国会の攻防(27)
平成18年から平成24年(2006年から2012年) ― 政権交代と衆参ねじれの時代、対立と協調⑥菅政権、野田政権(与党内対立と野党との協調、公債発行特例法案、税と社会保障の一体改革)
岸井和
2021.05.10
6菅直人内閣(民主・国民新政権)
鳩山総理は普天間基地移設問題を巡る迷走、自らの政治資金問題などを理由に、同じくカネの問題を抱えていた小沢幹事長を道連れに退任を決めた1)2010年6月2日 読売新聞夕刊、6月3日 読売新聞。来るべき参議院選挙は乗り切れない状況であり、党内の求心力は大きく低下していた。野党が内閣不信任決議案を提出する間もなく辞めることとなった(内閣不信任決議案が一回も提出されなかったのは細川内閣以来。福田内閣も内閣不信任決議案は提出されていないが、内閣信任決議案が提出されている)。
逆に2010年6月4日に選ばれた菅総理に対しては二週間もたたない、初の所信演説からから5日後の会期終了日、6月16日に内閣不信任決議案が提出された。政権のたらいまわしで、総選挙もしない正当性のない新総理だからというのがその理由であった。同日、参議院では総理問責決議案及び議長不信任決議案が提出されたが、参議院本会議すら開かれず(流会)、いずれも議題にもならぬまま未了となる。国会閉会後に参議院選挙が予定されていたため、慣例により参議院で審議中の議案は継続審査とはならず、衆議院を通過していたものも含め多くの閣法が審査未了・廃案となった。そして、7月11日の参議院通常選挙では民主党が敗北し、衆参ねじれの状態に戻ることとなる。
与野党対立から協調への模索
参議院選挙後の10月1日召集の臨時国会(第176回国会)では、新たに提出された閣法20件のうち成立したものは11件のみであり、補正予算は参議院で否決された2)参議院が否決した2010年11月26日に両院協議会を開いたが、両院の意見が一致せず、衆議院の議決が国会の議決となった。。尖閣諸島沖で中国漁船が日本の海上保安庁巡視船に体当たりした事件の処理などをめぐり、仙谷由人官房長官と馬淵澄夫国土交通大臣の両大臣に対し、衆議院では不信任決議案が、参議院では問責決議案が提出され、衆議院では否決されたものの(11月15日)参議院では可決された(11月26日)(両大臣は次の常会前の内閣改造により交代)。菅内閣は衆参ねじれの洗礼を浴びることとなった。対決路線の転換は必至であった。
民主党は衆参両院の議長を出しており2011年常会(第177回国会)召集前にはねじれ国会を少しでも円滑に運営すべく、両院議長は、両院協議会改革をはじめとした国会法の改正を行う各党間の検討会の設置を求めることで一致した3)2011年1月9日 読売新聞。これを受け、衆議院の岡田克也民主党幹事長らが自民党をはじめとした各党に民主党が野党時代の国会対応を謝罪し、国会改革に理解を求めたが、逆に野党側からは猛反発にあった4)2011年1月19日 読売新聞。ご都合主義ではないかということであった。
常会が始まると、施政方針演説に対する谷垣自民党総裁の質問に対し、菅総理は「…最後に、改めて野党の皆さんにお願いを申し上げます。 社会保障改革に向けて国民の皆さんに責任を果たす立場から、ぜひとも超党派の協議に御参加いただきますよう最後に重ねてお願いを申し上げ、私の答弁とさせていただきます。5)2011.1.26 衆議院会議録」と答弁し、野党との協調姿勢をとらざるを得なくなっていた。
