衆議院議長とはー国権の最高機関の長とは何なのか?(9)

衆議院議長とはー国権の最高機関の長とは何なのか?(9)

岸井和
2022.01.24

2衆議院議長は本当は誰が選ぶのか?
 (2)自民党内(与党内)の衆議院議長選考(1996年~2015年)
  伊藤宗一郎
  綿貫民輔
  河野洋平
  横路孝弘
  伊吹文明
  町村信孝
  大島理森

伊藤議長以降―社会党の衰退以降

土井議長の後、再び自民出身の議長に戻る。しかし、この頃から、議長の人選過程はよく見えなくなる。年齢、当選回数、経歴、スキャンダル(特に金銭的スキャンダル、野党の支持も得なければならないので金銭問題の過去がないことは重要)などの観点から一定の範囲に候補者は絞られるが、総理(総裁)とそれに影響力のあるごく少数の人間で人選が進んだと思われる。かつてのような各派閥の領袖との調整という作業は少なくとも表面上はみられない。

伊藤議長以降は、非自民政権時代の政治改革により、小選挙区比例代表並立制となり、また、政党助成金が導入され、選挙の公認権と政治資金の面で総理総裁の権限は拡大し、派閥の力は相対的に低下していく。人事権についても全体として総理の判断の比重が大きくなっていく。特に、各派閥が力を入れる閣僚人事とは異なり、対象候補がごく少数に限られ派閥間の駆け引きが少なく、また、一人しか選べない衆議院議長については総理の権限が自然と大きくなった。

他方で、議長が病気の場合を除き任期途中で辞任に追い込まれることはなくなり、その在任期間は長くなっている。社会の勢力が衰退した後、新たな政党はいずれも政権交代を目指してより現実的な政策を標榜するようになった。つまり、日米安保、自衛隊、消費税、憲法改正など妥協の余地がない基本的理念を巡る対立は少なくなり、議論の争点は環境問題や原発、行政の公平性・透明性・効率性、人権問題などに比重が移った。国会対策上も強行採決はなくなりはしないがマイルドなものとなり、牛歩や徹夜国会といった徹底抗戦の光景はほとんど見られなくなる。これとともに、議長が進退をかけて本会議を強行したり、与野党の仲介をしなければならない場面はほとんどなくなってきた。

 

〇伊藤宗一郎議長(1996117日(第138回(特別))~200062日(第147回)【解散】)

伊藤が議長となったときは橋本総理であった。当初は総理と同じ平成研(旧経世会)の小渕恵三が議長候補に内定したが、小渕は、総理と議長が同じ派閥では好ましくない、また、年齢が比較的若いことから自身の将来の総理への可能性が絶たれるとして議長職を辞退した1)1996.11.2 朝日新聞。代わって候補となったのが当選12回で旧河本派の伊藤であるが、伊藤は平成研のオーナー的存在である竹下登と非常に近い関係にあった。年齢からしても当選回数からしても、また、政権に真っ向から対抗する可能性の低い小派閥出身であることも有利に働いたと思われる。

温厚な人柄の伊藤議長は議長職を無難にこなしていたが、2000年1月の常会冒頭、定数是正法案(比例代表の20議席削減)が与野党の攻防の焦点となると、渡部副議長とともに事態の収拾を図ろうとした。議長は法案の本会議採決を代表質問後に先送りすることを提案したが、全くの不首尾に終わり、最後には与党も野党も議長を見放してしまい、正副議長が二人で議長室にぽつねんとして残っているだけだった2)2000.1.28 朝日新聞。与党(自民・自由)に押されて議長は本会議を開会し、与党案を与党単独で採決した。野党はその後の代表質問をボイコットした。小派閥出身で自民内で支えとなるコアに欠けていた。配下に事前に入念に打ち合わせシナリオを描く人材もいなかった。あっせんが不発に終わり野党に頭を下げる姿に議長の権威はなかった3)同上

 

〇綿貫民輔議長(200074日(第148回(特別))~20031010日(第157回)【解散】)

綿貫が議長に就任したときは森喜朗内閣であった。派閥は異なり、両者ともに大派閥のトップ出身である。ただ、このときの議長を実質的に決めたのは綿貫に平成研領袖を引き継いだ小渕前総理の意向だと思われる。小渕の急死により清和会の森が密室談合で政権に就いたため、森は小渕の遺志を受け入れざるを得なかった4)小渕の死去を受けて総理となった森は、就任後約2か月で衆議院を解散、総選挙を行った。綿貫議長は総選挙後の特別会で選出された。。他方で、綿貫は総理とは異なる大派閥を背後に控えて基盤があり、また、議長となった恩義を総理、清和会に感じる必要はなかった。

