国会の攻防(8)
昭和40年代①―農地報償法案、日韓条約
岸井和
2020.10.09
(3)1965年~1974年(昭和40年代)
1964年(昭和39年)11月に池田勇人総理は病気のため佐藤栄作に交代する。
昭和40年代の佐藤内閣から田中内閣にかけての10年間も、与野党の対決法案をめぐり不信任決議案等が提出され国会が紛糾し徹夜になることはしばしばあったが、鳩山内閣から池田内閣にかけてのように重要法案が廃案になることはなくなった。
これには、いくつかの要因があるであろう。その一つは社会党が政権獲得を目指す政党から抵抗政党に次第に変化し、国会の攻防において何らかのメリットを得ること、つまり、政権与党の評価を貶め、あるいは社会党の言い分をある程度実現することで国民に成果を誇示することを目的とするようになっていったことである。これは理念的な対立を含む議案の場合は困難であったが、後に述べるとおり金銭的に解決のつく問題ではそれなりに有意義であった。また、法案の修正、強行採決後の補充質疑、国会決議などの善後処理を社会党が妥協を拒むような場合は、多党化が進んで新しく参入した民社党や公明党を抱き込むことで審議を前進させることが図られた。
第二には、過度の暴力的抵抗が批判を浴びるようになると、社会党は「合法的」抵抗を行うようになるとともに、院外の大衆行動もそれ以前と比べれば過激さは低下した。「物理的抵抗は次第に数を減じ、六〇年代末を最後としてその例をみなくなった。かわって登場したのが「審議拒否」戦術である。1)佐藤誠三郎ほか 「自民党政権」中央公論社 昭和61年5月10日」とされる。これは1969年の大学運営臨時措置法案のときの国会を最後にということを意味するのであろう。ここでいう物理的抵抗がどの程度のものをさすのかよくわからず、その後も乱闘に近いものはあったが、過激さが低下したのは事実である。本会議での戦術も洗練され始め、評判の悪い牛歩はなくなりはしないものの、石つぶてのように突然に休憩の動議や散会の動議を連発することはほとんどなくなり、本会議は遅々としてもその流れは読みやすくなった。
第三には、国会の過度の混乱の後始末として与野党で国会正常化の合意を繰り返し、それは何度も反故にされてきたが、これとは別に非公式な意思疎通方法が採られるようになった。いわゆる国対政治である。1968年に自民党の田中角栄幹事長、園田直国対委員長が国会運営の主導権を握った頃から与党による野党の懐柔が徹底され2)2009年10月5日 日本経済新聞、「1970年頃から、国対委員長の力が強まってきた3)橋本五郎ほか 「日本政治の小百科」一芸社 2002.4.20」。与党がたとえ強行採決をするにしても事前に野党に知らせ、幹部同士ではお互いに過激にならないよう申し合わせた。野党が審議拒否をする場合も、事前に質問者が誰の時、何に関する質問の時か、事前に了解ができていた。「異例づくめの国会運営がつづくと、与野党ともそれに慣れてしまい、審議再開の交渉も案外なごやかに行われるようになった。「今後、自民党は強行採決を慎む、野党は審議拒否をしない」という約束文書が交わされて一件落着となる。私は何枚書いたか覚えていないほど…4)竹下登 「証言 保守政権」読売新聞社 1991年11月19日」という世界が形成されていった。「重要法案の成立には億単位のカネが与党から野党に流れるとの憶測が絶えなかった5)2009年10月5日 日本経済新聞」。
第四に、特に佐藤内閣の時代は自民党の派閥間の抗争が沈静化し、法案審議に関して反主流派からの陽動作戦も抑えられた。佐藤政権の間は、対立する派閥の重鎮、池田、大野伴睦、河野一郎らが死亡し、総理が党内を掌握し、背後から国会の混乱が誘発される事態がなくなった。したがって、反主流派を背景に議長が政権の意向に反するような行動に出ることもなくなった。衆議院の船田中議長、石井光次郎議長は自分の職を失うような事態でも政権の方針に従った。参議院の重宗雄三議長も池田の時とは異なり、同郷で旧知の佐藤の政権を守った。佐藤政権は与野党対決法案はすべて成立させている。しかし、田中角栄政権になると派閥の対立は再び激化し、また、重宗の後任の河野謙三参議院議長は参議院の自律性を重視し必ずしも政権の言うことをきかなくなった。
