悲しき内閣不信任

悲しき内閣不信任

岸井和
2021.06.15

会期末、恒例行事の不信任

梅雨は内閣不信任の季節である。常会の会期末にあわせ、ちょうど梅雨の季節の6月~7月にかけて内閣不信任が恒例行事のように提出されるからである。

内閣提出法案が着々と成立し、国会もそろそろ閉会になろうとするとき、野党は挨拶代わりに内閣不信任を提出する。長い常会も終わりに近づき与党には達成感があるが、見せ場に乏しい野党としては最後に文句でも言わねば気が収まらない。内閣に退陣を迫っているのであるから、本来ならば自党が政権を取った際の国家観でも語って然るべきであろうが、実際には政権批判に終始している。それも、野党の役割なのか。

今回はコロナの影響もあり様相が違うかなとも思われた。3月の末には、野党の幹部が「4月中でも5月中でも(内閣不信任を)出すことはありうる」と威勢よく語った。これに対し、与党幹部は「不信任提出ならば直ちに解散で立ち向かうべきだと(総理に)進言した」と野党を恫喝し、総理も「(不信任の提出は解散の大義に)当然なる」と呼応した。確かに内閣不信任提出を契機に衆議院が解散されたことも過去に5回ある。これらの時は内閣不信任提出→解散の筋書きはあらかじめできていた。

与党の脅しが効いたのか5月に入ると野党幹部は「提出したら解散すると(与党幹部らが)明言しているので提出できない」と無用な遠慮モードになる。しかし、内閣不信任という野党にとって「最大の対決カード」を自ら手放すと宣言するのは愚の骨頂である。この発言に野党内の反発が大きかったのか、5月下旬には「不信任は菅内閣が信任できないことを問うもので退陣を求めるのが基本的な考え…緊急事態宣言下で解散・総選挙という判断をするなら国民を無視している」と腰が引けつつ不信任提出を正当化する。マスコミを介しての両者のチキンレースが続く。

そして、6月に入るころには、「(69日の)党首討論の後に最終的に判断」「全て党首討論での首相の答弁次第だ」と。迫力のない党首討論が終わると野党党首が集まって「会期延長をしなければ新たな対抗措置をとる」と内閣不信任提出をにおわせた。いずれにせよ、与党に会期延長を拒否されると内閣不信任を6月15日に提出した。なんだ、結局は会期末だ。

最大の対決カード

これまで、国会の会期(特に常会)が終盤に差し掛かると、恒例行事のように野党から内閣不信任が提出されてきた。55年体制以降、野党第一党が社会党の時代から民主党、現在の立憲民主党の時代に至るまで多くのケースで会期末に提出されている。

内閣不信任は、法的には、立法府(より民意を反映する衆議院)の行政府・内閣に対する一つの重要なコントロールの手段であり、憲法で定められているように可決されれば内閣総辞職か衆議院の解散へとつながる。衆議院にのみ認められた国会の最重要議案である。だが、本当に「最大の対決カード」なのか?

政治的な国会の攻防からみれば、野党にとって、内閣不信任は重要法案に対する抵抗の最後の手段であるか、政府与党に対する批判を総括的に披瀝する場となる。重要法案の審議は会期末にまでもつれこむことが多く、また、締めくくりの野党の不満の開陳の場でもあるから、会期末の提出、審議が多くなる。さらには、1会期に1度しか審議できないという一事不再議の原則の縛りや、内閣不信任提出後は個々の大臣への不信任は出せなくなってしまうこともあり、野党としてはスペードのエースは最後まで温存する。野党が国会で主導できる最大の議事、見せ場なのである。

しかし、法的にも政治的にも重要な内閣不信任が緊張感の漲る本会議場で審議されているかと言えば、実はそうでもない。与党にとって内閣不信任は屁の河童である。毎年の恒例行事は「否決」されることが事前に明らかであるからである。

 

否決される内閣不信任

野党は少数派であり採決すれば可決されることがないのは当然のことである。野党は激しい口調で政府を批判し、長広舌を振るってその理由を延々とまくしたてるが賛否に影響を与えるわけでもない。それに対して与党議員が短い時間で内閣不信任がいかに理不尽か反対の見解を述べる。議席に座る大勢の与党議員は、野党議員の盛り上がりを冷笑しつつ、時計をチェックし、ヤジを飛ばして2時間ほど辛抱して採決の時間がやってくるのを待つ。結論が見えているだけではなく、議論ではない非難の応酬が続き、何ら建設的ではない。

