衆議院議長とは?―国権の最高機関の長とは何なのか?(14)

衆議院議長とは?―国権の最高機関の長とは何なのか?(14)

岸井和
202.05.31

3議長は何をしているのか
 (3)議長のあっせん、調停と辞任
  ②議長の辞任(続)
   船田中
   石井光次郎

(3)議長のあっせん、調停と辞任

②議長の辞任(続)

〇船田中議長の辞任(1965年12月20日) (国会の攻防(8)参照)

1960年の安保改定の際には清瀬議長が警察官を議場に動員してまで強硬採決策をとったが、その後社会が国会出てこなくなったため責任を追及されることはなかった。しかしながら、その5年後には日韓条約の強行採決の結果、船田議長は辞任に追い込まれる。

第50回国会の11月6日、特別委員会で大混乱のうちに日韓案件は強行採決された。事後処理策として、船田議長は「委員会採決は穏当を欠くきらいがないとはいえないが有効」としつつも、妥協策として委員会審査の不足を補うために本会議で審議することを提案した。しかし、社会は日韓案件の委員会差し戻しを主張して議長の提案を拒否したため、議長提案は不調に終わり、9日には本会議が議長の職権でセットされた。しかし、本会議では先議案件である大臣不信任案が連発され審議は停滞し、日韓案件にはなかなかたどり着けない状況にあった。

本会議をはじめてから4日目の11月12日の午前零時18分、船田議長は衛視と自民議員に護衛されて議長席に着くと審議途中の法務大臣不信任決議案を後回しにすることを諮ったうえで、日韓案件を議題とすることを宣告、委員長報告、質疑、討論すべて飛ばして本案採決に入り、可決承認、散会してしまった。社会を出し抜いての超強行採決で、電光石火、わずか1分で本会議は終わった1)日韓案件の強行採決は秘密裏に準備されていた。 12月3日の渋谷悠蔵(社会)の副議長不信任決議案の趣旨弁明によれば、事務的な次第書は無視され議長が隠し持っていたメモを一気に読み上げて採決したが、事前に議長と打ち合わせをした田中副議長は、1分以上はかけられない、自分は26、27秒で読み、船田議長はろれつが回らないけどメモを読み上げるのに45秒だろうから何とか行けるとして日程変更の上の強行採決を承諾したとされる。。野党の怒りは頂点に達し、その後の衆議院本会議は実質的な審議をすることはできず、日韓に次ぐ重要案件であった補正予算は審議未了、12月13日の恒例の会期最終日の手続きも行うことはできなかった2)強行採決翌日の11月13日から会期最終日の12月13日までの1か月の間、衆議院本会議は4回セット(公報掲載)されたのみである。皇孫殿下誕生の祝辞(12月1日)、延会手続きのみ(同2日)、田中伊三次副議長不信任決議案(同3日、日韓案件の暴挙に共謀したとの理由、議長は病気欠席)、会議を開くに至らず(同13日)。。野党は正副議長の引責辞任、強行採決を元に戻すことなどを強く求めて対立は収束せず、次の常会が始まるまでに正常化を図ることが急務となった。

自民は正副議長の進退問題をかけて事態収拾にのぞむ方針とした。14日には、佐藤総理と田中角栄幹事長、船田議長、田中副議長が議長公邸で会談を持った。この席で、正副議長は国会正常化が明確な形で確保されるならば必要があれば進退問題についてはあえてこだわらないとの意向を示したとされる3)1965.12.15 朝日新聞。議長発議による強行採決は総理、幹事長、副議長らと協議の上のことであり共同責任である一方、非常手段をとったのは社会の実力による議事妨害が原因でもあって、短期的なものではなく恒久的な正常化の道を確保するよう与野党で協議すべきだとした。強行採決による引責辞任、犠牲ではなく、恒久的な正常化のための辞任というメンツが必要であった。

