国会のコスト(2)

議員の歳費、手当と国会のコスト(2)
― 帝国議会時代の歳費

岸井和
2019.08.28

3.歳費

(1)帝国議会時代の歳費

現在の歳費については、憲法49条で「法律の定めるところにより、国庫から相当額の歳費を受ける」と定められ、これを受けて国会法35条において「一般職の国家公務員の最高の給与額(地域手当等の手当を除く。)より少なくない歳費を受ける」とされている。さらに、国会議員の歳費、旅費及び手当等に関する法律(以下、歳費法とする。)1条において、月額129.4万円と定められ(議長は214万円、副議長は158.4万円)、毎月10日に支給される(歳費規程1条)。

国会議員の歳費は、議員の勤務に対する報酬としての性格を有すると考えるのが一般的である。しかし、国会議員は普通の国家公務員とは異なり、勤務時間の定めはないし、兼職も認められているなど勤務形態が大きく異なる。歳費と給与は必ずしも同じではない。

おそらく、明治憲法制定時でもこのような違いの認識はあたと思われる。議会開設前、枢密院における「議院法」の審議過程の当初は「衆議院議員年俸」という用語が使われていた。枢密院では、用語として年俸なのか歳費なのか(手当、日当、年給などの議論もあった)、金額はいくらが適切か(当初原案では600円だったが、途中で1,200円案が有力になる)、他国との比較、地方議会との比較、貴衆両院の相違の是非、国庫負担の総額など、多岐にわたる観点から天皇も臨席する中で活発な議論が繰り広げられた。最終的には両院議員共通の「歳費」、金額は「800円」となった。これが決定されたのは議院法の公布直前である1)明治21年9月の時点の枢密院会議筆記では「衆議院議員年俸」案が使われている。議論の内容が必ずしも整理されていないが、官吏ではないことから年俸は不穏当との発言がある。明治22年10月18日の筆記では「歳費」とすることに合意が得られ、29日には歳費という用語を前提として議論が進み「衆議院議員歳費」「1,200円」で結論が出ている。しかし、翌年の1月17日の再審会議で貴族院を含む各議院の議員の歳費は800円と改められた。議院法の公布は明治22年2月11日。

この過程を見ても歳費の性格については必ずしも明確とはいえないが、「年俸」ではなく1年間の費用を意味する「歳費」という言葉を用いたことや議論の中で「資格品位を保つための費用」「滞在費として給与し」「会期中は己の常職を捨てるうえ、議政には交際奔走のため多少の入費を要する」などの発言が散見されていることから費用弁償的考えも意識されていたと思われる2)帝国議会時代は、原則として通常会開会後30日以内に6か月分、閉会後7日以内に6か月分を支給していた。

1899年(明治32年)に歳費増額法案が提出された際、歳費の性格についてより具体的に議論が展開されている。政府の説明によれば、歳費は報酬というよりも議員が必要とする費用を負担する性格のものだとされている3)平田東助法制局長官は「苟モ歳費トシテ公職ニ就ク所ノ議員ニ給スル所ノ費用デアッテ見ルト、決シテ俸給デハナイケレドモ、(中略)其雑費ヲ償ウト云フ意思ヨリ出デ居ルノデアリマス、」と答弁し、阪谷芳郎大蔵省主計局長は「議員ガ自分ノ家事ヲ棄テ、東京ニ居ラレル間ト云フモノハ、種々費用モ掛ル、其実費ノ主義カラ成立ツタモノデアリマス、月給トカ慰労トカ云フヨウナモノ、性質トハ違ヒマス」などと答弁し、歳費の実費弁償的性格を政府の公的見解としている。(明治32年3月5日衆議院議院法中改正法律案審査特別委員会速記録)

