衆議院議長とは?ー国権の最高機関の長とは何なのか?(5)
岸井和
2021.11.15
1議長はどうやって選ばれるのか
2衆議院議長は本当は誰が選ぶのか
(1)衆議院議長には何が期待されているのか――政府の出先機関か強い議長か
(2)自民党内(与党内)の衆議院議長選考
益谷秀次
2衆議院議長は本当は誰が選ぶのか?
(1)衆議院議長には何が期待されているのか――政府の出先機関か強い議長か
前述のように議長は各派協議会で与党から候補者が提示され、それを受けて本会議の投票で選出される(衆議院議長とは?(1)参照)。本会議の投票は明白であるものの、近年においては、その前段階の議長候補者はマスコミでも「何となくこの辺りの人であろう」という推測記事は出るが、具体的には(特別会の)召集日の近くになって報道され、ギリギリまで明らかにならない。このことは、議長候補者の実質的な決定はかなり少数の人間しか関与していないことを示唆していよう。
総理候補者は、事前に自民党内の総裁選挙があり、その総裁当選者が国会でも指名を受けることから、細かな裏取引などは別として選考過程はかなり明白である。しかし、議長は三権の長という最も重いポストであるにもかかわらず、事前の選挙もなく、党内の特定の役職と連動しているわけでもなく、ある日突然名前が提示される。
一般的に候補の対象となるのは、与党第一党の議員であり、人格識見が優れ、議会経験が豊富で与野党の信頼を得ている人物であろう。だが、これらの条件はかなり抽象的である。若干具体的に言っても、25年の永年在職表彰を受け、当選回数が概ね10回以上にはなっていること、大臣もそうだが、党の総裁、副総裁、幹事長等の最高ランクの役職や派閥の領袖を経験したことがあることが重要かもしれない。議長は総理大臣の当選回数よりも多い傾向にあり、議員歴の長いいわゆる重鎮が候補になってくる。実際にこうした条件に当てはまる衆議院議員は10人にも満たないのが普通である。したがってある程度の目星はつくが、それにもかかわらず、議長の実質的選考過程が不明確、特に近年になってより一層不透明なのは人事の持つ特有の曖昧性であろうが、それとともに小選挙区制導入以来力を増した総理(形上は総裁としての立場で)の判断に大きくかかっているということにある。
外形的基準を満たしたうえで具体的に誰にするのかは総理の表に出されない思惑が大きく関係する。よく言われるように「議長に祭り上げる」こともあろうし、これまでの功績に報いることも考えよう。自らの政権運営に手助けとなる、少なくとも邪魔にならない人選を考えるのも当然であろう。
自民ができて以来の議長をみてみると、総理候補から脱落した大派閥の重鎮、総理にはならない二番手実力者や年長の小派閥の長、ある意味「枯れた人物」が選ばれていることが多い。一種の処遇、論功行賞でもあり、祭り上げでもあり、総理、政権に対抗することのないような人選である。
他方で、「名議長」「強い議長」と呼ばれる人はどうであったか。益谷秀次や保利茂などである。この「名議長」「強い議長」とは何なのか?それは総理や内閣の意向に従うのではなく、野党の意見も斟酌しつつ国会独自の立場から高い見識を持って議会運営を判断した議長ということである。つまり、本質的に矛盾するものがあり、総理に選ばれたという恩があるものの総理の言いなりにならない責務を果たしたということである。議長に就任した者はこのことを重々承知しているであろうが、その与野党の対立する狭間でその責務を実行に移すことは難しいときもある。
議長は国権の最高機関の長ではあるが、かなり孤独な立場である。議長は国会の中では会議体を運営する責任者でしかない。そのもとにいるのは意見の異なる与野党の議員たちで、それぞれの立場から自由に勝手に議論をし、組織としての統率はとれていない。議長は各議員に対し組織上のルールとして議論の内容や国会戦術について指示できる権限を持たない。それどころか、野党議員は政府追及、与党の横暴の糾弾のために議長を利用しようとする。他方の与党議員ですら、つまり、議院運営委員会の委員長を始めとするメンバー、各常任委員会委員長は議長を支えるとは言いつつも、実は政府の方を見つつ委員会を運営している。これからのキャリアアップを考えれば、政府や党の執行部の意に反することのないように行動することは仕方がないのかもしれない。
