国会に会期は必要なのか?
─ 国会は機能しているのか?
岸井和
2020.07.27
コロナ国会
令和2年の年明けは例年のように平穏に過ぎたが、1月の末にもなると新型コロナ・ウィルスの蔓延が世界中の人々の生活に大きな影響を与え始めた。人々はこれまで経験したことのない感染症のパンデミックに恐れ慄いてその生活はマヒした。
マヒしたのは一般市民の生活だけではない。政府はこの事態に右往左往するばかりであった。客船ダイヤモンド・プリンセス号への対応、新型コロナ・ウィルスのPCR検査の遅れ、オリンピックの延期、緊急事態宣言の発出時期、マスクや防護服の不足、休業する中小零細店への補償、届かないアベノマスク、国民への現金給付の方法とその遅れ、給付金業務の委託会社の不透明性、緊急事態宣言の出口戦略の不在など、ウィルスそのものへの対応から社会生活の維持策に至るまで、あちらこちらから批判が噴出した。政府の対応には逡巡が見えた。未知の事態に対して決断することへの躊躇、感染防止のための生活制限と経済活動マヒの回避の二律背反の要請に戸惑っていた。感染症のみならず、武力攻撃、テロを要因とする緊急事態への理論的対応は以前から少しずつ準備されてはいたものの、いざ眼前に問題が発生すると機動性を発揮できなかった。
ほとんどの国民は自ら犠牲を払い、忍耐を受け入れた。外出は自粛となり、会社への出勤も抑制され、野球や相撲をはじめとするイベントは取りやめ、零細な飲食店の営業も制限された。これらは「要請」という穏やかな表現で国や自治体から求められたが、緊急事態でやむを得ないとはいえ、明らかに自由主義や資本主義といった平時ならば当たり前の価値観を否定するものである。国民の中には自粛では足りない、強制力を持たせるべきだとの声も上がり、自粛をしない人を非難し、自由を放棄するような姿勢もみえた。
国会は何をしたか?
一方で、この危機に対し、国会、立法府は何をしたのか?緊急事態に直面して議会がほとんど無力であることが明らかであった。新型インフルエンザ等対策特別措置法を新型コロナ・ウィルスにも適用できるように改正した。緊急事態宣言発出に際して政府から事前報告を受け、お墨付きを与えた。補正予算を成立させて危機対応への財政上のバックアップを行った。ついでに、歳費を2割削減することを決めた1)議員歳費の削減 手当と国会のコスト(付)参照。しかし、国会の審議よりも総理の記者会見が注目され、国会は政府の方針を追認し、その行為に正当性を与える通過儀礼でしかなかった。それが民主政治から見て決して意味のないこととはいわないが、政府の対策こそが政治のすべてであった。
では、国会は何をすべきだったのか。政府提出の特別措置法の改正により国会は緊急事態に応じてある程度の自由を制限することを認めたため、政府の機能が肥大化するのはやむを得ない。そうであるならば、もう一つの国会の機能である民主主義の観点から検証・検討を行わなければならない。しかし、民主的コントロールを果たすうえで、国会は機動性を失っている。緊急事態だから国会は休会にすべきだとの意見すら出た。未曾有の事態に対して国会は意味ある活動ができないことを前提に、政府の活動にとって邪魔になるから静かにしていろ、ということであろうか。
国会の立法の限界
特別措置法は議員立法で行うべきであった2)国会審議における議員立法参照。国会としては緊急事態に対処する能力を示すこの上ないチャンスであったものの、それを放棄してしまった。議員立法でやるのには内容的に荷が重すぎたというのなら国会の立案能力の限界であろう(ちなみに、改正法案は短い条文改正で複雑なものではない)。野党の中で私権制限などをめぐり意見の一致をみるのが難しかったというのならば、国会は自ら責任を背負うことを回避してしまったということであろう。私権の制限に反発する議員がいるのは当然であり、自由を規制するとしても、それを乗り越えて一定の結論を出す覚悟は必要である。しかし、結局は、政府の下請け機関、閣法主導の立法機関というジレンマを脱却できなかった。多数の官僚機構を持ち、国会でも多数の与党議員を背景にする政府が有利なのは仕方がないが、それだけではなく、少数派への配慮、全会一致の原則などに縛られ、長年にわたる議員立法の限界を見せてしまった。3月10日に政府が提出した特措法案を13日には成立させたものの、国会は緊急事態に他律的に即応したというだけである。
特定の世帯に30万円を配るのか、全ての個人に10万円を配るのか。いったん閣議決定をした補正予算の組み換えは前代未聞の政府の迷走であった。野党は、自分たちの主張通り個人に配付されるようになったと虚勢を張るが、これは立法府という機関の成果というよりは世論の動向に耐え切れなくなった与党内の混乱である。本質的議論は国会外の与党内の調整で行われ、決定されている。国会の最大の功績は政府の決定を受けて提出された補正予算を慣例に反してゴールデンウィークにもかかわらず、速やかに成立させたということである。