当時の議員の活動は現在とは違って議会の会期は短く(年間90日のことが多い)、本来の仕事は別にあるはずだから、東京の議会に出てきて活動する間の費用弁償的性格のものだと考えており、その金額は積算したわけではなく大まかに議会出席のための費用を年単位として定めたものが歳費と考えられていた4)上記速記録中の阪谷主計局長は「専ラ実費ニ充テルト云フノ主義デス、併シ其実費ハ、ドウ云フ風ニ算出スルカト云フコトハ、分リマセヌ」「其会期中ノ費用トシテ充テヽアリマス」と答弁している。勅任官として1年中仕事のある正副議長は歳費が高額に設定されており、一般議員の歳費との意味合いが異なっていた。ただし、正副議長は俸給、一般議員は歳費と名称を違えることには枢密院において異論があり、同一の歳費という用語が使われた。

明治憲法下では旅費を別として議員に対して支給される特別な手当はほとんどなかったが5)議会閉会中も議案審査のための委員となった議員には1日5円以下の手当が出された(議院法25条)。、新憲法下では国会の活動期間は長くなり、他の職業を兼ねることも難しく、また、費用弁償的な様々な手当も創設されるようになると歳費を費用弁償と説明することも無理が生じ、実態として報酬としての性格を強めていったと考えられる。

国会議事堂

英国では、議会に庶民院議員が進出するようになった中世以来、その報酬(ないしは費用弁償的な手当)は地域の代表者であるから出身選挙区が支払っていた。特に都市選挙区ではそれが多額の出費となったため議員を選ぶことにも消極的であった。また、中世の議会は国王と貴族に支配され、庶民の権限がほとんどなかったため、庶民は議員に選ばれることも議会に行くことも避けたがる者が少なくなかった。

しかし、近世に入り庶民院議員の地位・権限が強まると、ジェントリなどの有産階級が立候補し、選挙に大金を投じても議員になろうとする者が増える。16世紀半ばころまでには報酬がなくても議員になろうとするようになった。17世紀には議会で報酬廃止の決議もなされた。したがって、議員は有産階級中心で、無報酬の時期が長年にわたり続いたが、19世紀末に無産階級の議会進出の機運が高まると議員報酬の必要性が主張されるようになる。議会が金持ちの社交クラブではいけないとの発想である。英国で歳費が支給されるようになったのは、ようやく1912年からである6)近藤申一「イギリス議会政治」敬文堂 平成9年、中村英勝「イギリス議会史」有斐閣双書 昭和53年。なお、英国では議員歳費は一般にsalaryという言葉が使われている。

英国のように無給の国もあるが、それはその国の事情があり日本では無給とするわけにはいかない、歳費を支給する外国の例が多いとの判断から、帝国議会が誕生したときには、議院法19条において両院議員の歳費は年額800円(議長は4,000円、副議長は2,000円)と定められた7)議院法第19條 各議院ノ議長ハ歳費トシテ四千圓副議長ハ二千圓貴族院ノ被選及勅任議員及衆議院ノ議員ハ八百圓ヲ受ケ別ニ定ムル所ノ規則ニ從ヒ旅費ヲ受ク但シ召集ニ應セサル者ハ歳費ヲ受クルコトヲ得ス最終的に800円となった理由は詳らかではないが、この金額は政府の役職者と比して決して高額な水準ではなく、各省次官よりも大幅に低かった8)一般庶民の収入に比すれば議員歳費は低額ではないが、政府の役職者と比べると高い金額とはいえない。明治25年11月12日付の「高等官官等俸給令」によれば、各省次官の年俸は4,000円で議員歳費の5倍で、議長の歳費と同額であった。また、内閣総理大臣の年俸は9,600円、大臣の年俸は6,000円であった。。議員の位置づけは高くはなく、年の3か月分の実費手当の意味合いが強かったからであろう。また、現在では歳費関係の法規は議員立法で扱われるが、当時は議会成立前で枢密院の定めた「議院法」で規定された。

