衆議院議長とは?ー国権の最高機関の長とは何なのか?(2)

衆議院議長とは?ー国権の最高機関の長とは何なのか?(2)

岸井和
2021.10.02

 1議長はどうやって選ばれるのか
  ①衆議院議長の選任と資質
  ②衆議院議長の選挙と権威、公平性、中立性
   ⅰ戦後初期、多党制のなかでの議長選出―理念なき多数派工作による議長ポスト決定
   ⅱ自社二大政党制下の正副議長選出
   ⅲ近年の議長選挙をめぐる与野党の対立
   ⅳ正副議長の党籍離脱 

②衆議院議長の選挙と権威、公平性、中立性

ⅰ戦後初期、多党制のなかでの議長選出―理念なき多数派工作による議長ポスト決定

1955年に社会党統一、保守合同がなされるまで、国会の会派は多数に及び、どの党も衆議院で支配的な多数を維持することはできない時期があったため、総理指名は各党の合従連衡により、あるいは決選投票の結果少数政権として成り立つこととなったが、議長人事に関しては政権樹立という問題はないのでより合従連衡が行いやすく各党の思惑に左右された。中立、公平といった理念よりも各党の思惑、多数派工作による人事抗争となり、野党から正副議長が選出されることもあった。

 

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〇第1回国会-松岡駒吉議長

戦後最初の1947年4月25日の総選挙の後、社会、民主などの連立政権が誕生する。各党間で連立交渉が鋭意進められたが、特に自由は社会左派の排除を強力に求め連立政権参加を渋るとともに、衆議院議長のポストは自由がとることを要求した。他方で、社会と民主は両党間で正副議長を配分することで合意し、5月21日(召集日の翌日)深夜の選挙の結果、第一党社会の松岡駒吉議長、第二党民主の田中萬逸副議長となった(第三党の自由は正副議長選挙では独自候補に投票し、野党となった)。

松岡は、わずか当選1回であった。行商、旋盤工などを経て労働争議を指導するなど、純粋な労働者出身であったが、社会右派でがんこなほどの共産嫌いで有名でもあり、連立工作が難航する中保守系政党も受け入れやすい人選を行ったものと言えよう。翌年秋には民自(自由の後身)の吉田茂政権となるが正副議長はそのままポストを維持した。

 

〇第5回~第15回国会-幣原喜重郎、林譲治、大野伴睦議長

1949年の総選挙では民自(50年3月から自由)が単独で過半数を獲得したため、議長は幣原喜重郎(死亡)、林譲治(自由幹事長就任のため辞任)、大野伴睦、副議長は岩本信行と民自が正副議長を独占し、選出の過程でも国会内での多数派工作が行われることはなく、党内での候補者選考のとおりとなった。

幣原は外交の最長老ではあるものの議会人としては当選2回しかなく議長職を固辞していたが、吉田総理の強い説得により就任を受諾、その際、岩本を副議長とすることを条件とした1)1949.2.12 朝日新聞

1951年3月に幣原議長の急逝を受け、総理の吉田と党幹事長、総務会長、政調会長らとの協議により後任議長は林に決まった。党内の長老である林は副総理として吉田との関係も良好であり、他党からの受けもよく、党内の異論もなかったことによる。言い換えれば「別にどうということもない人」との評価であった2)1951.3.14 朝日新聞「天声人語」。議長ポストも党内人事の一環として考えられ、突然の副総理から議長への転職も含め、議長の在り方について選考基準が熟しておらず、総理(総裁)の意向によるところが大きかった。

林は1年5月後には党内の吉田派と鳩山派の対立・混乱を収拾するため、吉田の意向により議長を辞任し幹事長となった3)1952.8.2 朝日新聞によれば、吉田と鳩山一郎との対立があるなか、林は吉田と姻戚関係にあり、鳩山の秘書官も長年勤め、両者の仲介役を期待された。。ただ、林は、このとき、議長という公職は一つの政党の都合で変えられないと主張していた4)1952.8.2 朝日新聞。林の後任議長についても同様に両派の対立の火種となりかけたが、林、益谷が「国家と党のために、体を一任してほしい」5)1952.8.25 朝日新聞と鳩山に近い大野を説得したうえで、吉田総理の了解を取り付けて大野議長となった。ただ、就任3日目にして衆議院は解散となった。

