衆議院議長とはー国権の最高機関の長とは何なのか?(8)

衆議院議長とはー国権の最高機関の長とは何なのか?(8)

岸井和
2022.01.11

2衆議院議長は本当は誰が選ぶのか?
 (2)自民党内(与党内)の衆議院議長選考(1985年~1993年)
  坂田道太
  原健三郎
  田村元
  櫻内義雄
  土井たか子

〇坂田道太議長(1985124日(第102回)~198662日(第105回)【解散】)

福永議長が健康問題により辞表を提出すると、自民党は役員会、総務会において後任議長の人選について中曽根総裁一任をとりつけたが、中曽根は党の執行部に党内調整を進めるよう指示し、実際には金丸幹事長が進めた。ここでも、各派閥の思惑が交錯した。

金丸は田中派の二階堂進副総裁にまず打診する。総理も金丸も二階堂を棚上げすることで世代交代をし、かつての二階堂擁立劇のような総裁候補としての芽をなくすことを考えていた。しかし、二階堂は角栄の田中派を守ることを第一に、党籍を離れてしまう議長就任を固辞した。さらには、ロッキードの灰色高官を議長に据えることは野党の反発を招きかねず、田中角栄も反対していた1)1985.1.23 朝日新聞

そこで、二階堂は河本派長老の井出一太郎の名前を挙げる。反主流派や野党からの反発はなかったが、ロッキード事件の時の官房長官であった井出の登用には田中派などの主流派から強い反対の声が上がった。金丸は井出で党内調整を図ろうとしたが党内合意は困難と判断する2)1985.1.23 朝日新聞夕刊。中曽根派内には自派の原健三郎を推す声もあったが、他派の支持が得られなかった。

そこで、新たな候補として、無派閥の長老であり、党内各派からも野党からも反対の声がない坂田道太が出てきた。議長候補選定には紆余曲折があったが、党執行部、各派閥の了解、野党への内々の根回しを経て坂田となり、中曽根は党本部において議長候補として坂田本人の了承を得た。坂田は当選16回の大ベテランであったが、政治臭が薄く、1976年の三木おろしでも中立を保っていた。穏やかな性格で、清潔、中立性を買われての議長起用であった3)1985.1.24 朝日新聞。それは同時に、議長を支える勢力や財力に欠けていることを意味し、弱い議長といわざるをえない。

 

〇原健三郎議長(1986722日(第106回(特別))~198962日(第114回)【辞任】)

1986年6月の衆参同日選挙で自民党は大勝し、国会では安定多数を占めたため、人事はもっぱら党内力学を中心に展開された。金丸は中曽根後を見据え世代交代を進めるため、選挙での勝利にもかかわらず自ら幹事長を辞任する腹を固めた。問題は田中派会長である二階堂(副総裁)であった。二階堂は田中派内の世代交代の大きなネックになっていたからである。二階堂は再び議長候補となり、後藤田正晴官房長官が非公式に意向を打診し、二階堂が難色を示すと金丸が説得にあたった。しかし、二階堂は議長となれば自民から離党し田中派を次世代に譲ることになるため、議長就任は「嫌だ」と頑なに固辞した4)1986.7.9~16 朝日新聞

一週間ほどの幾度とない二階堂説得が失敗に終わると、櫻内義雄、田中達夫らの名前が挙がる。しかし、櫻内は中曽根派の会長として派の取りまとめ役として外せなかった。田中は派閥の均衡や当選回数からして脱落した。そこで、新たに浮上したのが原健三郎であった。特別会召集日前日になって総理と金丸が協議した後、総理が各派閥の了解を取り付けて決着を見た5)1986.7.22 朝日新聞

原は、帝国議会時代の最後の選挙に当選して以来、当選回数17回の党の最長老の一人であった。派閥を転々としたのち、中曽根派に入るが、当選回数の割には自民党三役等の主要ポストの経験はなかった。田中派内の権力闘争の結果、衆議院議長のポストを手に入れたともいえる。原は1961年に副議長の座に就いたことがあり、国会以降の副議長経験者が議長就任したのはこれが初めてであった6)その後、2005年に副議長に就任した横路孝弘が、2009年の選挙後に議長に就任した例がある。