1899年(明治32年)には地租増徴を認めた議会に対する工作費用的な意味合いも含めて、山県有朋内閣は議員歳費を年額2,000円に大幅に引き上げた。この歳費引き上げに関して、国民に負担を強いるのに議員の歳費は値上げするのかと激しい批判が起こり、議会の審議も紛糾するが、「歳費を辞退することも得」という修正をして議決された。だが、実際に辞退したのは田中正造ただ一人であったという9)前田英昭「エピソードで綴る国会の100年」原書房19901920年(大正9年)には、第1次大戦後の物価高騰にあわせて議員歳費は年額3,000円に引き上げられ、終戦までこの金額が続く10)ただし、昭和21年の帝国議会において、歳費があまりにも貧弱であるため、議長、副議長、議員に月に一律1,500円の手当を支給する法律が成立している。議院法改正ではなく、「帝国議会各議院の議長、副議長及び議員の手当に関する法律」で措置した。

(続く)

脚注

脚注
本文へ1 明治21年9月の時点の枢密院会議筆記では「衆議院議員年俸」案が使われている。議論の内容が必ずしも整理されていないが、官吏ではないことから年俸は不穏当との発言がある。明治22年10月18日の筆記では「歳費」とすることに合意が得られ、29日には歳費という用語を前提として議論が進み「衆議院議員歳費」「1,200円」で結論が出ている。しかし、翌年の1月17日の再審会議で貴族院を含む各議院の議員の歳費は800円と改められた。議院法の公布は明治22年2月11日。
本文へ2 帝国議会時代は、原則として通常会開会後30日以内に6か月分、閉会後7日以内に6か月分を支給していた。
本文へ3 平田東助法制局長官は「苟モ歳費トシテ公職ニ就ク所ノ議員ニ給スル所ノ費用デアッテ見ルト、決シテ俸給デハナイケレドモ、(中略)其雑費ヲ償ウト云フ意思ヨリ出デ居ルノデアリマス、」と答弁し、阪谷芳郎大蔵省主計局長は「議員ガ自分ノ家事ヲ棄テ、東京ニ居ラレル間ト云フモノハ、種々費用モ掛ル、其実費ノ主義カラ成立ツタモノデアリマス、月給トカ慰労トカ云フヨウナモノ、性質トハ違ヒマス」などと答弁し、歳費の実費弁償的性格を政府の公的見解としている。(明治32年3月5日衆議院議院法中改正法律案審査特別委員会速記録)
本文へ4 上記速記録中の阪谷主計局長は「専ラ実費ニ充テルト云フノ主義デス、併シ其実費ハ、ドウ云フ風ニ算出スルカト云フコトハ、分リマセヌ」「其会期中ノ費用トシテ充テヽアリマス」と答弁している。勅任官として1年中仕事のある正副議長は歳費が高額に設定されており、一般議員の歳費との意味合いが異なっていた。ただし、正副議長は俸給、一般議員は歳費と名称を違えることには枢密院において異論があり、同一の歳費という用語が使われた。
本文へ5 議会閉会中も議案審査のための委員となった議員には1日5円以下の手当が出された(議院法25条)。
本文へ6 近藤申一「イギリス議会政治」敬文堂 平成9年、中村英勝「イギリス議会史」有斐閣双書 昭和53年。なお、英国では議員歳費は一般にsalaryという言葉が使われている。
本文へ7 議院法第19條 各議院ノ議長ハ歳費トシテ四千圓副議長ハ二千圓貴族院ノ被選及勅任議員及衆議院ノ議員ハ八百圓ヲ受ケ別ニ定ムル所ノ規則ニ從ヒ旅費ヲ受ク但シ召集ニ應セサル者ハ歳費ヲ受クルコトヲ得ス
本文へ8 一般庶民の収入に比すれば議員歳費は低額ではないが、政府の役職者と比べると高い金額とはいえない。明治25年11月12日付の「高等官官等俸給令」によれば、各省次官の年俸は4,000円で議員歳費の5倍で、議長の歳費と同額であった。また、内閣総理大臣の年俸は9,600円、大臣の年俸は6,000円であった。
本文へ9 前田英昭「エピソードで綴る国会の100年」原書房1990
本文へ10 ただし、昭和21年の帝国議会において、歳費があまりにも貧弱であるため、議長、副議長、議員に月に一律1,500円の手当を支給する法律が成立している。議院法改正ではなく、「帝国議会各議院の議長、副議長及び議員の手当に関する法律」で措置した。

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