衆議院議長とは?ー国権の最高機関の長とは何なのか?(4)

衆議院議長とはー国権の最高機関の長とは何なのか?(4)

岸井和
2021.10.28

 1議長はどうやって選ばれるのか
  ①衆議院議長の選任と資質
  ②衆議院議長の選挙と権威、公平性、中立性
   ⅰ戦後初期、多党制のなかでの議長選出―理念なき多数派工作による議長ポスト決定
   ⅱ自社二大政党制下の正副議長選出
   ⅲ近年の議長選挙をめぐる与野党の対立
   ⅳ正副議長の党籍離脱

ⅳ正副議長の党籍離脱

日本の議会では、帝国議会時代以来、正副議長は中立、公平をもって議会運営にあたるべきだとの思想がある。英国議会の正副議長と同じような役割を期待されており、米国のように党派性の強い議長とは異なる。その非党派性を端的に示すものとして党籍離脱の慣行ができあがった。出身政党の要請と議長としての在り方が相反することもしばしば起こりうるわけで、その場合は議長としての役割を優先するという姿勢を外形的に明示するものである。

その一方で、形だけ党籍離脱をしても意味がない、離脱すれば根無し草になる、孤立無援になってしまう、議長を退いた後の選挙では党籍を復活せざるを得ないなどの理由から、党籍離脱に否定的な考えもあった。

 

〇帝国議会―党籍離脱の始まり

党籍離脱を巡る歴史は長い。1925年(大正14年)は普選法や治安維持法を審議するなか、衆議院本会議が与野党の対立が激しくなるだけではなく、世情も騒然としていた。2月3日の第50回帝国議会は騒擾状態となり、議員が負傷し守衛も殴打された。この異常事態の解決には時間がかかり、ようやく3月14日の本会議で、議長が職責上の釈明をし、関係議員が陳謝し、さらに「衆議院ハ院内近時ノ状態ニ鑑ミ各相戒メ秩序ヲ重ンジ典例ヲ守リ以テ議会ノ神聖保維センコトヲ期ス決議」が全会一致で可決された。これで一件落着かと思われたが、直後に議員の尾崎行雄は、事件当日の議長の議事・院内秩序の采配、その後の処理の瑕疵を問題視し、議長の責任、進退を追及する大演説を行った1)1925.3.14 衆議院議事速記録参照。長引く事態を収拾するために3月24日になって粕谷義三議長(立憲政友会)と小泉又次郎副議長(憲政会)はそれぞれ党籍を離脱した。

これと同じ日、議事規則改正に関する希望決議が全会一致で可決された。この決議は「議長ハ議院ノ秩序維持シ議事ヲ整理スルノ職責ヲ有ス従テ議院法並衆議院規則ニ於テハ議長ニ対シ絶大ナル権力ヲ附与セリ 而シテ議長ノ職ニ膺ル者ハ不偏不党厳正公平タルコトヲ要スへキヤ論ヲ俟タス今ヤ現任議長及副議長ハ此ノ趣旨ニ鑑ミ党籍ヲ離脱シ範ヲ将来ニ示シタリ 故ニ本院ハ将来議長及副議長ニシテ政党政派ニ属シタル場合ニ於テハ其ノ在職中ニ限リ党籍ヲ離脱セラレムコトヲ望ム」というものであり、以降、おおむね正副議長は党籍を離脱することとなる。

しかし、正副議長の党籍離脱はあくまでも慣行であり、これに異を唱える議長もいた。1932年3月に議長となった秋田清は党籍(政友会)の離脱をしないことを表明した。これに対し議員の工藤鉄男は全会一致で決まった希望決議を守るのか、議長個人の考えに従うのか決断をしろと本会議場で迫った。秋田議長は「…議長タル者ハ偏セズ党セズ、厳正公平ニ其職責ヲ盡サナケレバナラヌ…」とし、それまで希望決議に従って党籍離脱が行われてきたことを認めつつも「…実質上ニ於テハ、是ガ余リ意義ヲ為サナイコトデアルト云フコトハ認メ得ラレル…」と形骸化した制度だとして「私ハ此際党籍ノ離脱ヲ致サナイコトニ致シマス」と述べ、あまり意味がないからと党籍離脱を拒絶した2)1932.3.20 衆議院議事速記録参照

続く1934年に第31代議長に就任した浜田国松も同じく工藤の質問に答えて「…議長自身ガ有ッテ居リマスル議会政治、即チ政党政治ニ関スル自己ノ信念ニ於キマシテ、議長ハ党籍ヲ離脱スルノ必要ナシト決心ヲ致シマシタ…」と党籍離脱はしなかった3)1935.1.30 衆議院議事速記録参照