 

〇田村元議長(198962日(第114回)~1990124日(第117回)【解散】)

1989年、国会がリクルート事件で紛糾し、竹下登総理が総予算成立後の辞意を表明したものの、野党の追及姿勢は緩まず、総予算は自民の強行採決で衆議院を通過した。この強行採決をめぐり野党以上に強い与党からの圧力で原議長は辞任するに至った。後継議長は田村にすんなりと決まったが、このときは竹下総理の後継総裁問題で自民内は大騒ぎの最中であり、あるいは、原議長の辞任拒否問題に焦点が集まっており、新議長人事はあまり注目されなかった。

竹下の後任の宇野総裁は竹下派主導で決まったものであり、新体制においては衆議院議長だけではなく、幹事長、主要閣僚など竹下派の議員が多数を占めていた。田村は当選13回、通産大臣などの閣僚、国対委員長などを経験していた。田中派に属し当初は反竹下であったが、仲間を引き連れて遅れて竹下派に合流していた。竹下退陣後の派内での主導権争いの中、うるさ型の田村を議長に祭り上げたとの見方もあった7)1989.6.2 朝日新聞。田村は議長在任7か月余で解散があり、再任されることもなかった。

 

〇櫻内義雄議長(1990227日(第118回(特別))~1993618日(第126回)【解散】)

櫻内議長は、派閥間の調整により早い段階で決まった。1990年2月18日の総選挙の2日後には内定している。党三役と衆議院議長ポストを主要四派閥で分け合うことで合意したのである8)1990.2.21 朝日新聞。その翌日には中曽根派会長は櫻内から渡辺美智雄に譲られた。各派閥の利害が一致していたことになる。これに対し、野党各党は「自民党三役ポストから外れた派閥を処遇するため議長ポストを割り当てたとするなら、国会軽視だ」9)1990.2.22 朝日新聞と反発した。

櫻内は当選16回、党幹事長、外務大臣、通産大臣などの要職を歴任し、中曽根派の会長としても活躍、バランス感覚の優れた政治家であった。櫻内議長在任中には、政治改革法案、PKO法案など時代の変革を画する重要法案が審議され、最後には宮澤喜一内閣不信任決議案が可決され自民が政権を失う(国会の攻防(16)参照)。

この間、1992年6月にはPKO法案の成立阻止を目指して社会が党所属議員全員の議員辞職願を提出し(社民連議員と合わせて141人10)1992.6.15 読売新聞夕刊 社会議員137人と社民連議員4人)、解散を迫るという前例のない事態が生じた。辞職許可を求める社会とそれを認めない自民の交渉は膠着状態となり、「辞職願」は議長の預かりのまま宙に浮いた。社会の行為は議会政治を破壊する暴挙と非難がでるなか、櫻内は取り扱いに苦慮し各党に意見を聴くことなど努力を重ねた。会期終了となり、辞職願の許可・不許可は本会議ではなく議長の決裁となる。「不受理」には社会が反発し、「不許可」は先例がないし議長一人の判断を越えていた。最終的には櫻内は「議長において議員辞職願は認められないものと判断した」との見解を示した11)1992.7.1 読売新聞。自民にとっては不受理、社会にとっては不許可ともとれる玉虫色の決着である。強い議長とは言えないが、バランスの取れた調整型であった。

 

〇土井たか子議長(199386日(第127回(特別))~1996927日(第137回)【解散】)

宮澤内閣不信任決議案が可決され、その後の解散総選挙を経て非自民(非共産)八党派政権が誕生する(国会の攻防(17)参照)。このとき、前述したように衆議院議長職を衆議院の第一党(自民)がとるのか、与党の第一党(社会)がとるのか議論が持ち上がったが、数の論理からして与党が確保することとなる。細川護熙政権樹立の合意ができあがる(729日)とともに、ほぼ同時に土井たか子を議長に推す声があがる。非自民勢力のなかにおける第一党である社会から議長を出すことには異論はなかった。だか、それよりも、非自民政権合意と土井議長とは密接に関連していたのである。