ところが、同じ与党(出身)でも議長はスタンスが大きく異なる。国権の最高位に就いているのでキャリアアップについては関係がなく、国会の権威を背負うものとして中立公正な運営を心掛ける覚悟を持つ。それゆえに党籍(会派)を離脱する。総理が強い議長を望まないとすれば、中立公正を求める強い議長であるために単なる党派的な「権力」基盤ではなく、健全な国会運営を維持するための「権威」の基盤を持たなければならない。
(2)自民党内(与党内)の衆議院議長選考
戦後一時期の各党の合従連衡、多数派工作による議長選任の時代から、自社二大政党制になると自民から議長を選出するのはほとんど当然視されるようになり、議長の選任は自民党内の人事選考過程に組み込まれる。それでも、自民内には強力な派閥が多く存在していたため、閣僚や党幹部の人事との兼ね合いから各派閥の領袖の了解がなければ議長を決められなかった。そのため、この当時は議長選考に関わる者も多く、その過程についてもある程度マスコミで報道されていた。その過程のなかで総理は自らの意向に究極的には逆らうことのない議長を党内人事の一環として選ぼうとするのは自然なことではある。したがって、本来的に議長は弱い存在であり、出身母体である与党の方針を最後まで拒否することは難しく、強行採決の犠牲として詰め腹を切らされることも多かった。
〇益谷秀次議長(1955年3月18日(第22回(特別))~1958年4月25日(第28回)【解散】)
自民が結成されたとき、すでに議長となっていたのは益谷であった。前述のように、与党民主の議長候補者の三木武吉に対する怨嗟から野党の自由と社会が手を組んで誕生した議長である(衆議院議長とは?(2)参照)。野党出身の議長として選ばれていたが、保守合同により与党出身の議長となった。
益谷は、判事出身であるが茫洋とした性格で、「ひるあんどん」「なまこ」などとあだ名されていた。酒豪で院内の食堂で飲んでから本会議に出てくることもあったという。議長としての力量を疑う声もあった。しかし、彼は「名議長」と言われるようになった1)たとえば、1963年6月21日の衆議院本会議で、社会の山花秀雄議員は「…近来名議長はいたか、私はおりましたとお答えいたします。私は昭和21年から衆議院議員に当選して、もう何年になりますか、長い間入れかわり立会かわり議長さんを知っておりますが、これは自民党からお出になりました議長さんで、益谷秀次さんという方は、なかなか名議長と考えております。当時、たぶん御承知と思いますが、小選挙区法という、一般的には鳩山ゲリマンダー法という、こういう悪い法律ができましたときに、こういうことをもしやったならば、ほんとうに民意が代表できる公平な選挙は行なわれないという見地から、自民党、おまえも悪いよ、社会党も少し出過ぎるよ、ほんとうに公平な議事さばきをなすって、名声とみに上がった議長が益谷議長さんじゃなかろうかと思います。…」と発言している。。
「強い議長」―益谷議長と鳩山政権の小選挙区法案 自民が誕生してから最初に迎えた1956年の第24回通常国会では、鳩山一郎内閣とって小選挙区法案を成立させることが最大の目標であった。対する社会は党の消長に関わる選挙制度の根本的改革に総力を挙げて抵抗した。委員会審査は暗礁に乗り上げたため、自民は委員会での採決をあきらめ、連休前の4月28日に本会議で中間報告を求め強行突破する作戦に出ようとした。しかし、社会は5国務大臣の不信任決議案を、翌日には9常任委員長解任決議案を提出し、中間報告の審議を阻止した2)与党自民は鳩山内閣信任決議案を提出し(29日)、個別の大臣の不信任決議案審議を回避しようとした。また、解任決議案への対抗措置として5野党委員長に対する解任決議案も提出した。。 この間、益谷議長があっせんした両党の首脳会談(26日、27日)は決裂してしまう3)1956.4.27 朝日新聞。27日には議長が「委員会採決は4月30日、本会議採決は5月2日」とのあっせん案を提示したが、与野党ともに受け入れなかった4)1956.4.28 朝日新聞。委員会室や本会議場の周囲には与野党の議員や秘書が大勢押し掛け、一触即発の状況になっていた。 