しかし、野党だけではなく、菅総理は脱小沢(政治資金問題を抱える小沢前幹事長の排除)を目指したことから党内対立にも苦しんだ。党内の亀裂と東日本大震災への対応に追われることになる。野党自民党は不信任決議案などによって内閣を追い込む必要もなく、震災対策には柔軟に対応しつつ政権が自壊することを待てばよかった。逆に、与党内の基盤が弱まった政権は野党を取り込む必要があった。野党の「たちあがれ日本」に連立政権入りを求めたが拒否され、同党の与謝野馨のみを一本釣りし経済財政政策担当大臣に迎えた6)民主党は2010年12月にたちあがれ日本に連立を打診したが断られ、連立参加に賛成した与謝野馨のみが内閣に入った(2010年12月28日 読売新聞、2011年1月13、14日 読売新聞)。与謝野は2011年1月13日たちあがれ日本を離党し会派も離脱、14日内閣府特命担当大臣(経済財政政策、少子化対策、男女共同参画)、社会保障・税一体改革担当大臣就任、18日民主党・無所属クラブ所属。なお、9月2日の野田内閣発足を機に、5日には民主党・無所属クラブから会派離脱した。。しかし、震災後の谷垣自民党総裁の入閣は断られた7)2011年3月20日 読売新聞。
党内の対立
他方で、党内の対立は激しさを増す。原発事故への対応などで政権への批判が強まっていくなか、6月1日に野党は内閣不信任決議案を提出した。これに総理と対立する小沢グループが野党に同調する構えを見せ、内閣不信任決議案が可決される可能性が出てきた。窮地に陥った総理は、内閣不信任の採決のある2日の民主党代議士会において「大震災への取り組みに一定のメドがついた段階で、若い世代に責任を引き継いでいきたい」8)2011年6月2日 読売新聞と近い将来に退陣することを示唆し瀬戸際で党内の支持を取り付けた。菅総理の策略により内閣不信任決議案は否決された。しかし、否決された後の記者会見で総理が早期辞任を否定的な考えを示すと、鳩山前総理は「ペテン師」と呼んだ9)2011年6月3日 毎日新聞夕刊。民主党内は「菅おろし」が焦点となり、自民党内では内閣不信任案可決・政権奪還戦略の失敗に批判が強まった10)2011年6月3日 読売新聞。
菅総理は補正予算や公債発行特例法案の成立、脱原発、自然エネルギー政策を掲げて政権の延命を画策した。民主党の規約には代表を途中で辞めさせる規定はなかった。7月には岡田克也幹事長は自公の幹事長との協議で、補正予算や公債発行特例法案の成立への協力を野党に求めるが、その見返りにマニフェストの見通し甘さを文書で謝罪させられた11)2011年7月23日 読売新聞(国会の攻防(23)参照)。退陣の条件は与野党の協力のもとに進み、総理の外堀は埋まってしまった。
総理退陣の条件としていた再生可能エネルギー措置法案12)電気事業者による再生可能エネルギー電気の調達に関する特別措置法案(閣法) と公債発行特例法案が自公の協力を得て8月26日に成立した。延命策は尽きた。これを受け同日官邸で記者会見を開き、「約束通り」民主党代表を辞任し、新代表選出後に総理の職も辞すると表明した。
7野田佳彦内閣
2011年9月2日に誕生した野田総理も、1年4月の在任期間、衆参ねじれの状況を前提に、野党との調整・協力取り付け、相次ぐ閣僚の失態と参議院での問責決議案可決、民主党内小沢グループの分裂・離脱に悩まされ続けた。
大臣の相次ぐ失態と問責決議案可決
内閣発足後、鉢呂吉雄経済産業大臣が防災服の袖を記者にすりつけ「ほら放射能」と語ったことから就任9日後には辞職に追い込まれた。その後、大臣の問責決議案は4件可決されている。政権発足後わずか3か月後の12月9日には一川保夫防衛大臣の「私は安全保障の素人」との発言、局長に対する監督責任などから問責決議案が可決され、また、同じ日に、山岡賢次内閣府特命担当大臣がマルチ商法の宣伝に関わったとして問責決議案が可決された。これは会期終了日であったため、次の会期の始まる前に内閣改造という形で両者を退任させた。問責決議案の直接的効力は認めないものの国会運営上の障害を取り除いたものであった。
しかし、2012年の常会でも4月20日に前田武志国土交通大臣と田中直紀防衛大臣の問責決議案が可決された。その理由は、国土交通大臣については大臣の名刺と役所の封筒を使って市長選で特定候補を応援、公的地位利用による支援をしたことであり、防衛大臣については北朝鮮が発射したミサイルへの対応の不手際、国防知識の欠如、予算委員会の無断退席等をきっかけとしたものではあるが、いずれも政策をめぐるものではなく、大臣の資質や失態を理由とするものであった。重要法案の野党との対応が迫っていたため体制を立て直すために、6月4日に内閣改造によって両者を退任させた。自民の協力目的の内閣改造とまで言われた13)2012年6月5日 読売新聞。なお、今回は会期途中であったため、両大臣の問責決議案可決以降は、衆参ともに大臣が交代するまでは両者が出席する委員会を開くことができなかった。