議長の党籍離脱は慣行として成立しつつあったが、議長の議会政治に対する考えによりそれを実行するか否かは本人の判断に委ねられている部分もあり、必ずしも確立したものとは言えなかった。しかしながら、戦時下の翼賛議会となり第34代議長以降は議長の信念ではなく議会の体制として党籍離脱の問題はなくなってしまう。

 

〇党籍を離脱する議長、しない議長

国会になってからしばらくは、議長が党籍を離脱する場合も、離脱しない場合もあった。議長の中立公平性という理念は別として党籍離脱は議長の意思に委ねられており、確立した慣行とまでは言えなかった。党籍離脱という「形」を重視するのか、実質を伴わなければ党籍離脱は意味がないと考えるのか。ただ、それ以上に、議長職の理念とは関係なく、与党が多数を持つ中で会派間の党派的な争いの一環として議長が選出されていたため、党籍を離脱する意味はあまりなかった。

※表はクリックで拡大します<PDFはこちら

〇堤康次郎議長と益谷秀次議長

戦後になって最初に党籍を離脱したのは堤議長(1953年)である。その就任挨拶では「…私は、最も厳正に、最も公平にこの職務を遂行するということを、重ねてお誓い申し上げます。申すまでもなく、党籍を離脱する考えであります。…」4)1953.5.18 衆議院会議録参照として就任当日に党籍を離脱した。堤議長の選出にあたり、野党四派は「(正副議長)当選のうえは党籍を離脱する」との合意をしていた5)1953.5.18 朝日新聞。野党四会派から選出された議長には中立性を明確にするためにも党籍離脱は必要であった

他方で、1955年にはやはり野党出身の益谷議長は「党籍を離脱したから公平な議事運営ができるとか、離脱しないから不公平になるというわけでもないので、党籍離脱をすることは考えていない」6)1955.3.19朝日新聞として党籍は維持した。

 

〇加藤鐐五郎議長と清瀬一郎議長

前述のように1958年には、自社の合意に基づき加藤議長は党籍を離脱した(衆議院議長とは?(3)参照)。続く清瀬議長は議長就任の約3月後の1960年5月17日に新安保条約に公正な立場をとるという理由で党籍離脱した7)1960.5.17朝日新聞夕刊が、その2日後には警官を議事堂内に入れ、3日後には自民単独での新安条約の本会議を開会した。党籍離脱は中立性よりも政治的な見せかけであると思わされる。なお、清瀬議長は議長職にある間、党籍を離脱したままであったが、その途中で副議長となった原健三郎は党籍を離脱していない。正副議長で対応が異なった。

1963年に次の議長となった船田中は党籍離脱をせず、しばらく党籍離脱をしない議長が続いた。船田議長は「党籍があっても議長席に着いた以上公平公正に議事を運営する」8)1963.12.7 朝日新聞として党籍離脱をするつもりはないとした。また、石井議長は「表面的な離脱よりも、フェアな気持ちでやることのほうが大切だと思う」9)1967.2.16 朝日新聞として離脱は考えないとした。松田議長は「野党は党籍離脱を要求しているが、党籍のいかんを問わず、至公至平な態度で臨むつもりなので、形にとらわれることはない」10)1969.7.17 朝日新聞とした。中村議長は「議長は多数を占める大政党がわがままなことをしないように努めねばならない。そのためにも自民党に籍を置いて発言の権限を確保しなければならない。党籍を離脱したからといって国会運営はうまくいくものではない。」11)1972.12.23 朝日新聞とした。

 

〇前尾繁三郎議長

1973年5月に中村梅吉議長は与野党対立の際、仲裁に入って国会正常化を果たしたが、その直後の船田前議長の叙勲パーティーで「(野党を)ごまかしておいた」と発言12)1973.5.26 朝日新聞夕刊、この中立を放棄したかのような放言に憤った野党は中村議長の辞任を強く要求し、議長が辞任を決めたのちも、次の議長については党籍離脱をすべきと求めた。

このような事態もあって後継議長となった前尾議長は就任時に党籍を離脱した。前尾は1969年、自民の「国会法改正に関する調査会」の会長として、ほとんど全員の反対を押し切って議長は党籍を離脱すべきものと決定したという背景があった13)前尾繁三郎 「私の履歴書―牛の歩み」 1974.12.30 日本経済新聞社。前尾は党籍を離脱しなければ議長を引き受けない決心をしていたので、議長になることは絶対にあるまいと考えていた。。参議院の河野謙三議長14)河野参議院議長は、自民の推す候補に対して、野党と自民の一部の支持を得て議長に当選していた。こうした背景とともに、河野議長の参議院改革への強い意志もあり、1971年の議長就任時と同時に党籍離脱をしていた。なお、参議院では森八三一副議長も党籍離脱をしている。とともに党籍離脱することになった。なお、このとき、自民は総務会で、正副議長の党籍離脱は個人の問題であり党としては拘束しないとの方針を決めた15)1973.5.29 朝日新聞夕刊。与党国対としては党籍離脱し中立を前面に出した議長が与党の方針に口出しをすることを懸念する声もあった。したがって、秋田大助副議長(自民)は「党籍を離れなくとも副議長としての公正中立は守れる」との信念から党籍離脱はしなかった16)同上。正副議長で党籍離脱の対応が分かれ、この時点では慣例というよりは議長本人の思想に基づく判断であった。