この10年間で、激しい与野党の攻防が繰り広げられたのは、農地報償法案(1965年、第48回国会)、日韓基本条約(1965年、第50回国会)、健保特例法案(1967年、第56回国会)、大学運営臨時措置法案(1969年、第61回国会)、沖縄返還協定(1971年、第67回国会)、筑波大学法案(1973年、第71回国会)であった。
①農地報償法案6)正式名称は「農地被買収者等に対する給付金の支給に関する法律案」(1965年、第48回国会)
昭和40年代に入って最初に国会が紛糾した案件は1965年の農地報償法案であった。戦後政策の農地解放で土地を強制的に買収された旧地主層に対し、総額1500億円の補償を行うものであった。買収当時、すでに少額の補償はされていたが、高度経済成長で地価が上昇すると不満が強まったため、改めて報償として補償を行うものであった。社会党は金額が大きいこと、選挙目当ての再度の補償であることだけではなく、旧地主層優遇策で、戦後の農地解放による民主化政策を否定する反動立法であると批判を展開した。
この国会の5月13日の夕方、もう一つの重要案件であったILO条約関連案件7)正式名称は「結社の自由及び団結権の保護に関する条約(第八十七号)の締結について承認を求めるの件」。条約とともに国家公務員法改正案などの関連4法案が提出されていた。同条約は1960年に最初に国会に提出されたが、公務員の労働関係など関連法案の内容をめぐり与野党の対立があり、条約の承認及び法案の成立は遅れていた。第48回国会においても対立は続き、審議拒否が行われ衆議院の特別委員会では強行採決となった。しかし、船田議長の裁定に基づき、自民党、社会党、民社党の間で関連法案の修正合意がなされ、円満に衆議院を通過した。が参議院での委員会で採決された直後、自民党は農地報償法案を衆議院内閣委員会で抜き打ち的に採決した。社会、民社両党は採決以前に戻すことを要求、そうでなければ審議に応じない姿勢をみせた。これに対して、船田中衆議院議長のあっせんで与野党間の協議が行われ、「各党が法案審議促進に協力すれば会期延長はしない、農地報償法案を含む各法案については法規慣行に従い協力すること」を申し合わせた結果、翌日の14日に衆議院を平穏に通過した。
しかし、同法案を審議していた参議院の大蔵委員会において18日に質疑が打ち切られ混乱したことをうけ、自民党は参議院の審議時間確保のため、当初会期最終日であった翌19日に衆議院本会議において野党欠席のまま会期延長を議決した。しばらくの国会空転を経て、自社両党の国対委員長会談等で大蔵委員会の審議再開、正常化で合意したものの、与党は延長後の6月1日までの会期を考慮して委員会審議を打ち切り最終的に本会議で中間報告を求める方針を採った。
5月26日からの参議院本会議では、与党が中間報告を求める動議を提出し、野党は西田信一大蔵委員長解任決議案、重宗、重政庸徳正副議長不信任決議案を提出し、途中休憩動議なども提出されたため、会議は長時間に及び農地報償法案が成立したのは28日となった。
この農地報償法案審議については、特に参議院本会議は休憩を含めて50時間近くになったが、与野党の話し合いの雰囲気が醸成されつつあることを感じさせる。衆議院内閣委員会での抜き打ち採決にあたり「…抜打ち採決は午後五時半ごろ行われたが、自社両党国会対策委員の間では八時過ぎに質疑打ち切りを行うことで内々の話がついていた。…(しかし、内閣委員会の自民理事に正確にその話が伝わらず採決)…したがって、採決直後の自社両党の国対委員長会談で自民党側ははっきり手落ちを認め…8)1965年5月14日 朝日新聞」とある。これによりいったんは「会期延長はしない」との合意をせざるを得なくなった。それにもかかわらず、会期末が近づくと自民党単独で延長を決め、さらに中間報告を行うこととしたことから社会党の対決姿勢は強まる。
しかし、参議院本会議の最終段階では「与野党の間で議事の進め方について事前に話合いがついたので、同夜の本会議では自民党から発言時間制限や質疑打切りなどの動議は出ず、同法案の採決で社会、共産両党が約一時間にわたる牛歩をしたほかは、質疑、討論の議事は順調に進んだ9)1965年5月29日 朝日新聞」。自民党の不手際がなかったら社会党がどこまで本気で抵抗したのか分からない。とはいえ、お互いの意思疎通の粗さは目立ったが、昭和30年代とは異なる自社間の攻防の在り方が見え始めた。