与党の分裂
菅内閣の時の党内対立への反省から、野田は党首の就任時に「もうノーサイドにしよう」と党内融和を呼び掛けた。しかし、小沢グループの離反は収まらなかった。特に菅政権以来の「税と社会保障の一体改革」は野田政権にとっても最重要課題であった。だが、これは消費税増税を伴うもので、小沢らはマニフェストに反すると強く反発した。野田はかろうじて党内の了解を取り付け、法案の閣議決定、国会提出へとこぎつけ、「党が一致結束して対応することを確信し、また、全力を挙げていく決意であります」と国会でも答弁している14)2012.5.11 衆議院会議録 自民党野田毅議員の質問に対する野田総理の答弁。しかし、7月4日には小沢らは民主党を離党し、国民の生活が第一を結成、分裂は決定的なものとなった。
税と社会保障の一体改革
「税と社会保障の一体改革」は野田総理が「政治生命をかける」政権の最大課題であった。社会保障の安定財源と財政健全化を同時に達成することを目指すもので、年金制度改革、被用者年金一元化、子育て政策と一体化させることで、単なる消費税増税ではない改革であることを強調していた。関連する7つの閣法15)①社会保障の安定財源の確保等を図る税制の抜本的な改革を行うための消費税法等の一部を改正する等の法律案(5月11日本会議趣旨説明)、②社会保障の安定財源の確保等を図る税制の抜本的な改革を行うための地方税法及び地方交付税法の一部を改正する法律案(5月11日本会議趣旨説明)、③公的年金制度の財政基盤及び最低保障機能の強化等のための国民年金法等の一部を改正する法律案(5月8日本会議趣旨説明)、④子ども・子育て支援法案(5月10日本会議趣旨説明)、⑤総合こども園法案(5月10日本会議趣旨説明)、⑥子ども・子育て支援法及び総合こども園法の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律案(5月10日本会議趣旨説明)、⑦被用者年金制度の一元化等を図るための厚生年金保険法等の一部を改正する法律案(5月8日本会議趣旨説明) が提出され、5月8日から11日にかけて衆議院本会議で順次趣旨説明が行われ、特別委員会16)社会保障と税の一体改革に関する特別委員会。委員長に副議長経験者の中野寛成議員を充てるという異例の体制をとったことからも民主党の法案成立に向けた不退転の姿勢がうかがえる。に付託されて国会審議が始まる。
この7法案で最も議論となるのは消費税の引き上げであった。これは与党民主党にとってはマニフェスト違反の批判を受けるものである一方で、野党の自公は必ずしも反対するものではなかった。前回の衆議院総選挙前まで政権を担っていた自公は、歳出削減だけでは財政再建には限界があり消費税引き上げは避けて通れないと考えていた。「税制改の足を引っ張る気持ちは全くない。むしろ、推進勢力であります17)2012.5.11 衆議院会議録 自民党野田毅議員の質問」とすら述べている。自民党にとっては評判の悪い消費税増税を民主党政権がやってくれることは内心有難かったはずである。と同時に、この問題をめぐる民主党内の亀裂を利用して政権打倒につなげることもできる。
法案の衆議院の委員会審査は5月16日から始まり、委員会は21回、129時間、公聴会2回、地方公聴会1回と6月26日までのロングランとなった。この間、総理は問責決議案が可決された国土交通大臣と防衛大臣を事実上更迭し与野党協議の環境を整備した。与党内での法案反対論は強まり役職を辞する者さえいるなかで、自公の協力をとりつけるほかはなく、両党との修正協議を進めた。
