衆議院議長とはー国権の最高機関の長とは何なのか?(7) 

衆議院議長とはー国権の最高機関の長とは何なのか?(7)

岸井和
2022.12.20

2衆議院議長は本当は誰が選ぶのか?
 (2)自民党内(与党内)の衆議院議長選考(1973年~1985年)
  前尾繁三郎
  保利茂
  灘尾弘吉
  福田一
  福永健司

〇前尾繁三郎議長(1973年529(71)~1976年129日(第78回)【任期満了】)

中村議長の辞任を受け、後任は前尾となった。前尾は当選10回、大派閥の会長経験者で総裁選挙に出たこともあり、かつての池田内閣の大番頭となって以来田中総理とも気心が知れていた。経歴からして重みがあり、自民党内各派閥からしても順当なもので、野党からも信頼される人選であった1)1973.5.29 朝日新聞。また、2年前には派閥を大平正芳に引き継いで長老格となってはいたものの、完全に祭り上げることで大平の派内での地位を確実にする総理の配慮であったともされる。

前尾の内諾を得たのち、議長選挙の当日の朝、総理は各派閥の長に議長の交代、前尾を起用することを説明するとともに、党の総務会では総理一任を取り付けたうえで議長候補として決定した。議長引責辞任を受けての選挙であったため、本会議では、共産は独自に候補を立てた。他の野党は白票を投じたが、実際には異論がなかったことになる。前尾は中村議長時代の「単独採決はしない」などの国会正常化四項目を確認するとともに、当選後すぐに党籍離脱をした2)1973.5.30 朝日新聞

 

〇保利茂議長(1976年1224(第79回(特別))~1979年21(87回)【辞任)

保利は吉田茂内閣以来閣僚、党要職等を歴任しており、福田赳夫系の議長候補として以前にも取りざたされた。当選12回、党の幹事長も務めたことのある重鎮であり、保革伯仲で難しい国会運営が求められるなかで、満を持しての議長就任であった。また、正副議長の党籍離脱の慣例が定着したのは、任期の途中からではあったが保利と三宅正一副議長(社会)が党籍を離脱してからである(衆議院議長とは?(4)参照)

自民が惨敗した総選挙後、福田赳夫は自民総裁に選ばれる前の12月21日に、幹事長就任予定の大平正芳と協議の上、保利衆議院議長が確実となった3)1976.12.22 朝日新聞。翌々日、党の両院議員総会で福田が総裁に選ばれるとすぐに(国会での総理指名の前日)、保利に衆議院議長就任の内諾を得た。この行動には事情があった。福田総裁、総理を決定づけたのは保利だったからである。三木武夫総裁に対する強い党内の反感を受け、挙党体制協議会の世話人となり、福田と大平の一本化工作をなしとげ、両者の協力体制の下で福田政権を作ったのである。両院議員総会は無投票で福田総裁を決めていた。福田としては保利を処遇せざるを得なかった。保利は総理、内閣に気兼ねすることなく、自らの考えで采配をふるい、名議長と呼ばれるようになった。

「名議長」 衆議院の解散権についての保利議長見解と福田政権

解散権は総理の専権事項であり、総理がいつ解散権を行使するかは自由である、という説がアプリオリに受け入れられている。しかし、保利は解散権がどのような場合に行使できるのかを衆議院議長として理論的に明らかにし、それとともに実際の福田総理の解散権行使を牽制した。総理の専権事項に衆議院議長が介入したのは異例でもある。

保利議長見解では、憲法69条による解散のほか、7条解散も認めている。だが、それを行使できるのは予算や重要議案の否決、選挙の時には争点になっていなかった重要問題が生じ改めて国民の判断を仰ぐ必要性が生じた場合、与野党の対立で長期にわたって国会が停滞する場合などである。総理の解散権は無制約ではなく、69条に準ずるような合理性がある場合に制限されるというものである。