議員立法で成立したコロナ関係の法律は何かあったのか。与野党で即座に合意した歳費の2割削減は特別措置法では全く見せなかった積極性を発揮し、提出したその日に成立させている。国民が困難に直面しているときに国会議員も痛みを分かち合うとの理由であるが、新型コロナ・ウィルス感染拡大阻止という最大の目的とは本質的には関係のない措置である。話に整合性があるのだろうか?かえって、生ぬるい、歳費をゼロにしろ、なぜ賞与は対象外なのか、文通費や立法事務費を削減しろといった議論につながっている。国会議員も身を削っていますという感情的なイクスキューズのための方策であろうが説得力に乏しい。他の国では歳費削減の議論はされていない(おそらく、コロナと歳費の因果関係を直ちに理解できないであろう)。なお、細かいところに気を配った法律であるが、特定給付金の差し押さえを禁止する法律は歳費削減法以外の議員立法として唯一成立している。
国会の運営の限界
緊急事態宣言に先立って、衆参の議院運営委員会で事前の報告が行われた。デュープロセスとして国会が関与を行うことには意味はある。しかし、いくつかの疑問がある。なぜ議院運営委員会なのか?特別措置法改正の審査を行ったのは内閣委員会である。議院運営委員会は議院全体の運営に関わる事項(本会議の日程など)を協議する場であり、本来的に感染症に関わる政府の施策を議論する場ではない。それでも、議院運営委員会で行われた大きな理由は、議院運営委員会は事前告知なしに緊急に委員会を開けるという先例があるためである。議院運営委員会以外、すなわち内閣委員会を開く場合は前日から公報に開会することを載せなければならない。与党の抜き打ち的委員会開会を避けるための昔からの慣例であるが、このために緊急事態には対応できない仕組みになってしまっている。緊急事態であるから「どこの委員会でやってもいいじゃないか」との理屈もあろうが、所管の委員会で報告を聴くのが本来であり、緊急事態に当たっても旧弊な先例に縛られ機動性がないことは驚きである。本会議や予算委員会で報告を聴くことはベターな選択肢だが、現状ではこれも緊急には対応できない、時代錯誤的な先例に国会は拘束されている。
そして、最初は総理が議院運営委員会に出てきて報告した。総理が議院運営委員会に出席するのは三木武夫総理以来久しぶりのことである。が、どうして二度目以降は担当大臣しか出てこなかったのか。総理は緊急事態宣言に関する記者会見には毎回出てきている。政府にとって記者会見の方が重要であるということであり、国権の最高機関たる国会の役割は単なる儀式でしかなく空洞化していることを示している。国民の生活にとって大規模にかつ直接に影響を与える問題であるのにもかかわらずだ。他方で、日本の場合、総理が国会に拘束される時間が長すぎることは指摘しておきたい。総理を国会に引っ張り出すことは野党の得点となる。何でもかんでも総理を国会に呼び出そうとするのは55年体制の残滓でしかない。この点は、メリハリをつけることが必要で、審議の在り方として国会が改革すべき問題である。
会期制度は必要なのか?
帝国議会の議員は年に90日しか働かない季節労働者であった。暑い夏場と農繁期は避けられ、年末から3か月だけ働いた。だから、明治の賢人たちは議員への給料は「歳費」という特別な名称を考えつき、労働への対価という形式をとらなかった3)議員の歳費、手当と国会のコスト(2)参照。
戦後の新国会は、国権の最高機関として立法権を独占し、行政を監視することとなり、仕事の量は増えることが予想され常会の期間も150日と長くなった。それでも新しい国会の制度設計を行ったのは多くが帝国議会の議員であり、会期が長くなって議案がなくなったら国会を休会にすればいいという旧来の発想があった。ところが、実際に国会が始まると、政府の提出する法案数は多数に上り、会期が余るどころか、政府は会期の延長をたびたび要請した。議員の方は、こんなに会期を延ばされたのでは堪らないと反発した。会期制度は議会の伝統的在り方であり、会期内に法案審議の処理ができるように政府は調整してくるべきであると。国会は会期延長の回数を制限し、会期制度を堅持することとした。それとともに、野党は反対する法案について会期終了とともに審議未了廃案とする戦略をとり、与党がその延長を図ることが混乱の原因となるのが、日本政治の特徴となった。
しかしながら、英国議会の伝統に基づく会期制度、帝国議会の会期制度は、戦後期においては時代とは流れが合わなくなっていた。行政が肥大化し、国家の法体系は複雑化し増大しただけではなく、国会の国政監視の役割の比重は格段に増した。すでに欧米の主要国は会期制度を廃した万年議会制、あるいは通年議会などとなり、ほぼ一年中議会は開かれているか、開くことのできる状態となっていた。