修正が合意された結果、総合こども園法案18)最終的に衆議院で審査未了廃案となった。を除く6法案は民主、自民、公明、国民新党の賛成で6月26日の衆議院本会議で可決された。しかし、与党民主党議員の57名が反対票を投じ、16名が欠席、そのうち37名が除籍処分となった19)2012年6月27日 読売新聞。民主党は分裂し、7月11日には除籍処分となった議員を中心に小沢らが「国民の生活が第一」という政党を結成し20)2012年7月12日 読売新聞。7月4日に離党、院内会派「国民の生活が第一」を結成。政党としての「国民の生活が第一」の結成は7月11日(衆議院37人、参議院12人)。なお、衆議院では翌12日に「新党きづな」(2011年1月に民主党を離脱した議員が結成した院内会派)所属議員9人と統一会派「国民の生活が第一・きづな」を結成した。、政権基盤は一層揺らぐことになる。
参議院の特別委員会では7月13日から審査が始まり、8月10日に可決された。この間、13回の委員会が開かれ、公聴会が2回行われている。
参議院での法案採決に先立ち、民主、自民、公明の三党の党首会談が8日にもたれた。野田総理は選挙情勢の厳しさから解散の先送りを模索し翌年度の予算編成にも言及していた21)2012年10月20日 読売新聞。一方の自公は、税と社会保障の一体改革の参議院審議の最終盤の協力と引き換えに解散の確約を得たかった。確約がなければ内閣不信任決議案や総理問責決議案という全面対決、つまり法案の廃案という選択肢もあった。こうした状況のなかで三党党首会談が開かれた。
総理は一体改革実現のため、解散時期について「近い将来」ではなく「近いうちに」との表現で譲歩を示した。時期は明示されなかったが谷垣総裁はこれを了とした。玉虫色の表現ではあるが前進したと評価したのである22)2012年8月9日 読売新聞。この「近いうち」合意は、「先送りしない政治」の実現を三党が目指したことを評価する意見がある23)同上社説一方で、野田総理や谷垣総裁の決断にそれぞれの党内から強い批判が起こった(現実に谷垣は9月の自民党総裁選挙には出馬できず、安倍総裁に交代している)。
自公は法案採決に先立つ9日の国民の生活が第一や共産などが提出した野田内閣不信任決議案の採決の際には退席し(内閣不信任決議案は否決)、法案審議を急ぐため参議院の総理問責決議案については民自の間で採決しないことを決めた。一体改革法案は10日の参議院本会議で可決され成立した。
総理問責決議案可決
一体改革法案成立後、8月29日には参議院で総理問責決議案が可決された。国民の生活が第一など7会派が提出した問責決議案に自民党も賛成したものである。問責の理由に消費税増税が含まれていたが自民党は可決を優先した。公明党は欠席した。これにより、野党は今後の国会審議に応じないことし、与党のみで一部の法案審議は行われたが、会期終了日の9月8日まで事実上の休会状態となった。与野党の協力は終わり、野党としては約束を守って解散を行えということであった。与党内ではとても解散できる状況ではないと反対の声が強い。
近いうち解散
10月1日の内閣改造を経て(野田内閣においては実に1年2か月の間に3回目の改造)、臨時国会の召集を控え、事態打開を模索するため野田総理は19日に民自公の党首会談を開いた。8月に約束した「近いうちの解散」について総理は「だらだらと延命を図るつもりはない」としつつも明言は避け、その環境整備のための条件を提示した。公債発行特例法案、選挙の一票の格差是正、社会保障制度改革国民会議の早期設置であった。自公はまず解散の時期を明示しなければそれ以上の話はできないとして会談は決裂した24)2012年10月20日 読売新聞。
29日からの臨時国会は何の成算もない見切り発車となった。参議院においては総理の所信表明演説が行なえない異例の事態となった。問責決議案を可決された総理の所信演説は聴けないということである(なお、福田、麻生両総理は問責決議案可決後に国会を召集することはなかった)。国会、特に参議院の審議はほとんど進まなかった。