 

〇保利茂議長

次の保利議長は三宅正一副議長(社会)とともに議長就任後約7か月後1977年7月(第81回国会)に党籍を離脱した。与野党伯仲の時代に入り副議長ポストも野党第一党に戻り、党籍離脱の雰囲気は強まっていた。しかし、当初、保利は公正円滑な国会運営をやるのに当たって党籍があろうとなかろうと関係ない、党籍があった方が党に対する押さえがきくことがあると考えていた17)岸本弘一 「一誠の道―保利茂と戦後政治」1981.2.25 毎日新聞社。保利議長と足並みをそろえて、三宅副議長も当初は党籍離脱をしていない。社会はかねてより正副議長の党籍離脱を主張していたが、これは自民が正副議長を独占する場合には公正な国会運営を期すための最低条件だったが、副議長を社会から出し、常任委員長も各党に割り当てることからその必要性は薄らいだとした18)1976.12.25 朝日新聞

しかしながら、日韓大陸棚協定の審議で野党の反対のなかで会期延長を強行すると、公明、新自クから保利議長、三宅副議長への不信任提出の動きが出てきた。会期延長の本会議に欠席しておきながらも、その後の審議に応じるとした社会の方針に対する批判でもあり、場合によっては社会は再度副議長のポストを失うこととなりかねない。つまり、社会は不信任に反対であった。この事態の収拾策として、金丸信議院運営委員長のあっ旋により、正副議長が次の国会で党籍離脱を表明し、不信任を提出せずに国会の正常化を図るということとなった19)1977.6.3 朝日新聞

このときから、正副議長の党籍離脱の慣行ができあがったといえよう。この後はすべての正副議長が党籍離脱をするようになり、現在では議長の党籍離脱問題が政治の前面に出てくることはなくなった。議長が就任するとともに、自民幹事長から会派離脱20)正確には政党からの離脱と会派からの離脱は異なる。かつては政党から離脱(党籍離脱)していたが、現在では政治献金の問題から政党には所属したままで国会の中の会派からの離脱(会派離脱)をしている。1994年の政治改革法案成立により、企業・団体は議員個人への献金は行えず、献金は政党支部に対して行わなければないこととなったため、党籍を離脱すると大いに不都合となった。正確な資料に基づくものではないが、1996年の伊藤議長以降については会派離脱となっていると思われる。の届け出がほぼ自動的に提出されている。

脚注

脚注
本文へ1 1925.3.14 衆議院議事速記録参照
本文へ2 1932.3.20 衆議院議事速記録参照
本文へ3 1935.1.30 衆議院議事速記録参照
本文へ4 1953.5.18 衆議院会議録参照
本文へ5 1953.5.18 朝日新聞
本文へ6 1955.3.19朝日新聞
本文へ7 1960.5.17朝日新聞夕刊
本文へ8 1963.12.7 朝日新聞
本文へ9 1967.2.16 朝日新聞
本文へ10 1969.7.17 朝日新聞
本文へ11 1972.12.23 朝日新聞
本文へ12 1973.5.26 朝日新聞夕刊
本文へ13 前尾繁三郎 「私の履歴書―牛の歩み」 1974.12.30 日本経済新聞社。前尾は党籍を離脱しなければ議長を引き受けない決心をしていたので、議長になることは絶対にあるまいと考えていた。
本文へ14 河野参議院議長は、自民の推す候補に対して、野党と自民の一部の支持を得て議長に当選していた。こうした背景とともに、河野議長の参議院改革への強い意志もあり、1971年の議長就任時と同時に党籍離脱をしていた。なお、参議院では森八三一副議長も党籍離脱をしている。
本文へ15 1973.5.29 朝日新聞夕刊
本文へ16 同上
本文へ17 岸本弘一 「一誠の道―保利茂と戦後政治」1981.2.25 毎日新聞社
本文へ18 1976.12.25 朝日新聞
本文へ19 1977.6.3 朝日新聞
本文へ20 正確には政党からの離脱と会派からの離脱は異なる。かつては政党から離脱(党籍離脱)していたが、現在では政治献金の問題から政党には所属したままで国会の中の会派からの離脱(会派離脱)をしている。1994年の政治改革法案成立により、企業・団体は議員個人への献金は行えず、献金は政党支部に対して行わなければないこととなったため、党籍を離脱すると大いに不都合となった。正確な資料に基づくものではないが、1996年の伊藤議長以降については会派離脱となっていると思われる。

コメント

タイトルとURLをコピーしました