②日韓条約、関連3法案10)正式名称は「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約等の締結について承認を求めるの件」、「日本国と大韓民国との間の漁業に関する協定の実施に伴う同協定第一条一の漁業に関する水域の設定に関する法律案」、「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定第二条の実施に伴う大韓民国等の財産権に対する措置に関する法律案、日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する日本国と大韓民国との間の協定の実施に伴う出入国管理特別法案」(1965年、第50回国会)
1965年秋の第50回国会の日韓条約の審議は、佐藤内閣時代でも最も与野党が対立した場面であった。日韓条約は戦後の日韓国交正常化を目指すものであったが、野党はこれが韓国の軍事政権に与し、南北朝鮮の分断を固定化するものであるとともに、軍事同盟に発展し、アジアの平和を脅かす恐れがあるとして強く反対していた。社会党は法規、慣例に従って合法的に徹底的な抵抗をする方針をとり、改定日米安保条約のときのような暴力的な対決とまではいかなかったが激しいものがあり、自民党は脱法的な国会運営で乗り切った。
日韓案件については、基本条約、各種協定、交換公文が一括してひとつの条約として提出された。そのため個別の判断ができないのはおかしいと、承認案件のそもそもの提出形態から野党のクレームがつき、設置された特別委員会の日程についても話し合いが難航、審査はしばしば中断された。11月6日には速記もとれないほどの混乱の中で委員会採決された。
本会議を前に、船田中衆議院議長は、「委員会採決は穏当を欠くきらいがないとはいえないが有効」と判断し、ただ、委員会での審議の不足を本会議でおぎなうことを提案した。しかし、社会党は日韓案件の委員会差し戻しを譲らず議長提案を拒否したため、議長は職権で9日の本会議をセットした。
本会議では、椎名悦三郎外務大臣不信任決議案、坂田英一農林大臣不信任決議案、福田赳夫大蔵大臣不信任決議案、三木武夫通商産業大臣不信任決議案が9日から10日にかけて審議、否決され、その深夜に石井光次郎法務大臣不信任決議案が提出された。翌11日の午前零時過ぎから午後11時過ぎまでの本会議では野党の徹底的な抵抗で日韓案件の審議は全く進まなかつた。
日を跨いだ12日午前零時18分、衛視と自民党議員に護衛された船田議長は議長席につくと、直ちに法務大臣不信任決議案を後回しとし、日韓案件を議題宣告、委員長報告、質疑討論を飛ばして、条約を承認、関連法案を可決、そのまま散会を宣告した。この間、わずか1分。ほとんど闇討ちであり、異例の議長発議で議事の順序を変更し、条約などを採決に持ち込んだ。社会党は日韓案件を先議すべしとの動議が出るものと予想していたが、想定外の事態になすすべもなかった。これにより、参議院で議決されなくても12月13日までの会期内に憲法第61条11)「条約の締結に必要な国会の承認については、前条第二項の規定を準用する」(※前条第二項「予算について、参議院で衆議院と異なつた議決をした場合に、法律の定めるところにより、両議院の協議会を開いても意見が一致しないとき、又は参議院が、衆議院の可決した予算を受け取った後、国会休会中の期間を除いて三十日以内に、議決しないときは、衆議院の議決を国会の議決とする」)により自然承認(11日の終了とともに)されることが決まった。竹下登によれば「私が記憶しているかぎりでは、自民党が本当に抜き打ち採決したのは日韓条約の衆議院本会議と大学法案の参院本会議の二回だけだったはず12)竹下登「証言 保守政権」読売新聞社 1991.11.19」であり、完全な秘密裏の作戦だった。
条約の自然承認は確定したが、関連法案はそうではない。与党の大強硬策に社会党をはじめとする野党の態度は硬化し、参議院の審議も難航した。参議院の特別委員会においても、12月4日に質疑が打ち切られ、強行採決の運びとなった。8日未明、重宗参議院議長と河野謙三副議長は与野党に調停案を示し、「委員会の混乱はまことに遺憾である、日韓案件についはまず条約について質疑の後9日中に議了する、引き続き関連法案の審議を行う」としたが、野党各党は委員会への差戻しを主張、調停は不調に終わった。