他方で、自民党は早期解散のため総理の提示した条件に歩み寄った。11月12日には、公債発行特例法案の成立に民自公三党間で合意した25)2012年11月13日 読売新聞。2012年度から2015年度までの間の公債発行を認める修正を行ったうえで、公債発行特例法案を成立させるというものであった26)前国会(第180回国会)の段階で、内閣からの修正の申し出により、法案が2012年度及び2013年度の公債を発行することになっていた。なお、内閣修正により法案名も「平成二十四年度における公債の発行の特例に関する法律案」から「財政運営に必要な財源の確保を図るための公債の発行の特例に関する法律案」に改められた。。自民党にとっては政権奪回後に毎年公債発行特例法案の審議に頭を悩ませる必要がなくなる、悪くはない話でもあった。また、社会保障制度国民会議27)税と社会保障の一体改革の閣法7法案とともに審議され成立した民自公提出衆法の「社会保障制度改革推進法」に基づくもの。社会保障制度改革を行うために必要な事項を審議するため内閣に設置することになっていたが、自民がメンバーの人事案を提示せず、国民会議自体が設置できない状態になっていた。のメンバーの人選を提示することも了解した。総理の提示した環境整備を進める戦略をとった。
こうしたなか、11月14日に野田総理と安倍自民党総裁の間で党首討論が行われる。ここで総理は、安倍総裁に翌年常会での衆議院の定数削減について確約をすれば16日の解散をすると突然に発言をした。異例の公開交渉であった。解散の時期が2日後と明示されたため、野党は一挙に懸案の法案の処理を進めた。16日までに公債発行特例法案、衆議院の定数是正法案などが成立した。与野党が合意していた法案が参議院本会議で可決、成立すると、直ちに衆議院本会議が開会され、解散詔書が朗読されることとなった。
安倍政権、鳩山政権のときは、与党は強気の国会運営を進めた。野党はその強引な国会運営を激しく非難し、議長不信任決議案、多くの委員長解任決議案を提出して抗議の意思を示した。しかし、それ以外の福田、麻生政権、菅、野田政権のときは、衆参ねじれにより野党との話し合い、協調路線をとらざるを得なかったため、不信任決議案等の提出は少なく、それでも、参議院においては問責決議案が可決され政府の体力を奪っていった。
衆参ねじれの時期、与党自民党と与党民主党の対応も様相を異にしている。一つには与党自民党は衆議院で特別多数を持っており、最終的には法案を成立させる手段を持っていた。だが、与党民主党は特別多数を持っていなかったため、過去の国会運営やマニフェストの不備について総理や幹事長が謝罪までして、野党に協力を求めるしかなかった。
第二としては、与党自民党は衆参ねじれ下でも党内は概ね結束していたが、与党民主党は党内対立をも抱え、しばしば閣僚や党内有力議員から政権批判の声が噴出した。内閣不信任決議案や税と社会保障一体改革の採決の際にも党内の造反があり、多数を持っているはずの衆議院ですらも危うい状況となった。政権としてこれに対応するには野党の協力を得るしか方策がなかった。総理は退陣、解散といった言葉を苦し紛れながらも巧みに操って党内や野党の譲歩を誘い、ギリギリのところで国会運営の舵を取り、政策を実現していくしか手段がなかった。民主政権は政党としてのガバナンスもできていなかった。
脚注
本文へ1 | 2010年6月2日 読売新聞夕刊、6月3日 読売新聞 |
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本文へ2 | 参議院が否決した2010年11月26日に両院協議会を開いたが、両院の意見が一致せず、衆議院の議決が国会の議決となった。 |
本文へ3 | 2011年1月9日 読売新聞 |
本文へ4 | 2011年1月19日 読売新聞 |
本文へ5 | 2011.1.26 衆議院会議録 |