28日には、益谷議長は衛視や自民院外団にかつがれて議場に入り、本会議が開かれたが、社会が牛歩戦術に出たため多くの議事手続き上の動議の処理に時間がかかり、中間報告は持ち越しとなった。29日の本会議でも社会の抵抗は緩まず、裏では両党の駆け引きは続くが、事態は膠着状態となっていた。 5月1日になって益谷議長は両党の長老議員を議長室に呼び、これまで提出してきた不信任案、動議などは取り下げること、小選挙区法案は無条件で委員会に戻して審議してもらうことなどの新提案を行い、両党ともこれを受け入れた。さらには委員会の審査期間は議長に一任することとなった。議長は「選挙法の改正がいかに困難な問題であり、両党の利害が激突する問題であろうとも、その処理を急ぐあまり、わが国と国民の将来の命運をかけた議会政治自体を危機に陥れることは、どうしても避けるべきものと思う」5)1956.5.2 朝日新聞との談話を発表した。 この議長提案は、与党に法案成立を事実上あきらめさせることを意味していた。議長の粘り強い交渉と権威によって、与野党を説き伏せた。与党は議長提案を拒否することは横暴との誹りを受けることとなり、また野党も混乱を長引かせることへの批判を避けたるため、両者とも議長提案を飲むことを選択した。そもそも小選挙区法案は喫緊の課題というよりは自民の選挙戦略上の問題であった。選挙区区割りは「ハトマンダー」と呼ばれ、世論からの反発が強く、与党内からも強引に成立させることへの批判が出ていた。 5月7日には、議長は委員会審査の期限を12日までとする、議事妨害は行わないとの裁定を文書で提示するとともに、選挙法案本体と区割法案分割し、区割については今国会では棚上げしたいと口頭で述べた。法案を成立させて与党のメンツは立てるが、そのままでは機能しない内容とするわけである。 自民は議長裁定を尊重する形で修正案を提出する。それでも修正案の取り扱いをめぐり与野党は混乱を繰り返したため、11日には議長の新たなあっせん案が提示された。議長があっせんするたびに与党は不利になっていった。つまり「選挙区制については原則として一人一区制を採用する」との修正案を削除するというなどの内容で、小選挙区制法案ではなくなってしまった。社会は承認できないと言いながらも「混乱を避けて審議を軌道に乗せたい」として受け入れた。野党の完全勝利であった。12日には会期延長が議決され、骨抜きとなった法案は16日に衆議院を通過した(最終的には参議院で審議未了、廃案)。 益谷議長は鳩山総理や岸幹事長に選ばれたわけではないので恩義はなかったであろう。さらには、党内ではもともと反鳩山の吉田派に属し、政権に抗しても孤立無援となることはなく、与党内には議長を支援する勢力があった。そもそも法案の内容に懐疑的であり、さらには与党の強引な国会運営にも批判的であったため、その独特の個性もあって政府与党に遠慮なく自らの信念を押し通した。議長の権威の独自の基盤を持っていた。これにより「強い議長」と呼ばれるようになった。 |
脚注
本文へ1 | たとえば、1963年6月21日の衆議院本会議で、社会の山花秀雄議員は「…近来名議長はいたか、私はおりましたとお答えいたします。私は昭和21年から衆議院議員に当選して、もう何年になりますか、長い間入れかわり立会かわり議長さんを知っておりますが、これは自民党からお出になりました議長さんで、益谷秀次さんという方は、なかなか名議長と考えております。当時、たぶん御承知と思いますが、小選挙区法という、一般的には鳩山ゲリマンダー法という、こういう悪い法律ができましたときに、こういうことをもしやったならば、ほんとうに民意が代表できる公平な選挙は行なわれないという見地から、自民党、おまえも悪いよ、社会党も少し出過ぎるよ、ほんとうに公平な議事さばきをなすって、名声とみに上がった議長が益谷議長さんじゃなかろうかと思います。…」と発言している。 |
---|---|
本文へ2 | 与党自民は鳩山内閣信任決議案を提出し(29日)、個別の大臣の不信任決議案審議を回避しようとした。また、解任決議案への対抗措置として5野党委員長に対する解任決議案も提出した。 |
本文へ3 | 1956.4.27 朝日新聞 |
本文へ4 | 1956.4.28 朝日新聞 |
本文へ5 | 1956.5.2 朝日新聞 |
コメント