可決されるのは、与党内の抗争によって造反が出たときである。造反が起きることは事前に予想されているから、緊迫した議場内では最後の瞬間まで一縷の望みをかけて説得し翻意を試みる。記名投票が始まれば極度の興奮に包まれる。投票する議員の手も震えている。しかし、こうしたケースは稀であり、内閣不信任が可決されたのは戦後4回だけで、20年に1度の話である。与党内での表立った足の引っ張り合いは政権交代にもつながりかねないことから、最重要議案での造反はなかなか起こらない。

 

英国の内閣不信任

「恒例行事」の観点からは、わが国での内閣不信任は多すぎる。議会の母、議院内閣制の先輩である英国をみると、1955年以降、31回の内閣不信任ないしは信任動議が審議されている(House of Commons Library Briefing Paper Confidence Motion)。件数だけ見ればほぼ2年に1回のペースであるが、1994年以前に集中しており、近年は内閣不信任、信任動議が審議されること自体がなくなってきている。困難な問題を抱え政権が弱体化しているときには不信任動議が頻繁に提出され、あるいは政権が自らの信任、安定回復をかけて信任動議を提出していた。政権が安定しているときには何年にもわたって提出されない。当時も不信任動議が可決されることは稀だったが野党は攻勢をかける時は一気に攻め込む。

多すぎる日本の内閣不信任

日本では、1955年以降昨年まで42 件の内閣不信任・信任が審議されている。野党第一党が社会党の時は2年に1回くらいのペースであったが、新進党、民主党、立憲民主党などが野党第一党になってからは、自民党が野党となった3年間を含め、ほぼ1年に1回の年中行事化された(上記表)。1995年以降の26年間に限って言えば、英国議会では1回(2019年)しか内閣不信任動議が審議されていないことを考えると、日本では23回審議されていることが際立つ。

何でも反対と揶揄された社会党も内閣不信任の扱いについては少なくとも件数からみる限り慎重であった。社会党が政権獲得を本気で考え、自社が多くの法案で激しく対立した昭和30年代には少ない(4件)。国会内ではなく大衆運動を利用していた。

社会党が総選挙で勝てず抵抗政党としての色彩が濃くなった昭和40年代には比較的多くの内閣不信任が審議され(7件)、法案の抵抗の道具としても活用した。与野党のなれ合い、国対政治が成熟した昭和50年代には減少に転ずる(5件)。

55年体制の崩壊へとつながる昭和60年からの10年間はさらに減少する(3件)。不信任による対抗よりも政権与党の会派の合従連衡が関心事であった。その後、新進党、民主党などが野党の中心となる平成7年以降は、件数は増加しほぼ毎年1回の不信任の審議となった。

自社の対立と馴れ合い政治の時代とは異なり、政権交代の可能性のある政党制となったがゆえに、かえって野党第一党の取り分は少なくなった。主張がぶつかり合い、陰でのディールもしにくくなった。すると、目に見える成果のない野党第一党は内閣不信任を提出し、そこで自らの主張をまとめて明らかにし、与党との違いを国民にアピールする場として利用する。否決は明らかでも、年に1度くらいはアピールをする場を設け、存在感を高めるか、少なくとも埋没しないようにするしかない。したがって、参議院の総理問責も数が多くなった。だが、これはグローバルスタンダードではない。

 

悲しき内閣不信任

皮肉なことに、乱発されていることで内閣不信任に対する注目度は下がってしまった。提出するまでの駆け引きは報道されても、国会での審議については手短な記事になるだけである。否決されれば何も変わらないわけで、永田町の世界だけのさざ波は何の実効性もなく世間の関心の対象とはならない。表向きは最重要議案ではあるが、国会議員も国民もさして重要ではないことをよく知っている。

立法府と行政府の権力関係を規律する統治機構の根本に関わるものが単に結果の知れた儀式となってしまっている。その儀式の理由も、野党が振り上げた拳を下ろすため、パフォーマンスやガス抜き、自己主張の開示、毎年出しているからということであり、「またか」と感じている国民は白けている。最重要議案が安易に提出され、会期末の行事と化し、淡々と否決されてしまっている現状は憲法の精神からしてみれば悲しいというほかない。

野党は違うことを考えるべきだ。内閣不信任の提出の時期、提出の理由、審議の方法など、先例にとらわれず、新たな発想をもって対応し、緊張感があり、政権の抱える問題点をよりはっきりと国民に提示する内閣不信任になるよう工夫すべきであろう。

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