衆議院議長とは?ー国権の最高機関の長とは何なのか?(6)
岸井和
2021.11.30
1議長はどうやって選ばれるのか
2衆議院議長は本当は誰が選ぶのか
(1)衆議院議長には何が期待されているのか――政府の出先機関か強い議長か
(2)自民党内(与党内)の衆議院議長選考(1958年~1972年)
星島二郎
加藤鐐五郎
清瀬一郎
船田中
山口喜久一郎
綾部健太郎
石井光次郎
松田竹千代
船田中(再選)
中村梅吉
〇星島二郎議長(1958年6月11日(第29回(特別))~1958年12月13日(第31回)【辞任】)
自民結党後、最初に議長に選ばれたのは星島である。このときは、岸総理が渋谷南平台の公邸に主流派の大野伴睦副総裁、川島正次郎幹事長を招いて人選を協議している1)1958.6.8 朝日新聞。星島は70歳、衆議院議員在職38年の長老であり、主流派2人が星島を候補に強く推した。反主流派は元総理の芦田均を推していたが、星島と決まれば反対しないとの態度をとった2)同上。その結果、副議長は反主流派の椎熊三郎に渡している。就任約半年後に、事実上、星島は警職法をめぐる混乱(国会の攻防(5)参照)の責任を取る形で椎熊とともに辞職し、副議長ポストも社会に明け渡すこととなった。
〇加藤鐐五郎議長(1958年12月13日(第31回)~1960年2月1日(第34回)【辞任】)
国会正常化のために星島議長が辞任すると、加藤が後任の議長に選ばれた。前の国会の混乱から自民党内の派閥対立が深まるなか岸総理は手順を尽くして人選を進めた。立法府の議長を自民の人事の一環としてあからさまに行政府の長が選ぶことに本質的な違和感はあるが、岸総理が主流派の党三役らが官邸で協議を重ねるなかで、加藤、清瀬一郎らの名前が挙がる3)1958.12.11 朝日新聞。総務会で人選は総理一任をとりつけた。反主流派は今度こそはと芦田議長を望んだが、主流派の大野、河野らはこれを全く受け付けなかった4)1958.12.12 朝日新聞。さらに、主流派、反主流派の幹部からも意見を聴いたうえで総理の裁断という了承をとりつけた5)同上。
加藤は、当選回数11回を数える長老であること、派閥色が薄いこと、積極的に何かを仕掛けることはない人柄であることから選ばれた6)1958.12.14 朝日新聞 加藤勘十(社会) 。党内派閥だけではなく、社会との融和からも安全な人選をしたということであろう。国会正常化の与野党合意に基づき、議長就任と同時に社会出身の副議長とともに党籍を離脱している。
〇清瀬一郎議長(1960年2月1日(第34回)~1960年10月24日(第36回)【解散】、1960年12月7日(第37回(特別))~1963年10月23日(第44回)【解散】)
1959年、社会議員が率いるデモ隊が国会構内になだれ込み、それに対して加藤議長が関係議員を懲罰委員会に付したことから国会は混乱した。新安保条約の審議が控えていたため、岸総理と大野副総裁、川島幹事長らの間では議長交代で問題収拾を図るべく協議がなされ、後任候補として清瀬、川島の名前が挙がる7)1960.1.29 朝日新聞夕刊。川島を議長とする案には、後任幹事長を握ることで「岸三選」か「岸の後」を有利に進めようとする主流派内の思惑があったとされる8)1960.1.31 朝日新聞夕刊。しかし、結果的にはこれまでにも何度か候補として名前の挙がってきた清瀬が議長となる。帝国議会時代には副議長を経験し、また、5.15事件や極東軍事裁判で弁護人を務めた著名な法学者、法曹家でもあった。副議長時代の公平な態度や弁護士として社会主義運動に理解があったことから、社会からの評判も悪くなかった。
しかし、総選挙を経て議長に再任した際には、新安保条約採決時の議長であったことから野党が猛反発し、議長就任が遅れたのは衆議院議長とは?(3)で述べたとおりである。この前段として、石井光次郎が新議長に内定していたが、就任の条件としていた石井派からの入閣の約束が反故にされ、石井が召集日になって就任を辞退したため、総理をはじめとした党幹部が急遽清瀬に再任を打診するという経緯があった9)1960.12.2~7 朝日新聞。このような背景から野党は議長の差し替えを執拗に求め、混乱が長引いたものと思われる。
〇船田中議長(1963年12月7日(第45回(特別))~1965年12月20日(第51回)【辞任】)
1963年12月の第45回特別国会における議長の人選は、当選回数からみて、大野副総裁ら党人派の推す船田と、佐藤栄作らの官僚派の推す石井の二人に絞られていた10)1963.12.3 朝日新聞夕刊。石井については前回の選挙後の議長就任辞退の経緯から「処遇は今後検討する」との約束があり、本人も就任を望んでいた。前尾繁三郎幹事長は、池田勇人総理に人選を一任するが決定に当たっては大野以下の党四役と協議することで了解を取り付けることで、党内対立が表面化しないように慎重な手続きを踏むこととした。総理と党四役の会議では、船田、石井の両名の候補について話し合われ、大野が船田を押しの一手で推したために反党人派は副議長を石井派の田中伊三次とすることで妥協した11)1963.12.4 朝日新聞。