1952年の総選挙後も多数を握る自由から大野、岩本が再任され、与党が正副議長をにぎった。なお、翌年3月には「バカヤロー解散」があったため、大野は2度の議長就任にも関わらず、通算在任期間は5か月足らずであった。

 

〇第16回国会―堤康次郎議長

しかし、1953年の総選挙後の第16回特別国会は様相が変わった。

第一党の自由は衆議院の過半数を獲得できず、第16回国会の総理指名では決選投票の結果、吉田茂が自由の少数単独内閣を組織した。総理指名を巡っては野党間の協力は困難であり、第一回投票ではそれぞれの候補に投票し、そこで落選した社会両派は決選投票においては白票を投じた。

しかし、総理指名に先立つ議長選挙については、野党四派(改進、社会右・左、分派自由)は「国会運営の民主化をはかるためにわれわれ四派は公正無私の人材を選んで議長、副議長の共同候補者を出すことに努力する」との態度を確認していた6)1958.5.18 朝日新聞。野党は総理指名での協力はできないが、議長選挙では協調しやすかった。それでも、議長は野党第一党の改進から出すことは合意ができたものの副議長については四派の意見がなかなか合致しなかった7)副議長を野党のどの党から出すかは難航した。改進は当初は正副議長とも改進から出すことを主張したが、副議長については他党に譲ることを決めた。しかし、野党第二党の社会左派から出すことには抵抗した。社会右派と左派の間でも綱引きがあり、野党第四党の分派自由から出すことについても異議が出た。(1953.5.18朝日新聞) 。与野党の対立だけではなく野党内の思惑の違いから、不偏不党であるべきとされる正副議長の椅子は政局の対象となった。

5月18日の正副議長選挙では、与党自由の候補益谷秀次を破って野党改進の堤康次郎が議長に選出された。野党は一致して堤に投じた。当初議長候補には改進の芦田均や松村謙三の名前が挙がっていたが、芦田は昭和電工疑獄や難航する副議長問題から辞退の意思を示し8)1953.5.18 朝日新聞夕刊。芦田が辞退せずに議長に就任していた場合には、幣原に続いて2人目の総理経験者の議長が誕生していた。、松村は吉田に近いとの懸念があった。その点、堤は意外な人選ではあったが、中間派で実利的で吉田に就かず離れず公平な姿勢をとれるものと考えられた9)1953.5.19 朝日新聞 北昤吉

副議長については合意ができないまま、選挙に突入した。一回目の投票では自由、改進、社会左派の候補者間で過半数を得るものがなく、上位の自由、社会左派の候補の決戦投票となる。決選投票では二位三位連合が組まれ改進が社会左派の原彪に投票して自由の山口喜久一郎を破った。マジョリティーを持たない政党が多数併存し、その合従連衡の成否により全く異なる結果(総理は自由、議長は改進、副議長は左社)が生じることとなった。

堤新議長は「…国会は政府に隷属する機関ではありません。従つて、政府には幾多不満の点があるかもしれませんが、これまたやむを得ません。同時にまた、政府をいじめる機関でもありません。円滑なる政務の運行を阻害する機関でもありません。野党におかれましては御不満の点があるかもしれませんが、これまたやむを得ません。私は、最も厳正に、最も公平にこの職務を遂行する…10)1953.5.18 衆議院会議録と挨拶している。

 

〇第21回国会―松永東議長

1954年の議長選挙も複雑であった。吉田内閣の総辞職を受け、第20回国会の会期最終日12月9日に衆議院第二党の日本民主の鳩山一郎が左右社会の協力を得て総理に指名された。組閣や衆議院の構成は翌10日からの第21回国会に持ち越された。