この保利見解の背景には福田総理の解散の思惑があった。福田は解散に打って出て政権の延命を考えていた。大平に政権を禅譲することを約束していたとされる福田にとっては事態転換の方策であった。しかし、これに対して保利は総理の恣意的な解散権行使に反対し、それによって約束を反故にしようとする福田を強く牽制した。見解は保利の死後明らかになり、一連の過程は当時は表に出なかったが、議長として議会としての立場から総理に真っ向から異議を唱える姿勢は後に名議長と評されるようになった4)たとえば、1990年12月19日の衆議院予算委員会で、社会書記長の山口鶴男議員は「…私のただいまの主張は、名議長と言われた保利議長が有名な保利見解の中で強調された問題です。私は、このことはやがてまた問題になると思います。この際、国論を二分し、前の選挙で争点にならなかった重要な問題が大きな問題になったときには国民に信を問うのが議会制民主主義のルールであるということは、この際強調しておきたいと思います。…」と発言している。

議長就任の経緯、時の総理との力関係、金丸信らの議長を支える基盤の存在が強い議長の背景にある。昭和52年度総予算については、与野党の話し合い路線を尊重し、陰で政府に対し修正を説得したとされる。その後、保利は福田から大平への政権交代にも裏舞台から尽力した。

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〇灘尾弘吉議長(第1979年21(87)~1979年97日(第88回)【解散】、1979年1030日(第89回(特別))~1980年519日(第91回)【解散】)

保利は、大平内閣誕生後、病気のために議長を辞任した。早速に党役員会、総務会において、次の議長の人選は総裁一任を決め、無派閥の福田一の名前が挙がった。ところが、福田、三木、中曽根の三派閥は「福田は大平総裁選出に功績があった。議長ポストを論功行賞に使うのは許されない」5)1979.2.1朝日新聞として福田阻止に動き始めた。前議長の保利の時とは全く逆のロジックともいえるが、総理は党内抗争に発展することを避けるために福田に代わり、三派閥の推す灘尾弘吉を議長とすることとした。前年の総裁選のしこりが残り、派閥抗争が激しい中での人選であった6)福田一は、総裁選挙管理委員長でありながら、大平支持を表明していた(1979.2.1朝日新聞参照)。

灘尾は前尾元議長、椎名悦三郎元副総裁と並ぶ自民長老7)この3人で「三賢人会」という月1回の定例会合を開いており、党内外からその動向が注目されていた(1979.2.1朝日新聞参照)。で、当選10回、閣僚や党総務会長を歴任してきた。かつては石井派に所属していたが脱会し、自民内の混乱は派閥にあるとしてどの派にも属さずに中立の立場であった。7か月後に解散があり、次の特別会で再選されている。このときは、自民内の主流派、非主流派の40日抗争のあおりで召集日当日まで議長候補者を決めることができず8)1979.10.31朝日新聞、首班指名も召集から8日目の11月6日まで行えなかった。

 

〇福田一議長(1980年717日(第92回(特別))~1983年11月28日(第100回)【解散】)

1980年5月16日、衆議院で大平内閣不信任決議案が可決され、選挙戦の最中に総理は突然に亡くなる。派閥抗争の行き過ぎに各派とも自制せざるをえず、選挙後の両院議員総会で自民総裁に大平派の鈴木善幸が満場一致で選出された。こうした党内融和の雰囲気のなか、衆議院議長についても各派の自己主張は影を潜め、鈴木総裁は福田一を候補者とし、総務会に諮った。

福田は当選12回、無派閥の長老で、国対委員長、議院運営委員長の経験もあり、与野党の調整には適任だとされた。かつては大平に近いとして他派閥から拒否されたことがあるが、今回は異論もなく決まった9)1980.7.15 朝日新聞夕刊