参議院の本会議は12月8日から11日まで続いた。まず8日の最初には、審議引き延ばしのために「松代地震についての政府の報告を求めることの動議」が提出され、牛歩の末否決される。次に、日韓条約等特別委員長寺尾豊君問責決議案が提出された。委員会で提出した特別委員長不信任決議案が無視されたとして本会議に問責決議案を提出したもので、特別委員長問責決議案はこのとき新たに考え出された戦術であった。翌日未明に、問責決議案が否決されると、重宗議長不信任決議案、河野副議長不信任決議案が提出され、この議事は翌日深夜まで続けられた。この10日には社会党には関連国内法の10数本の修正案を提出し審議引き延ばしを図る動きがあった。重宗議長は単なる議事妨害だとして受理を拒否する方針を固め、社会党も修正案を提出することで日韓条約賛成に態度を変えたと受け取られることを懸念し、またいずれにせよ会期内成立阻止は困難と判断し、抵抗の継続を断念した13)1965年12月11日 朝日新聞。かくして11日未明に日韓案件の本題に入り、自民党と民社党のみの出席のもとで、自然承認直前に条約は承認され、関連法も成立した。
日韓基本条約の審議では、衆参の両院での長時間にわたる攻防となったが、与党は結束していた。衆参の議長もその承認に向けて基本的には政府の意向に反するような姿勢はみられず、協力的であった。特に船田議長の采配は異例と言えるほどの与党寄りであり、国会閉会後、田中伊三次副議長と共に辞意を表明せざるを得なかった。次の会期に入ってからの12月19日、自社の幹事長書記長会談において、少数意見の尊重と物理的抵抗はしないことで国会正常化が進められる。同じ日に衆議院の正副議長は正式に辞表を提出した。
脚注
本文へ1 | 佐藤誠三郎ほか 「自民党政権」中央公論社 昭和61年5月10日 |
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本文へ2, 本文へ5 | 2009年10月5日 日本経済新聞 |
本文へ3 | 橋本五郎ほか 「日本政治の小百科」一芸社 2002.4.20 |
本文へ4 | 竹下登 「証言 保守政権」読売新聞社 1991年11月19日 |
本文へ6 | 正式名称は「農地被買収者等に対する給付金の支給に関する法律案」 |
本文へ7 | 正式名称は「結社の自由及び団結権の保護に関する条約(第八十七号)の締結について承認を求めるの件」。条約とともに国家公務員法改正案などの関連4法案が提出されていた。同条約は1960年に最初に国会に提出されたが、公務員の労働関係など関連法案の内容をめぐり与野党の対立があり、条約の承認及び法案の成立は遅れていた。第48回国会においても対立は続き、審議拒否が行われ衆議院の特別委員会では強行採決となった。しかし、船田議長の裁定に基づき、自民党、社会党、民社党の間で関連法案の修正合意がなされ、円満に衆議院を通過した。 |
本文へ8 | 1965年5月14日 朝日新聞 |
本文へ9 | 1965年5月29日 朝日新聞 |
本文へ10 | 正式名称は「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約等の締結について承認を求めるの件」、「日本国と大韓民国との間の漁業に関する協定の実施に伴う同協定第一条一の漁業に関する水域の設定に関する法律案」、「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定第二条の実施に伴う大韓民国等の財産権に対する措置に関する法律案、日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する日本国と大韓民国との間の協定の実施に伴う出入国管理特別法案」 |
本文へ11 | 「条約の締結に必要な国会の承認については、前条第二項の規定を準用する」(※前条第二項「予算について、参議院で衆議院と異なつた議決をした場合に、法律の定めるところにより、両議院の協議会を開いても意見が一致しないとき、又は参議院が、衆議院の可決した予算を受け取った後、国会休会中の期間を除いて三十日以内に、議決しないときは、衆議院の議決を国会の議決とする」) |
本文へ12 | 竹下登「証言 保守政権」読売新聞社 1991.11.19 |
本文へ13 | 1965年12月11日 朝日新聞 |
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