衆議院議長とは?―国権の最高機関の長とは何なのか?(15)

衆議院議長とは?―国権の最高機関の長とは何なのか?(15)

岸井和
2022.06.15

3議長は何をしているのか
 (3)議長のあっせん、調停と辞任
  ②議長の辞任(続)
   原健三郎
   国会の混乱と議長

(3)議長のあっせん、調停と辞任

②議長の辞任(続)

〇原健三郎議長の辞任(1989年6月2日)

石井議長の辞任から20年間は、中村議長の失言、保利議長と福永議長の病気による辞任はあったものの議会運営上の問題から辞任に至ることはなかった。しかし、1989年、リクルート事件により政府・自民に対する世論の批判は頂点に達し、野党は特に中曽根康弘前総理の証人喚問を強く求めて予算審議はほとんど行えない状況に陥った。4月25日には竹下登総理は辞任を表明したものの野党の攻勢は衰えることはなかった。

平成元年度総予算は4月28日になって野党が欠席する本会議において衆議院を通過した。与党単独での総予算可決は前代未聞のことであった。すでに総理の退陣が決まっているなか、野党の攻撃対象は原議長となった。自民単独での本会議の開会ベルを押した議長は責任をとって辞めるべきであり、辞職しなければ一切の審議に応じないと強気の姿勢を崩さなかった。衆議院の空転は続いた。

国会再開に向けての野党の要求は中曽根喚問と原議長の辞職であった。自民はこれらの要求を突っぱねて審議を強行するだけの体力もなかったし、後継総裁・総理の選出も難航していた。そこでまず、国会正常化のために原議長の辞職については認める方向で調整を始める。社会出身の多賀谷副議長はすでに辞任願を提出していた。5月12日には安倍晋太郎幹事長が議長公邸を訪れ「国会正常化のために高度な政治判断をお願いしたい」と原の説得に当たった1)1989.5.13 朝日新聞。16日には議院運営委員会で与野党一致して議長の辞任を求めることとなった2)1989.5.17 朝日新聞。18日の自社公民の国対委員長会談では「与野党共同の責任で対処する」ことを確認した。しかし、与野党一致の包囲網にもかかわらず原議長は辞任の意思を示すことはなかった。

原議長にしてみれば、そもそも自民の要請で総予算を強行採決したものであり、また単独採決の責任はいつまでも採決に応じない野党にあるのであって、辞任する筋合いのものではないと考えた。議長の職を国会正常化の取引に使うことは納得できなかった。自民はこれまでのように正常化に向けた儀式のスケープゴートとして議長を持ち出そうとしたが、議長に完全にはねつけられてしまった3)加藤は「辞める意思はない。与野党が議長のクビを国会正常化の取引の具にしてきたのを、この際、断ち切りたい」(1989.5.25読売新聞)と収拾がつかなくなるたびに議長が詰め腹を切らされることを批判していた。

5月21日に議長は会長を務める全国植樹祭から帰京すると「どうしても辞めさせたいのなら不信任決議案を出せばいい」と毒づいた4)1989.5.22 朝日新聞。野党は議長不信任決議案を提出することを考え始め、自民はその対応に苦慮した。自らの党の出身者で自ら推薦した議長を不信任としてもよいのか。自民の説得工作は続き、議院運営委員会の委員長、自民理事、原の出身である中曽根派幹部らが相次いで議長に面会した。原は「議長不信任が可決されれば議長はもちろん議員も辞める」と応じる姿勢はみせなかった。会期末が近づきつつあり、会期延長の議決や予算関連法案審議もできない。

この間、5月25日には中曽根証人喚問が行われた。自民にとっては大きなハードルを一つ乗り越えたこととなる。この日、自民は会期延長の方針と議長問題は延長後に先送りすることを野党に伝えた。それに応じて野党は議長不信任決議案を提出した5)1989.5.26 朝日新聞。28日は日曜日であったが、原議長の下で会期延長を議決した。この日は会期最終日なので会期延長の件が最優先議事となるからだ(国会の召集と会期(5)参照)。竹下総理も議長辞任に向けた環境作りをはかるために議長公邸を訪れると、原は「諸般の情勢を整理してもらいたい」と応じた。後継総裁を早く決めろと言うことだったと思われる。翌日には中曽根元総理に対し「本会議の首相指名には迷惑をかけない」と語った。

30日には自民が議長不信任決議案提出の方針を決める6)1989.5.30 朝日新聞。ただし、実際には自民は議長不信任決議案を提出しなかった。。それとともに伊東正義総務会長が「新内閣を作りたいが野党が出てこないと首相指名の本会議ができない」と必死に説得するも、原は「後継総裁が決まらないのに、なぜ辞めろとばかり言うのか」と反発して見せた7)1989.5.31 朝日新聞。議院運営委員会理事懇談会では不信任決議案の取り扱いを協議したいと自民側から提案がなされた。