本文へ6 | 民主党は2010年12月にたちあがれ日本に連立を打診したが断られ、連立参加に賛成した与謝野馨のみが内閣に入った(2010年12月28日 読売新聞、2011年1月13、14日 読売新聞)。与謝野は2011年1月13日たちあがれ日本を離党し会派も離脱、14日内閣府特命担当大臣(経済財政政策、少子化対策、男女共同参画)、社会保障・税一体改革担当大臣就任、18日民主党・無所属クラブ所属。なお、9月2日の野田内閣発足を機に、5日には民主党・無所属クラブから会派離脱した。 |
本文へ7 | 2011年3月20日 読売新聞 |
本文へ8 | 2011年6月2日 読売新聞 |
本文へ9 | 2011年6月3日 毎日新聞夕刊 |
本文へ10 | 2011年6月3日 読売新聞 |
本文へ11 | 2011年7月23日 読売新聞 |
本文へ12 | 電気事業者による再生可能エネルギー電気の調達に関する特別措置法案(閣法) |
本文へ13 | 2012年6月5日 読売新聞 |
本文へ14 | 2012.5.11 衆議院会議録 自民党野田毅議員の質問に対する野田総理の答弁 |
本文へ15 | ①社会保障の安定財源の確保等を図る税制の抜本的な改革を行うための消費税法等の一部を改正する等の法律案(5月11日本会議趣旨説明)、②社会保障の安定財源の確保等を図る税制の抜本的な改革を行うための地方税法及び地方交付税法の一部を改正する法律案(5月11日本会議趣旨説明)、③公的年金制度の財政基盤及び最低保障機能の強化等のための国民年金法等の一部を改正する法律案(5月8日本会議趣旨説明)、④子ども・子育て支援法案(5月10日本会議趣旨説明)、⑤総合こども園法案(5月10日本会議趣旨説明)、⑥子ども・子育て支援法及び総合こども園法の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律案(5月10日本会議趣旨説明)、⑦被用者年金制度の一元化等を図るための厚生年金保険法等の一部を改正する法律案(5月8日本会議趣旨説明) |
本文へ16 | 社会保障と税の一体改革に関する特別委員会。委員長に副議長経験者の中野寛成議員を充てるという異例の体制をとったことからも民主党の法案成立に向けた不退転の姿勢がうかがえる。 |
本文へ17 | 2012.5.11 衆議院会議録 自民党野田毅議員の質問 |
本文へ18 | 最終的に衆議院で審査未了廃案となった。 |
本文へ19 | 2012年6月27日 読売新聞 |
本文へ20 | 2012年7月12日 読売新聞。7月4日に離党、院内会派「国民の生活が第一」を結成。政党としての「国民の生活が第一」の結成は7月11日(衆議院37人、参議院12人)。なお、衆議院では翌12日に「新党きづな」(2011年1月に民主党を離脱した議員が結成した院内会派)所属議員9人と統一会派「国民の生活が第一・きづな」を結成した。 |
本文へ21, 本文へ24 | 2012年10月20日 読売新聞 |
本文へ22 | 2012年8月9日 読売新聞 |
本文へ23 | 同上社説 |
本文へ25 | 2012年11月13日 読売新聞 |
本文へ26 | 前国会(第180回国会)の段階で、内閣からの修正の申し出により、法案が2012年度及び2013年度の公債を発行することになっていた。なお、内閣修正により法案名も「平成二十四年度における公債の発行の特例に関する法律案」から「財政運営に必要な財源の確保を図るための公債の発行の特例に関する法律案」に改められた。 |
本文へ27 | 税と社会保障の一体改革の閣法7法案とともに審議され成立した民自公提出衆法の「社会保障制度改革推進法」に基づくもの。社会保障制度改革を行うために必要な事項を審議するため内閣に設置することになっていたが、自民がメンバーの人事案を提示せず、国民会議自体が設置できない状態になっていた。 |
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