15日には、正副議長は自民、社会、民社の各党と個別に会談を開き、恒久的な国会正常化のメドがつけば辞任をも辞さないことを伝えた4)1965.12.15 朝日新聞夕刊。自民は、議長を前面に出すことで花道を作りはしたが、実は思惑通り「辞任」で正常化を図り、社会は「辞任だけではダメ」としつつも結果を得たことで次第に態度を軟化しはじめた。19日の自社幹事長・書記長会談で「国会運営の基本として言論の自由の確保、特に、少数意見の尊重、物理的抵抗は行わない」との合意がなされ、それを受けて正副議長は正式に辞表を提出した5)1965.12.20 朝日新聞。この日は日韓条約の批准書交換の翌日であり、常会召集の前日であった(正式には20日召集日の本会議で辞任許可)。

 

〇石井光次郎議長の辞任(1969年7月16日) (国会の攻防(9)(10)参照)

石井議長は、自民総裁選にも出馬したことのある派閥の領袖であり、議長としてしばしば自民の方針に抵抗し見識と沽券を示したりもしたが、その恬淡とした性格からか「強い議長」とはなりえず、最後は健保法改正案の強行採決を実質的に認め引責辞任することとなった。

石井議長の在任中、健保法改正案は1967年と69年の二度にわたる与野党激突法案であった。最初の健保法改正案の時は難航したものの石井議長のあっせんが功を奏した。67年の健保法改正案は与党が委員会採決を強行し、これに野党が反発し8月3日からは徹夜国会にはいった。自民の福田赳夫幹事長が採決強行を要求したのを石井は「あなたは一党の幹事長、わたしは立法府の長だ」と突っぱねたという6)1969.7.17 朝日新聞。法案採決が見通せないなか、5日になって石井議長は「委員会における採決を議長が不適当と認めたときは、議長がその採決を無効とし、委員会に差戻す権限を議長に与える趣旨の国会法改正を行う、少数意見の発言にできるだけの機会を与え正常審議のときは物理的抵抗は行わない、健保特例法は二年の時限立法とする、突発的理由がない限り会期延長は考えない」などの概ね野党寄りの内容のあっせん案を提示した。議長の粘り強い交渉の結果でもあった。

自民、民社、公明の三党はこれを受諾したが、社会は佐々木委員長、成田書記長がいったんは受諾したものの党の秘密代議士会で突き上げられあっせん案拒否の結論となってしまった。「廃案に追い込む」としつつもお金はからむが理念の対立ではなく目くじらを立てるほどの法案ではないとして社会執行部はある時点での妥協を内心で考えていたが、本音と建前を使い分ける国会戦術をとる執行部の勝手な手法に党内から反発が起こったのである。6日には自民、民社、公明の間で手直しされたあっせん案(会期延長不可避との判断から当該項の削除など)を正式に受諾することが決まり、正常化の「申合せ」に各党が署名した。民社、公明は牛歩をやめ、孤立した社会は7日になって戦術を転換して牛歩を中止したため、法案は衆議院を通過した。

この時の議長の法案差戻の権限が立法化されていたら、その後の国会の展開はかなり違ったものとなったかもしれない。与党は議長がこの権限を行使することを恐れ、一方では野党からは権限行使への圧力を強める場面は多々生じたであろう。議長の公平・中立性はより法的な実質を伴う責任となり、議長個人の見識や判断が問われることになったであろう。しかし、これが立法化されることはなかった。

議長あっせんの「健保法改正案は二年の時限立法」との項目は、69年に問題が再燃することを意味していた。この61回国会では、自民が強行採決、野党が審議拒否、議長あっせんで正常化という異常事態が常態化し、5月の時点で国鉄運賃法改正案、総定員法案、地方公務員定年制法案と立て続けに3件もこの収拾パターンが使われていた7)1969.5.14 朝日新聞。見方を変えると議長が自民の強行採決から国会正常化の一連の流れに組み込まれていた。会期延長で混乱した直後に4つの委員会で自民は強行採決を行い8)1969.5.29 朝日新聞、与野党の緊張感が高まっていた。