しかし、6月1日になると事態は大きく転換した。自民の後継総裁に宇野宗佑が正式に決定した。すると、原議長は「人心一新」の観点から辞任願を提出した8)1989.6.1 朝日新聞夕刊。与野党が演出した強行採決の責任をとることを頑なに拒否した原ではあったが人心一新という大義名分を得て、そろそろよいか、ということであった。翌日には、野党も出席して原議長の辞任と新議長の選挙(副議長についても同様)の後、総理指名が行われた。その辞任届には「この度議長の職を政党間の取引にすることの悪弊を打破することに、いささか貢献したと信じ、新内閣誕生を機に、議長を退任いたしたく、お届け申し上げます」とあった。

一月以上にわたり議長辞任で空転が続いたことになるが、原議長の意固地さを非難するのか、議長の権威を捨て身で主張したと評価するのか。原は、どうせ次の総理が決まるまでは空転するのだから、それまでは自分の信念を主張し続けてやろうという気持ちであったのであろう。

 

〇国会の混乱と議長

国会の混乱の収拾策として辞任した議長たちは、いずれも不満を抱きつつ辞任をした。阿吽の呼吸での与野党の国会対応、つまり審議拒否→強行採決→議長辞任→国会正常化という定型化されたストーリーに当然のごとく組み込まれる儀式としての国権の最高機関の長の辞任は議長の権威のみならず、議会の権威をも毀損してきた。「議長の権威を高める」と与野党で一致をしながら、議長は最後には責任を押し付けられクビを切られる。かつて川島正次郎は「国会がもめるたびに詰腹を切らされる消耗品の議長」とさえ言っていた9)1970.1.9 朝日新聞夕刊

政局に没入し議長を道具と考える与野党よりも議長の方が議会や議長の権威について真剣に考えているだろう。自民から強行採決を迫られたとき、議長は辞任につながるかもしれないと考えるはずである。このとき、自民の要求を拒否し、別の手立てがないのか、打開策について真剣に考えるであろう。強行すれば、結論的には野党からだけではなく与党からも辞任を求められてしまうのである。与野党とも最初から了解済みなのである。だが、このストーリーを拒否できたのは数は少ないが強い議長であり、個人の確固たるパーソナリティーと政権幹部とは異なる議長への支持勢力を持つことであり、知恵を出す人間の存在である。議長は孤独な存在である。党籍離脱し与党でも野党でもなく、公平中立というのは味方がいないということでもあるからだ。(党籍離脱をしていなかった)石井議長は「私は与党から出て議長になったというのに、こんなざまだ。離党したらもっとみじめだろう10)1969.7.17 朝日新聞」と嘆いた。

万年与党の自民は、対峙しつつも社会に花を持たせることで体制を維持していた。無理な審議拒否に付き合い、最終的には時間切れでやむを得ず強行採決にでる。一回はバーストさせないと先には進まなくなるというのが先例だった。これに続く国会正常化交渉でも社会に一定の手柄を与えて宥め審議復帰できるような環境を作ってあげる。自社体制は親が駄々っ子をあやすパターナリズムでできあがっていた。自民も社会もお互いにこのことを暗黙の裡に了解しつつ国会運営をしていた。だが、その生贄のヤギとなるのは議長であった。

弱い議長たちはおかしいと思いながらも自社のパターナリズム的国会運営に従わざるをえなかった。せめても抵抗は辞めるための大義を得ることである。星島議長は中期的な国会正常化の与野党合意をお土産にした。加藤議長は自らの進退で国会が動かないのは国民に申し訳ないとしつつ無理が通れば道理が引っ込むと与野党に憤懣をぶちまけた。船田議長は恒久的国会正常化の合意に満足したふりをした。石井議長は今後の国会への支障を懸念し誰にも相談せずに辞任し、辞任の謝辞も受けなかった。原議長は一か月も辞任を拒否し与野党の取引の悪弊と公の場で辛らつに皮肉った。

社会が野党第一党の立場を失ってから、議長が途中で辞任することがなくなった。パターナリズムの政治は今でも残ってはいるが、その程度は大きく後退した。審議拒否は認めず野党不在でも「空回し」審議を進め、牛歩も認めず途中で記名採決を打ち切ってしまう。長期の審議空転や徹夜国会はほぼなくなった。与野党の関係はドライになり、多数派の意思によって規律正しく審議が進むようになった。野党の抵抗は国会法や規則の範囲内で行われる。多少の混乱はあっても泥臭い白兵戦はなくなった。混乱とその収拾策として法的根拠のない政治ショーとして議長のクビをとる、差し出すという演出もなくなり、議長辞任がストーリーに組み込まれなくなったわけである。

脚注

脚注
本文へ1 1989.5.13 朝日新聞
本文へ2 1989.5.17 朝日新聞
本文へ3 加藤は「辞める意思はない。与野党が議長のクビを国会正常化の取引の具にしてきたのを、この際、断ち切りたい」(1989.5.25読売新聞)と収拾がつかなくなるたびに議長が詰め腹を切らされることを批判していた。
本文へ4 1989.5.22 朝日新聞
本文へ5 1989.5.26 朝日新聞
本文へ6 1989.5.30 朝日新聞。ただし、実際には自民は議長不信任決議案を提出しなかった。
本文へ7 1989.5.31 朝日新聞
本文へ8 1989.6.1 朝日新聞夕刊
本文へ9 1970.1.9 朝日新聞夕刊
本文へ10 1969.7.17 朝日新聞

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