土井議長の案を出したのは細川総理案と同様に新生の小沢一郎だとされる12)1993.8.4朝日新聞。表向きには憲政史上初の女性議長とすることで政治の変革への期待感を高める効果があった。しかし、もっと重要なことは、非自民連立は一つの側面として改憲勢力と護憲勢力との連立であり、これをまとめるためには社会左派、護憲勢力の象徴的存在である土井を議長として祭り上げ、社会から離党させることにあった。ガラス細工であった連立内閣に懐疑的な勢力を抑え込もうとしたのである13)土井は「社会党の存在理由がなくなっているのではないかと心配している。社会党は行き先がわからないバスに乗りたがっているという声もある」(1993.7.31朝日新聞)と、社会の連立政権参加に否定的な考えを持っていた。。社会内でも反執行部の動きを未然に防ぎたいとの思惑もあった。

小沢は、土井よりも当選回数の多い田辺誠に対し議長職を土井に譲るよう説得した。土井は議長となって発言権を封じられてしまうことや選挙で負けた党の存在理由を心配し再建を目指すことを考え、議長就任に揺れ、躊躇していた。しかし、社会右派出身の山花貞夫委員長は非自民政権の樹立に向けて土井を再三再四にわたり必死に説得を続け、最終的には受諾させた。土井としては苦渋の決断であったが、国会改革や戦後補償問題を議長の立場から国会として推し進めることを理由として受け入れた14)1993.8.4朝日新聞

土井は当選9回、社会左派の代表で、党委員長としても自民と対峙してきた。歯切れのいい言葉と原則主義で消費税、リクルート問題後の選挙では社会の躍進の中心的存在であり、議長就任時も高い人気を誇っていた。土井は直接に国会運営の担当者となったことはなかったが、社会も含めた与党各党の策謀によって誕生した議長だけに、そもそも指導力や調整能力を期待されていたわけではなかった。

1993年の政治改革法案が、一部参議院社会議員の造反により成立しなかったとき、土井議長は議長裁定として細川総理と河野自民総裁の話し合いを求めた(国会の攻防(18)参照)。土井自身は小選挙区制導入は社会の勢力の低下、分裂につながると考え、内心は反対であった。

その土井は細川と河野に対し、「参議院で否決された法案を施行期日を空欄にして成立させる、法案の具体的内容については両院議長の下の各党協議機関で詰める、この内容で両院協議会で成案を得る、以上について与野党のトップ会談で決める」とのあっせん案を示した15)1994.1.23 読売新聞。法案の内容を未定にしたまま形だけ成立させ今後協議をするというものであり、実質廃案に近いものであった。しかしながら、土井のあっせんを梃子にして行われた細川・河野の会談では法案の内容まで含めて合意し、両院協議会を経て成立させてしまった。土井の思惑とは全く別の方向に進んでしまったわけである。かつてはカリスマ性のあった土井も連立政権においては少数派の社会左派の出身であり支持する基盤は弱く、強い議長とはなりえなかった。象徴的でありながら弱い議長というのは政権与党にとって都合の悪い話ではないため、その後、非自民政権が瓦解し自社さ政権となっても議長職を続けている。

脚注

脚注
本文へ1 1985.1.23 朝日新聞
本文へ2 1985.1.23 朝日新聞夕刊
本文へ3 1985.1.24 朝日新聞
本文へ4 1986.7.9~16 朝日新聞
本文へ5 1986.7.22 朝日新聞
本文へ6 その後、2005年に副議長に就任した横路孝弘が、2009年の選挙後に議長に就任した例がある。
本文へ7 1989.6.2 朝日新聞
本文へ8 1990.2.21 朝日新聞
本文へ9 1990.2.22 朝日新聞
本文へ10 1992.6.15 読売新聞夕刊 社会議員137人と社民連議員4人
本文へ11 1992.7.1 読売新聞
本文へ12, 本文へ14 1993.8.4朝日新聞
本文へ13 土井は「社会党の存在理由がなくなっているのではないかと心配している。社会党は行き先がわからないバスに乗りたがっているという声もある」(1993.7.31朝日新聞)と、社会の連立政権参加に否定的な考えを持っていた。
本文へ15 1994.1.23 読売新聞

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