1983年10月にロッキード裁判の一審判決で田中角栄元総理に実刑判決が言い渡されると、野党は田中の辞職勧告決議案の採決と衆議院解散を迫り、国会は約1か月空転した。これに対し、福田議長は参議院議長とともに、重要法案の審議を進めたうえで衆議院を解散するとのあっせん案を11月12日に示した。中曽根総理は解散を決断し、与野党の同意を取り付けた(税法等の重要法案は衆議院では与党単独で審議を進め、解散当日の11月28日に参議院で成立)。

 

〇福永健司議長(1983年1226日(第101回(特別))~1985年124日(第102回)【辞任】)

1983年の田中判決解散、ロッキード選挙で自民は大きく議席を減らし、単独過半数を割った。その後、保守系無所属議員の追加公認、自由クとの連立樹立を経て過半数は得たものの、与野党伯仲となるなか、与党は吉田内閣、佐藤内閣で官房長官を務め、国対委員長、議運委員長と国会運営の経験も豊富な福永を議長に推した。福永は当選14回の鈴木派長老で、何度も大病を繰り返したことから健康問題を不安視する声もあったが、自民内で大きな異論もなく議長に就任した10)1983.12.22 朝日新聞夕刊

与野党の勢力が均衡していたことから、与党も強引な運営をすることができず、福永議長時代には特筆すべき大きな混乱は起こらなかった。福永が最も注目されたのは皮肉にも自身の辞任問題である。就任時から懸念されていた健康問題や議事の読み違え等が徐々にクローズアップされるようになっており、1984年召集の常会では、金丸信幹事長ら自民執行部の要請により、開会式が無事にできるのか二度にわたりリハーサルが行われた11)1985.1.11、22 朝日新聞。金丸は福永が辞意を漏らす前から後任議長候補に言及し12)1985.1.18 朝日新聞夕刊、なかなか辞任を決断しない福永を追い詰めていった。その背景に自民党内の主導権争いがあることも噂されていた13)1度目のリハーサルを大過なく終えたにも関わらず、金丸自民幹事長が議長の健康状態に懸念を示し再度のリハーサルを求めたため、政治的な憶測を呼ぶこととなった(1985.1.13 朝日新聞) 。三権の長の座も自民実力者たちの政争の具となり、国会の権威を傷つけたとの批判もある14)1985.1.25 朝日新聞 石橋正嗣(社会委員長)

脚注

脚注
本文へ1 1973.5.29 朝日新聞
本文へ2 1973.5.30 朝日新聞
本文へ3 1976.12.22 朝日新聞
本文へ4 たとえば、1990年12月19日の衆議院予算委員会で、社会書記長の山口鶴男議員は「…私のただいまの主張は、名議長と言われた保利議長が有名な保利見解の中で強調された問題です。私は、このことはやがてまた問題になると思います。この際、国論を二分し、前の選挙で争点にならなかった重要な問題が大きな問題になったときには国民に信を問うのが議会制民主主義のルールであるということは、この際強調しておきたいと思います。…」と発言している。
本文へ5 1979.2.1朝日新聞
本文へ6 福田一は、総裁選挙管理委員長でありながら、大平支持を表明していた(1979.2.1朝日新聞参照)。
本文へ7 この3人で「三賢人会」という月1回の定例会合を開いており、党内外からその動向が注目されていた(1979.2.1朝日新聞参照)。
本文へ8 1979.10.31朝日新聞
本文へ9 1980.7.15 朝日新聞夕刊
本文へ10 1983.12.22 朝日新聞夕刊
本文へ11 1985.1.11、22 朝日新聞
本文へ12 1985.1.18 朝日新聞夕刊
本文へ13 1度目のリハーサルを大過なく終えたにも関わらず、金丸自民幹事長が議長の健康状態に懸念を示し再度のリハーサルを求めたため、政治的な憶測を呼ぶこととなった(1985.1.13 朝日新聞)
本文へ14 1985.1.25 朝日新聞 石橋正嗣(社会委員長)

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