新内閣の誕生に伴い、堤議長は人心を一新するためとして辞任願を提出(改進は民主結成に伴い11月に解党、堤は民主にも自由にも入らず無所属となり後ろ盾を失った)したが、正副議長、常任委員長の割り当て問題で各会派間で揉めたため召集日の本会議では議席の指定と議長の辞任許可しか行えなかった。ようやく翌日深夜の本会議において、与党民主の松永東が左右社会の支持を得て、第一党だが野党の自由の益谷秀次を破って当選を果たした。民主、社会両派間では、議長、副議長、議院運営委員長は民主、両社の三党に割り当てるとの三派申し合わせがなされていた11)1954.12.10 朝日新聞。民主は当初議長候補としていた安藤正純が入閣したため松永に差し替えていた。議長よりも大臣の方が重要であったのかもしれない。

原副議長は議長選挙が終わった後辞任、後任には同じく左社の高津正道が当選した。社会は鳩山首班に投票していたが、半ば与党、半ば野党であった。なお、第21回国会は1か月ちょっとで解散されている12)結果として松永の衆議院議長在任期間は45日間で史上2番目の短期間であった。最短在任期間は綾部健太郎議長の25日間。なお、大野伴睦議長の一度目の在任期間は3日間(その後、再任されている)。

 

〇第22回国会―益谷秀次議長

1955年3月の第22回特別会では、与党民主党は過半数に50議席も不足しており、今回は社会ではなく自由の賛同により鳩山の総理指名が決した。

しかし、議長のポストを失った。民主は三木武吉を議長とし自由から副議長を出すことを求めたが、自由は三木に対して個人的に重大な難点がある13)自由は三木が自由を割って出たことへの怨念を持ち、昭和初期の疑獄事件で三木が懲役刑となったこと(後に恩赦)を理由にして反対した。1955.3.19朝日新聞「天声人語」参照として強く拒否した。自由は自党の益谷秀次を議長に推すことを決める一方、三木議長を阻止するため副議長は社会に譲ることで取引をした14)1955.3.18 朝日新聞。しかし、これは単なる取引で野党連合を意味するものではなかった。

この結果、議長については両社の協力を得て益谷が当選し、副議長については自由は候補者を出さず、右社の杉山元治郎が民主候補者を破って当選し、正副議長とともに野党が占めることとなった。自由が比較第一党であった前2回の議長選挙では次点で敗れたが、各党の思惑が入り乱れた結果、第二党に転落してはじめて益谷は議長の座に就いた。なお、保守合同後(第23回国会以降)には益谷は与党議長となる。

この後、自民がほぼ一貫して衆議院の過半数を獲得する状況が続くため、1976年に至るまで、1958年からの約3年間を除き自民が正副議長を独占することとなる。

脚注

脚注
本文へ1 1949.2.12 朝日新聞
本文へ2 1951.3.14 朝日新聞「天声人語」
本文へ3 1952.8.2 朝日新聞によれば、吉田と鳩山一郎との対立があるなか、林は吉田と姻戚関係にあり、鳩山の秘書官も長年勤め、両者の仲介役を期待された。
本文へ4 1952.8.2 朝日新聞
本文へ5 1952.8.25 朝日新聞
本文へ6 1958.5.18 朝日新聞
本文へ7 副議長を野党のどの党から出すかは難航した。改進は当初は正副議長とも改進から出すことを主張したが、副議長については他党に譲ることを決めた。しかし、野党第二党の社会左派から出すことには抵抗した。社会右派と左派の間でも綱引きがあり、野党第四党の分派自由から出すことについても異議が出た。(1953.5.18朝日新聞)
本文へ8 1953.5.18 朝日新聞夕刊。芦田が辞退せずに議長に就任していた場合には、幣原に続いて2人目の総理経験者の議長が誕生していた。
本文へ9 1953.5.19 朝日新聞 北昤吉
本文へ10 1953.5.18 衆議院会議録
本文へ11 1954.12.10 朝日新聞
本文へ12 結果として松永の衆議院議長在任期間は45日間で史上2番目の短期間であった。最短在任期間は綾部健太郎議長の25日間。なお、大野伴睦議長の一度目の在任期間は3日間(その後、再任されている)。
本文へ13 自由は三木が自由を割って出たことへの怨念を持ち、昭和初期の疑獄事件で三木が懲役刑となったこと(後に恩赦)を理由にして反対した。1955.3.19朝日新聞「天声人語」参照
本文へ14 1955.3.18 朝日新聞

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