THE FACTS ― 衆議院議長(国会編(1))

THE FACTS ― 衆議院議長(国会編(1))

岸井和
2022.08.31

議長の在任期間、辞任、不信任可決、出身大学、当選回数、就任年齢、
 議員となる前の職業、当選後のキャリア、派閥、議長退任後の大臣就任、党の要職就任

帝国議会は1947年(昭和22年)3月に60年近い歴史の幕を閉じ、同年5月から国会がスタートする。現在に至る三四半世紀の間に延べ40人、再任を除くと34人の衆議院議長が誕生した。平均すると約2年弱と帝国議会時代よりはわずかに在任期間が延びている。帝国議会時代のように3期以上衆議院議長を務めた者はいないが、それでも通算在任期間の最長記録は国会に入って大幅に更新された。

今回は、国会になってからの衆議院議長の就任年齢、在任期間等について、その記録を簡単に列記していきたい。

 

1長期在任期間

  • 日本国憲法下の国会になって以降2022年までの75年間に、延べ40人、再任を除くと34人の衆議院議長がでたが、通算在任期間が1000日を超えたのは上記の13人である。
  • 戦前戦後を通じては、在任期間最長は大島議長、第二位は河野議長で、第三位は帝国議会の大岡議長(1785日)、第四位は船田議長、第五位は戦前の片岡議長(1712日)である。

 

2短期在任期間

  • 逆に在任期間が短い議長は、綾部健太郎(25日)、松永東(45日)であり、いずれも前任者が辞任した後解散までの短期間であった。同様の例は大野伴睦(3日)があるが大野は総選挙後に再選されている(国会になってから)。
  • 伊藤議長以降は総じて在任期間が長くなる傾向にある。これは選挙制度が改革されて以降、解散の頻度が減り議員任期が長くなってきていること、社会党が勢力を失い国会の混乱と議長の引責という図式がなくなってきたことによるものと考えられる。

 

3任期途中の辞任

  • 衆議院議長の辞任は上記の通り12例ある。このうち、国会運営上の責任を取って辞任したのは5例である。
  • これらは全て自社の55年体制の時期である。国会が混乱・紛糾し、強行採決となると国会審議は空転する。その後の国会正常化の手段として議長の辞任がしばしば利用された。強行採決の本会議を開会し、議事を行った責任者である議長が引責辞任をすることで野党は留飲を下げ戦果となった(物事の本質(法案の内容など)の解決とはなっていないが解決への大きな動機付けにはなった)。議長に強硬策を強いた与党も議長を辞任させることで一件落着、国会正常化させることを選択した。
  • 社会党が衰退してからは、町村議長の病気辞任を除いては途中辞任はない。在任期間が長くなっている理由の一つである。政権交代の可能性を持つようになり、野党の国会内での物理的抵抗はマイルドになり、議長が強権的に本会議を開会することもほとんどなくなり、数日にわたるような徹夜国会もなくなった。野党は議長を中立的な調停者、駆け込み寺として利用する傾向が強まっている。それとともに、与党も議長辞任による国会正常化という裏取引的な手段をとる必要はなくなってきている。国会の混乱を理由として辞任したのは1989年の原議長が最後である。

 

4衆議院議長不信任決議案可決

  • 戦後の国会になってから、衆議院議長不信任決議案は数多く提出されたが、それが可決されたことはない。帝国議会初期に星亨議長の不信任決議案が可決されたことが2回あるが、それ以外はない。そもそも議長不信任決議案が議題となったのは8例あるのみである。
  • 戦後、副議長については社会党の久保田鶴松不信任決議案が可決されたことが1例ある(議長に対する不信任決議案に対して与党が報復的に提出し可決した)。参議院については副議長も含め議長不信任決議案が可決されたことはない。
  • 一般的には議長不信任決議案は、与野党が強く対立する状況下で、議長が与党に有利な国会運営を進めたという理由で、野党が提出することが多い。より端的に言えば時間稼ぎのための野党の抵抗手段として利用されることが多かった。
  • したがって、与党としては野党の攻勢、抵抗手段を封じなければならず必ず否決する。与党出身の議長が国会の場において堂々と不信任されることは認められない。重要法案の廃案にもつながりかねない。議長の不祥事が理由であっても与党出身の議長を守り、与党のメンツを死守しなければならない。
  • ただ、議長の不祥事に対する世論の批判、あるいは国会混乱後の正常化のため、与党としても議長の辞任はやむを得ないと判断することもある。それでも、表舞台ではなく、与党幹部は議長が自発的に辞任するように水面下で必死に説得する。野党に追い詰められたという格好はとらない。さらし首は是が非でも避けるが切腹ならば面目もたつ。野党も真に議長の進退が極まったときには正面から不信任決議案を提出するのではなく与党内の事態の推移を見守ることが多い。
  • 帝国議会時代末期、終戦後のことだが、樋貝詮三議長は不信任決議案が否決された後に自ら辞任している。面目を保つための方策であったわけであったが、その後の議長の進退についての考え方に繋がるものがある。
  • なお、1989年、与党単独での総予算衆議院通過に野党が猛反発し、原議長の辞任を要求した。この時も総理を含め自民幹部が自主的な辞任を説得したものの原議長は頑として受け付けずに空転が1月以上続く。打つ手をなくした与党は自ら議長不信任決議案の提出の腹を決めたが、最終局面で自重し、議長自らの判断を待った(衆議院議長とは?(15)参照)。
  • こうしたことから、戦後の国会において議長不信任決議案が可決されたことはない。

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