しかし前回選挙後の1961年に社会が持っていた副議長ポストは、解任決議案可決により自民に召し上げられており、野党はその奪還に猛っていた(衆議院議長とは?(3)参照)。各派協議会がはじまると野党は副議長を社会から出すべきだと強硬に主張、与野党協議は難航し、一時は副議長複数案も俎上にのぼったが、党内融和のためには自民も副議長ポストを譲れず最終的には自民の田中で押し切った12)1963.12.6、8 朝日新聞夕刊。池田総理は党内対立を避けることが第一目的で、また、総裁三選に向けて党人派の協力を担保しておくために石井派、官僚派の不満を最小限に抑える必要もあった。
船田は大野派に属していたが内務官僚出身、法制局長官を経験した当選11回のベテラン、秀才臭さの抜けない孤高の人と評されていた。船田議長、田中副議長は就任から約2年後、日韓条約強行採決の詰め腹を切らされて辞任に追い込まれている(国会の攻防(8)参照)。
〇山口喜久一郎議長(1965年12月20日(第51回)~1966年12月3日(第53回)【辞任】)
船田議長辞任による1965年の議長選任においては、これまでにも候補者となっていた川島正二郎副総裁と石井光次郎法務大臣の名前が挙がったが、佐藤栄作総理らは党や内閣の人事に波及することを避けたいとの意向があった。形式的に川島には打診をしたが、議長として棚上げされることを嫌う川島はこれを断った。さらに人選は当選10回以上の山口と松田竹千代に絞られたなか、旧河野派ではあったが親佐藤、親川島でもある山口に決まった。自民の国会対策の結果による船田辞任での議長就任であり、本人も寝耳に水であった。
山口は一貫性のない、口八丁手八丁の政治家とも言われていた13)1965.12.20 朝日新聞。自民を中心に相次いで不祥事が発覚し、黒い霧国会と呼ばれ政治不信が高まる中、空手形を乱発し社会問題となった東京大証社長の結婚式の媒酌人となっていたことに野党だけでなく与党内からも反発があり、「議長を続けるのは国会運営を阻害する」として1966年12月に辞任した14)1966.12.3 朝日新聞。
〇綾部健太郎議長(1966年12月3日(第53回)~1966年12月27日(第54回)【解散】)
山口議長の辞任に伴って、綾部が急遽後任の議長となる。運輸大臣を1度やったきりで自民党内でこれという役職に就いたこともなく、当選回数も7回と少なかったが、反主流派色を強める藤山愛一郎派を取り込むための人選として、藤山派内でも佐藤総理に近い人物として選ばれた。国会を動かすためと党内力学を勘案しての人事であった。藤山は「政界の信頼を回復するため、粛党グループから議長が選ばれることは好ましいことだ」と歓迎した15)同上。野党は、山口議長問題は自民の不祥事の一コマであると解散を要求し、綾部議長の選挙のための本会議とそれに続く開会式に欠席した16)1966.12.3 朝日新聞夕刊。
ただ、綾部は1996年12月3日に選ばれ27日には衆議院が解散されたため在任期間はわずか25日間であった。近いうちの解散総選挙を前提にした暫定議長であった。総選挙では落選の憂き目に遭い政界から引退したため再任もなく、衆議院議長として最短の在任期間となった。
〇石井光次郎議長(1967年2月15日(第55回(特別))~1969年7月16日(第61回)【辞任】)
1967年の総選挙後の議長候補には石井の名前が早くから上がっていた。石井はこれまでにも議長候補として挙げられてきており、国会召集のかなり前の2月1日(総選挙から3日後)には、川島前副総裁は「石井氏が最も衆議院議長にふさわしい」と佐藤総理に進言し17)1967.2.1 朝日新聞夕刊、13日には官邸において総理の要請を受けて石井は議長就任を受け入れた18)1967.2.13 朝日新聞夕刊。官邸で議長人事を決めるのも不思議な感じはするが、当時は不自然なことではなかったようだ。
石井は当選9回、派閥の会長で、池田と総裁の座を争ったこともあり、これまでに党幹事長、副総理などを歴任していた。総裁選敗北後は反池田、佐藤政権の主流派となるも、派閥の勢力は衰退していくなかでの熟柿が落ちるような当然の人選であった。政治家としての最後の処遇ともいえ、「あがり」とも評された19)1967.2.15 朝日新聞夕刊。とはいえ、大物議長ではあった。1967年の健保国会(国会の攻防(9)参照)では自民幹事長からの強行採決の要求を「あなたは一党の幹事長、私は立法府の議長だ」と突っぱね強い議長にもなり得たのだろうが、反面自民からは「頼りない議長」とみられていた20)1969.7.17 朝日新聞。その2年後の健保法案審議の混乱(国会の攻防(10)⑦参照)により、与野党への抗議の意思を込めて抜き打ち的に議長を辞任する決断をした21)1969.7.16 朝日新聞。
〇松田竹千代議長(1969年7月16日(第61回)~1969年12月2日(第62回)【解散】)