綿貫の動きは、森に続く小泉純一郎内閣の時に活発になった。綿貫議長就任には清和会出身の小泉総理は全く関係がなかったし、勢力を保持している平成研の後ろ盾もあった。例えば、田中真紀子外務大臣と外務省等の対立(20021月)、大島理森農水大臣と衆議院法制局との問題(2003年3月)などの時には、政府の対応がおかしいとして補正予算や総予算採決の本会議に応じなかった(田中問題の時は外務大臣の辞任と引き換えに本会議を開くことになるが)。

綿貫は議長退任後も郵政民営化法案をめぐって、小泉総理と激しく対立した。平成研と小泉総理との確執という側面もあったであろうが、法案決定過程においてデュープロセスを無視し、民主的過程を経ていなかったということが総理と対立した最大の理由であった。同じ政党でも政権の言いなりになるべきではないとの議長経験を踏まえての気概からの行動であった。

 

〇河野洋平議長(20031119日(第158回(特別))~200588日(第162回)【解散】)、2005921日(第163回(特別))~2009721日(第171回)【解散】)

河野に対しては、当時自民総裁経験者で唯一総理となっていない5)自社さ政権で社会の村山富市総理が辞任した際、自民総裁でありながら河野が総理になれなかった背景には、平成研の小渕恵三から猛反発があったからだと言われている(森喜朗 「日本政治のウラのウラ」 2013 講談社)。存在に、それなりの処遇をするべきだとの考えが根底にはあった。森喜朗(河野総裁の時の幹事長)が強く推薦したと言われる。自民総裁経験者で唯一の議長でもある。それゆえ13回の当選を含め経歴的には大物議長ではあるが、河野グループという小派閥出身であり、政権にとって重荷とならないとの判断もあったであろう。

委員会で公聴会を開いてすぐに採決に持ち込むのでは公聴会制度の意味がなくなると批判した。これはまさに正論ではあるがほとんど無視された。ガソリン税のつなぎ法案ではあっせん案を提示しいったんは受け入れられたが結果的には反故にされている。他方で、2005年の郵政解散については「小泉内閣をおもんばかっても残念だし、立法府としても残念に思う」「(参議院での否決後、両院協議会や再議決という)方法が残されているのに、その努力をせずにすぐに解散というのはどういうことでしょう」と遺憾の意を示した6)2005.8.9 朝日新聞。ただ、強引に政権に主張をぶつけるようなことはなかったため、総選挙後も議長に再任され、在職期間は2029日で当時としては最長記録となった。

 

〇横路孝弘議長(2009年916(172回(特別))~2012年1116(181回【解散)

2009年の総選挙で民主党が勝利をおさめ、当選10回、旧社会系の横路が議長となった。横路は改選前まで副議長を務めていた。下野した自民は国会審議の要所要所で攻撃の手を緩めず、他方の与党民主の国会対応もちぐはぐであっただけではなく、国会対策経験のほとんどなかった横路も野党とのパイプが薄く、議長として適切に判断する機会を逸した。2010年の横路議長に対する不信任決議案の理由は、議長として強引な国会運営を行ったということよりも、与党民主の強硬策をただ傍観していた、議長として何らの行動を起こさなかったことに焦点が当てられている。民主は与党経験が未熟で、強硬策をとった後、議長を使って正常化を模索するという自民流の知恵が出てこなかった7)特に鳩山由紀夫内閣時代は頻繁に強硬策を展開したが、結果的には内閣提出法案の成立率は54.5%と歴史的低水準であった(国会の攻防(26)参照)。横路議長としても足元の与党の国会対策が迷走していて手の打ちようがなかったとも考えられる。

 

〇伊吹文明議長(2012年1226(182回(特別))~2014年1121(187回)【解散】)

