒告決議案が提出され否決されている。これは問責決議案と同等のものであるとの考えもあるが、社会党議員は「…戒告よりもむしろ問責に値するものと考えております。それにもかかわらず、わが党が一歩譲歩して戒告決議案を上程したのは…4)1956年3月5日 参議院会議録 」とあり、少なくとも提出者は信任問題の決議というよりは注意を与える決議と考えていた。
その後、1972年に内閣総理大臣佐藤栄作問責決議案が、参議院において初めて「問責決議案」の名称のもとに採決され、国政全般に対する総理の責任が問われた。しかし、その後も問責決議が議題となることは少なく、数年に一度、会期末に採決される程度であった。
こうした全体的傾向があるなか、1988年の竹下登総理に対する問責からは異なった性格を持つものが現れる。つまり、このときは消費税導入法案に対する抵抗手段として利用されたのである。同様の性格を持つものとして、1992年にはPKO法案阻止のための宮澤喜一総理問責決議案、1999年には組織犯罪処罰法案阻止のための小渕恵三総理問責決議案、2007年には年金法改正案阻止のための安倍晋三総理問責決議案の議事が行われた。この間には従来と同じく国政全般について一般的に責任を問うケースもあり、合計すると1972年から2007年までの35年間に13回、参議院本会議の議題となり、いずれも否決されている。
しかし、2007年6月に問責決議案が審議されたときには、その政治的に持つ意味は変化していた。このときは否決はされたものの、すでに第一次安倍内閣は消えた年金問題などで弱体化しており、他方の野党民主党は政権交代可能な政党として勢いを増していた。野党民主党は、参議院における問責決議案を政権交代に向けた強力な武器として活用した。7月の参議院選挙で多数派となった後は、参議院における多数を背景に福田、麻生の両内閣総理大臣問責決議案を可決し、参議院での審議をスタックさせることで自民党政権を機能不全に陥れた。問責決議案可決に法的拘束力はないが、政治的には大きなインパクトがあり、第二院をテコに政権への道筋をつける方策として大きな意味を持った。しかし、政権交代後の野田佳彦総理に対しても、今度は野党であった自民党が問責決議案をテコに政権を揺さぶり、復活へとつなげる。政権に返り咲き第二次内閣となった安倍総理に対する問責決議案も可決するが、勢力を回復していた自民党はこれを事実上無視した。直後に行われる参議院選挙で与党の勝利が見込まれていたためである。状況により、強い政治的影響力を持つこともあれば、ほとんど無視されることにもなる。
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