石井議長と小平副議長の辞任願提出を受け、佐藤総理は一任を取り付けたうえで次の正副議長の人選にとりかかった。会期末までの3週間をどう乗り切るか、国会の正常化と懸案の大学法案の成立と相矛盾する問題を片づけることが優先であった。さらに、残り1年半の議員任期からして正副議長は暫定的なものと考えられており、議長は年功序列、副議長は議長を補佐する実務処理能力を問われていた。
総理は自ら決断していた。川島副総裁と田中角栄幹事長に「松田―藤枝(泉介)」とのメモを示した。松田議長はすんなりと決まった。他方で、藤枝はソフトで国会運営のベテラン、国会役員や国対委員長経験のない松田の補佐としては適任である。しかし、藤枝副議長には川島が異論をはさんだ。川島としては「中継ぎ」副議長に自分の懐刀の藤枝を出すことに躊躇があった。だが、総理は「総裁一任となっているはずだ」と切り返した22)1969.7.17 朝日新聞。
松田は議長候補として長年名前が挙がっていた。当選11回、10年前に文部大臣を経験するがしばらく要職にはついていなかった。きかん気、妥協しない性格だが、文部大臣時代に日教組との関係も良かったことから野党からの受けはよかった23)1969.7.16 朝日新聞夕刊、1969.7.17 朝日新聞。園田派(旧河野派)の長老であったが、これまでの功労に対する短期間の報償のようなものであった。
〇船田議長再選(1970年1月14日(第63回(特別))~1972年11月13日(第70回)【解散】 )
1970年の議長の人選は自民党内の派閥の主導権争いの結果でもあった。当初候補として名前の挙がったのは小派閥の長でありながら党内に強い影響力を持つ川島副総裁であった。佐藤総理は国会正常化を強力に進めるために大物議長を充てようと考えていた。他方で、川島を強く推す保利・福田派とそれを川島の棚上げ、川島・田中を分断するものだと反対する田中派で意見はまとまらなかった。このなかで、川島本人が「国会がもめるたびに詰め腹を切らせられる消耗品の議長などにはなりたくない」24)1970.1.9 朝日新聞夕刊と難色を示したため、川島議長はなくなった。その後、総理、副総裁らの党首脳で協議した結果、船田の再登板が決まり、党総務会でも了承された。船田は大野派を一部引き継いで小派閥を率いていた。総選挙を経て連続して議長に就任する形ではなく、間を空けて議長に返り咲いたのは国会になってからは船田ただ一人である。
〇中村梅吉議長(1972年12月22日(第71回(特別))~1973年5月29日(第71回)【辞任】)
中村議長の場合は、川島もすでに他界しており、対抗馬として人選がもめることもなく早い段階から決まっていたと思われる。自民役員会、総務会で「総裁一任」をとりつけた上で、田中総理と幹事長との会談を経て決定された。中村は中曽根派の長老で、戦前からの党人政治家、当選12回の重鎮の処遇であったが、議長就任に伴い中曽根派は党三役のポストを譲ることとなった25)1972.12.22 朝日新聞夕刊。議長は派閥間の人事上のやり取りの一環ということであった。
コトを荒立てず、丸く収めるのが得意で国会運営を円滑に進めることを期待され、議長に就任した特別国会の1973年5月には与野党の対立を収拾し審議再開にこぎ着けたが、それについて、野党をごまかしたと自ら失言をしてしまい、就任からわずか半年で辞任に追い込まれた(国会の攻防(10)参照)。
脚注
本文へ1 | 1958.6.8 朝日新聞 |
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本文へ3 | 1958.12.11 朝日新聞 |
本文へ4 | 1958.12.12 朝日新聞 |
本文へ6 | 1958.12.14 朝日新聞 加藤勘十(社会) |
本文へ7 | 1960.1.29 朝日新聞夕刊 |
本文へ8 | 1960.1.31 朝日新聞夕刊 |
本文へ9 | 1960.12.2~7 朝日新聞 |
本文へ10 | 1963.12.3 朝日新聞夕刊 |
本文へ11 | 1963.12.4 朝日新聞 |
本文へ12 | 1963.12.6、8 朝日新聞夕刊 |
本文へ13 | 1965.12.20 朝日新聞 |
本文へ14 | 1966.12.3 朝日新聞 |
本文へ16 | 1966.12.3 朝日新聞夕刊 |
本文へ17 | 1967.2.1 朝日新聞夕刊 |
本文へ18 | 1967.2.13 朝日新聞夕刊 |
本文へ19 | 1967.2.15 朝日新聞夕刊 |
本文へ20, 本文へ22 | 1969.7.17 朝日新聞 |
本文へ21 | 1969.7.16 朝日新聞 |
本文へ23 | 1969.7.16 朝日新聞夕刊、1969.7.17 朝日新聞 |
本文へ24 | 1970.1.9 朝日新聞夕刊 |
本文へ25 | 1972.12.22 朝日新聞夕刊 |
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