2012年に自民が政権に返り咲き、当選10回の伊吹が議長となった。当初は保利茂元議長の息子、保利耕輔の名前も挙がっていたが固辞したため、最終的に幹事長経験者の伊吹となった8)2012.12.22 読売新聞夕刊。伊吹派の会長であったが、議長就任に伴い派閥を離れることになったので二階俊博に会長を譲った。イブキングとあだ名されたように、遠慮せずにモノをいう性格で安倍総理に対してもはっきりと自身の考えを述べた。国民に直接選挙された、国権の最高機関である国会が総理を指名してあげているのであって、憲法構造上、行政府より立法府が上だとの持論を持っていて総理に対しても臆することがなかった。議長を退任してから文部科学大臣に就任するよう総理から打診を受けたが、こうした考えから衆議院議長経験者が閣僚となるのは「筋が通らない」9)2018.8.2 産経新聞
既に述べたように戦後間もなくの時期は議長経験者が大臣などになることもあったが(衆議院議長とは?(1)脚注5参照)、自民が与党になってからは派閥の長や党の重要役職経験者が議長となることとなり、その後の大臣就任は格下げ人事ともいえる。さらに議長職の持つ意義が明確になってくるとようになると三権分立の在り方や議長の中立性の観点もふまえいったん立法府の長となった者は行政府に入るべきではないとの考えが定着してきた。したがって各議長とも議長に就任することで総理になることはあきらめている。小渕はこのことを踏まえて議長就任を辞退し、その後総理となっている。もちろん、法的には認められることだが憲法の精神から導かれる慣行ともいえよう。自民では1973年に中村梅吉元議長が法務大臣に就任したのが最後である。また、民主党の江田五月元参議院議長が2011年に法務大臣、環境大臣となったことがあるが、伊吹はこれに批判的である。
として固辞している。

 

〇町村信孝議長(2014年1224(188回(特別))~2015年421(189回)【辞任】)

町村議長は最大派閥の会長で、かつては総裁選に出馬したこともあったが、その選挙戦中に体調不良で入院してしまった。その後も体調が思わしくない状態が続いたため総裁になる可能性はなくなり、同じ派閥出身の安倍総理が処遇したということであろう。体調のさらなる悪化のため、四か月ほどで議長職を辞任せざるを得なかった。

 

〇大島理森議長(2015年421(189)~2017年928(194回)【解散】、2017年111(195回(特別))~2021年1014(205回)【解散】)

大島は自民副総裁、幹事長の経験者であるだけではなく、国会対策委員長の経験が長く、国会の行司役として、あるいは町村のピンチヒッターとして適任であった。野党への配慮にも怠りなく、逆に小派閥の長の出身であるがゆえに、また性格からしても伊吹のように総理の行為に直接口を出すこともなく、総理にとっては煙たい存在ではなかった。伊吹議長から引き継がれていた定数是正問題や天皇退位問題については自ら与野党の説得に当たり国対の経験が大いに生かされた。他方で、財務省の文書改ざん問題などについて「民主主義の根幹を揺るがす問題だ。立法府の判断を誤らせる恐れがある。」「(国会は)国民の負託に応える行政監視活動をしてきたか検証の余地がある10)2018.8.1 東京新聞」と所感を述べたが、国対的発言でもあり、政府に対して注文を付けているが政権に対しては直接に追及する言葉は巧みに避けている。それゆえに議長在任期間が2336日と河野を抜いて歴代最長になったともいえよう。

脚注

脚注
本文へ1 1996.11.2 朝日新聞
本文へ2 2000.1.28 朝日新聞
本文へ3 同上
本文へ4 小渕の死去を受けて総理となった森は、就任後約2か月で衆議院を解散、総選挙を行った。綿貫議長は総選挙後の特別会で選出された。
本文へ5 自社さ政権で社会の村山富市総理が辞任した際、自民総裁でありながら河野が総理になれなかった背景には、平成研の小渕恵三から猛反発があったからだと言われている(森喜朗 「日本政治のウラのウラ」 2013 講談社)。
本文へ6 2005.8.9 朝日新聞
本文へ7 特に鳩山由紀夫内閣時代は頻繁に強硬策を展開したが、結果的には内閣提出法案の成立率は54.5%と歴史的低水準であった(国会の攻防(26)参照)。横路議長としても足元の与党の国会対策が迷走していて手の打ちようがなかったとも考えられる。
本文へ8 2012.12.22 読売新聞夕刊
本文へ9 2018.8.2 産経新聞
既に述べたように戦後間もなくの時期は議長経験者が大臣などになることもあったが(衆議院議長とは?(1)脚注5参照)、自民が与党になってからは派閥の長や党の重要役職経験者が議長となることとなり、その後の大臣就任は格下げ人事ともいえる。さらに議長職の持つ意義が明確になってくるとようになると三権分立の在り方や議長の中立性の観点もふまえいったん立法府の長となった者は行政府に入るべきではないとの考えが定着してきた。したがって各議長とも議長に就任することで総理になることはあきらめている。小渕はこのことを踏まえて議長就任を辞退し、その後総理となっている。もちろん、法的には認められることだが憲法の精神から導かれる慣行ともいえよう。自民では1973年に中村梅吉元議長が法務大臣に就任したのが最後である。また、民主党の江田五月元参議院議長が2011年に法務大臣、環境大臣となったことがあるが、伊吹はこれに批判的である。
本文へ10 2018.8.1 東京新聞

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