1969年7月10日の社会労働委員会では健保法改正案が議事録をとれないほどの混乱のうちに可決された。11日から始まった本会議では野党が不信任決議案などを連発し、徹夜国会となり議事は遅々として進まなかった。正副議長に対する不信任決議案も提出された。12日の深夜に健保法改正案の審議に入るが、そこからも野党は審議の引き延ばしを図る。

14日の未明になってようやく健保法改正案の記名採決に入ったが、野党の牛歩戦術を続け投票が終わらない。ここで、議長席に着いていた小平久雄副議長は「投票の妨害はやめてください。みずから記名投票を要求しながら、みずから実力をもってこれを妨害することは許されません。(拍手)実力による妨害をしながら、他に法規の順守を求めることはできません。一部少数の実力によって、多数の者の表決を妨げることは許しがたいことであります。この状況では、議長は、記名投票をもって表決することは不可能と認めます。少数の実力によって多数の意思を無視することは、憲法の精神がこれを許しません。(拍手)議長は、やむを得ず起立をもって採決いたします。」として、突然に起立採決に切り替えて法案を可決した。出席議員の5分の1以上の要求があれば各議員の表決は会議録に記載しなければならない(記名採決)との憲法の規定を議長自ら破ったとの批判も起こった。

異例の記名採決から起立採決の切り替えに、社会、公明は強く反発し衆議院の審議は全面ストップとなった。15日になって、正副議長は自民党首脳にも事前に漏らすことなく辞表を提出した。保利茂官房長官や田中角栄幹事長が慰留にかけつけたが、石井は議長公邸で辞任の記者会見をすでに終わらせようとしていた9)1969.7.15 朝日新聞夕刊。議長は記者会見で「私は11日の本会議で野党からの議長不信任案審議されている間に辞表を書いた。しかし、提出する時期は国会運営の支障のない適当なときを選ぼうと考えていた。…私たちは責任をとってやめるのではない。14日未明の衆院本会議でとった措置については…堂々としたことだ。ただ、まだ大学法案も残っている今国会の今後を考えた場合、私たちが職にとどまっていることで少しでも支障がおきることのないようにした方がよいのではないか10)1969.7.16朝日新聞」などと述べている。

辞任を許可する16日の本会議には正副議長とも欠席している。「いまさら自民党から謝辞を受けることもあるまい」との精いっぱいの抵抗11)1969.7.17 朝日新聞を示したものとみられた。正副議長の抜き打ちの辞任は明らかに与野党の国会対策への批判、不満であり、国権の最高機関の議長の権威に対する冒を非難するものであった。

脚注

脚注
本文へ1 日韓案件の強行採決は秘密裏に準備されていた。 12月3日の渋谷悠蔵(社会)の副議長不信任決議案の趣旨弁明によれば、事務的な次第書は無視され議長が隠し持っていたメモを一気に読み上げて採決したが、事前に議長と打ち合わせをした田中副議長は、1分以上はかけられない、自分は26、27秒で読み、船田議長はろれつが回らないけどメモを読み上げるのに45秒だろうから何とか行けるとして日程変更の上の強行採決を承諾したとされる。
本文へ2 強行採決翌日の11月13日から会期最終日の12月13日までの1か月の間、衆議院本会議は4回セット(公報掲載)されたのみである。皇孫殿下誕生の祝辞(12月1日)、延会手続きのみ(同2日)、田中伊三次副議長不信任決議案(同3日、日韓案件の暴挙に共謀したとの理由、議長は病気欠席)、会議を開くに至らず(同13日)。
本文へ3 1965.12.15 朝日新聞
本文へ4 1965.12.15 朝日新聞夕刊
本文へ5 1965.12.20 朝日新聞
本文へ6, 本文へ11 1969.7.17 朝日新聞
本文へ7 1969.5.14 朝日新聞
本文へ8 1969.5.29 朝日新聞
本文へ9 1969.7.15 朝日新聞夕刊
本文へ10 1969.7.16朝日新聞

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