議員は季節労働者ではありえなくなっている。帝国議会では年二回に分けて支給されていた歳費は、名称は同じであるが毎月支払われる月給に代わった(ちなみに、英米ではサラリーと言われている)。常設の事務所も与えられ、恒常的な宿舎も建設された。つまり、国権の最高機関の議員、国民を代表する議員として新たな輝かしい地位を与えられた国会議員は常勤の労働者として働くことを求められるようになった。しかし、会期制度という土俵設定は、それと相反するものである。
仮に今回のような緊急事態が国会閉会中、日本で起こったらどうするのであろうか?報告だけならば、閉会中審査で対応できる。しかし、立法措置が必要ならば別である。明治憲法下ならば議会の手続きなしに緊急勅令で特措法改正を行うことができたであろう。しかし、現在は国会において立法が必要である。緊急事態が発生し、国会における何らかの立法ないしは承認が必要となったら、内閣は国会の召集を迫られる。
国会を召集するために、内閣はまず国会に召集する予定を通知し、召集詔書を公布する。そこから召集されるまでには早くても3日はかかる。開会式も行わなければならない。続いて、政府の演説と各党の代表質問も衆参本会議で行う。それから予算委員会で質疑をして、ようやく関係委員会で法案の審議に入る。先例によれば、10日間は過ぎてしまうのである。多少切り詰めた日程を考えても、緊急事態、例えば予告なく他国からミサイルが飛んできたときに対応するには遅すぎる。
議会の会期制度のもともとの発端となった英国議会は、今でも会期制度をとっているが、通年会期制度なのでほぼ一年中議会は開いている。仮に緊急事態が生じたような場合、予定されていた議事を変更して首相が本会議で急遽ステートメントを発表し討議が行われる。日本との違いは、政府は重要事項について、記者会見よりもまず議会に説明するという政治慣行である。次に緊急事態に対して議会が対応できる制度ができているということである。日英の差は、議会制度の歴史と議会に対する信頼の違いによるといってしまえばそれまでだが。
会期と国会の民主的コントロール
与党は提出法案の審議が進まないと会期延長を主張してきた。野党は対決法案を審議未了廃案に追い込むために会期延長に反対してきた。法案審議は会期という土俵の大きさを巡る対立にしばしば置き換わった。国政上の問題が生じて野党が追及したいときは、憲法に基づき臨時国会の召集を要求する。政府は審議したい法案がなければ憲法の規定を無視してきた。政府は国会を法律製造マシーンとして必要とし、野党は国政調査、行政監視の場として重宝する。どちらもご都合主義ではある。
コロナ国会においては、野党は国会の延長を主張し、政府与党はその必要なしと判断した。政府の新型コロナ対応をはじめとする問題を追及するために野党は国会を延長し開会しておくべきだと考えた。だが、会期延長の議決では野党は数で負けてしまう。政府は法案も補正予算も終わったので閉会したいが、逃げているととられるのはまずい。最終的には両者の妥協として、定期的に閉会中審査をするという約束をしてお茶を濁した。国会が閉じて以降、週に一回は関係委員会を開くようだが、この緊急時に週に一回しか仕事をしないわけである。第二次補正予算の予備費10兆円があれば当面はしのげるため、野党の追及を受ける恐れのある臨時国会をわざわざ召集する必要はないとの声も政府与党から公然と聞かれた。
会期が長ければ与野党の対立が恒常的になり国内の政治的動揺が永続化する、政府が国会に縛られ行政能率が低下する、会期末というタイムリミットがなければ国会審議が一層停滞する、など、会期制廃止や通年国会制への反対意見はいくらでも出てくる。しかし、行政は国会で作られた法律に基づいて、国会の会期とは関係なく日々動いている。国会はその活動を同じように日々監視する仕事もある。法律の意図したとおり行政が進められているのか、行政の実務は適正に行われているのか、何らかのやむを得ない理由で国民の自由を犠牲にし政府の権限を増大させるような立法が行われたとしても、国政の執行状況を絶えずチェックする民主的コントロールは国会の機能として決定的に重要である。
欧米の主要国では、会期制を採らない国もあり、また、会期制を採っているにしても、ほぼ一年中議会は開いている(夏休みなどはあるが)。日本の憲法は会期制を定めているとの主張もある。しかし、現行憲法でも通年会期制で、一年中開会していることは可能である。なによりも、土俵の大きさを巡る議論は非生産的である。自分に有利か不利かで判断いるだけで、あまりにも政略的である。そうした国会の本質ではない議論はやめにして、双方にとって有利にもなりうるし不利にもなりうる中立的な制度である通年会期を選択することはできないのか。それがグローバル・スタンダードであり、法案の審議時間を十分に確保できるものであり、膨大な行政機構を常時チェックし民主的コントロールすることにもなり、突然の危機にも対応可能であり、常に国民への必要な情報発信ができる制度ではなかろうか。
脚注
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