予算審議 与野党の思惑と困惑
岸井和
2020.01.10
予算委員会は特殊な委員会である。国会法や衆参の規則においては、予算を所管する委員会として17の常任委員会の1つとして存在する。だが、他の委員会とは異なる独特の雰囲気があり、議員の気合の入れ方、マスコミ・世間の注目度も違っている。第一委員(会)室、通称予算委員会室という重厚な部屋で開かれ、総理大臣以下大勢の大臣、各党の幹部議員が出席し質疑をすることで重厚感は増す。与野党の責任者の発言は平議員の発言とは重要度が違う。毎年必ず開かねばならない常会はまず予算審議のためにあり、予算が国家運営の要であり、成立しなければ内閣が潰れる。そのため政府与党は予算の年度内成立に向けて全力を注ぎ、野党は抵抗をする。予算は数多くの議案の中でとりわけ重要な位置を占めている。
予算委員会の審査は少し変わっている。国会法では委員会は付託された案件を審査するとあり、衆議院規則では議題外の発言は禁止され、参議院規則では議題について自由に質疑し意見を述べることができるとしている。つまり、委員会での議論は議題となっている案件を審査するのが原則である。
しかし、予算委員会については、何を質疑しても予算を審査しているという慣例が出来上がっている。本来は委員会ごとに所管が決まっており、例えば社会保障制度は厚生労働委員会で取り扱う。だが、予算委員会で質疑してもいい。政治家のスキャンダルに関して質疑しても国政調査ではなく、予算の審査となる。理屈は、予算は国政全般に関係しているのであるから、およそ国政全般に関することで何を質疑しても予算を審査していることになるという論法である。実態は、野党としては質疑内容が制約されるよりも「何でもあり」の方が好都合であるし、政府与党としては広範な質問となるので多少の苦労は伴うが議題外かどうかを問うよりも時計の針が進むことを優先する。与野党の利害が合致すれば、法規が後回しになるのは国会としては珍しくはない。
この予算委員会の特殊な慣行は与野党双方の便宜としては有用だが、一般国民の眼から見るとどうなのか。予算委員会では予算の中身がほとんど議論されていないのでは、という疑問につながる。平成31年の予算審査では毎月勤労統計が不適切であったとの議論が繰り返された。それ自体は問題があるのは間違いない。野党としては、注目される場で政府の不手際を追及し、行政監視という立派な国会の責務を果たしたと胸を張る。テレビで中継されている中、総理大臣を遣り込めるのは大きなチャンスである。しかし、統計処理の話を聞いても総理大臣が分かるわけがない。総理大臣は行政の最高責任者として謝ることはできる、それを是正せよと命ずることもできる。だが、予算委員会で総理に何度も質問するような問題なのか。総理は官僚の作った答弁書を見ながら答えるしかない。それを所管している厚生労働委員会で質問すれば十分であり、より直接的な、実態を熟知する担当者に問いただし、是正を求める方が建設的であろう。
平成30年には、森友学園への国有地売却を巡る問題で、財務省が公文書を廃棄、隠蔽、改竄したとの問題が発覚した。虚偽の答弁もした。この問題で予算の審査はかなりの時間を取られた。長い議論の末の結論としては役人側が「忖度」した結果だというのが一般的理解だろう。忖度させるような体制は問題があるとなる。しかし、総理大臣が関与した明確な証拠もない中で、このスキャンダルに予算委員会において延々と時間をかけるのが賢明なことだろうか。財務金融委員会か決算委員会で追及すれば事足りるのではないだろうか。野党は何でもよいから政権与党の信頼性を揺るがし、ダメージを与えることを優先する。延々と質疑しても報告書も作られず、いつの間にか議論は終わっている。
しかし、予算審査とスキャンダル追及を切り分けるのは現実には難しい。予算という人質がなければ、与党はスキャンダルの方はサボタージュする。ダメージはなるべく避けたいからだ。平成の時代となる前後のリクルート特別委員会は、かねてより与野党で約束していた証人喚問が終わると、問題は片付いていないのに開かれなくなった。代わりに予算委員会が混乱したわけだが。野党にとっては注目される予算委員会で予算の日程に絡めて追及しないと効果は薄いと考える。野党は繰り返しスキャンダル追及のための集中審議を要求する。となると、重要であるはずの予算自体の審査はおろそかになる。それでも、与党は予算審査が進んだとみなす。お互いの思惑が別のところにあり、予算の是非を審査するという本来の目的を他所に、与党はただただ審議時間の経過に、野党は現政権の問題点を国民にアピールすることに注力している。相手の主張にただ困惑するという循環に陥る原因は、与野党の対立が生じても相互の意思疎通を真剣に図ろうとせず、不完全なままにファジーな一時的な便法により、とりあえず自らの成果を上げようとすることにあり、実は問題は解決していないことにある。結局は双方の逆方向の日程に対する関心ということだけが浮かび上がる。
協議が決裂して新たな展開が望めなくなれば、野党は委員会運営が不正常であるとして委員長の解任決議案を提出する。与党にとっては実はラッキーである。これを早速に否決してしまえば野党の手は塞がれてしまう。解任決議案提出は表向きの威勢はよいが、否決=信任という単純な結論を導くだけで、言葉による意思疎通を放棄して議論に見切りをつける手段を野党が選択したことになる。強行採決も結論の出ない問題を強引に終わらせるものであり、これは与党が選択する方法である。最後には議論を飛び越えてしまうことの繰り返しを日本の国会は数十年続けてきている。
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平成13年に綿貫民輔衆議院議長から諮問があり、瀬島龍三氏を座長とする「衆議院改革に関する調査会」は次のような答申を出している。
「…予算委員会では、予算の骨格となる「外交・防衛問題」、「経済政策の在り方」、「財政・税制問題」、「社会保障制度の在り方」等について議論を行うことが望ましい。 予算に関係しないいわゆるスキャンダル等は、政治倫理をテーマとした質疑の機会と場所を別途設けて行う等、予算審査は、できるだけ予算に即して行うようにすべきである。」
答申から20年近く経つが、予算委員会に関する部分について、答申が反映されている形跡はない。
平成の時代になるころから、政治改革(選挙制度改革、政治資金改革)、省庁再編、官邸機能強化などの政治部門の改革がなされてきた。この中で、国会については国会審議活性化法を制定していくつかの変革もあった。与野党の国会議員同士で議論して国政を進める政治主導の議会を目指し、副大臣・政務官(国会議員)の活用と政府委員(官僚)制度の廃止、与野党党首が論戦を交わす国家基本政策委員会の設置である。しかし、前者については政府委員は政府参考人と名前を変えて官僚が国会で答弁する風習は生き残り、後者は年に一回か二回催される行事となってしまった。国会の外側は変化していったが、内側は同じままである。現在の国会改革の論点は、国会のペーパーレス化、産休議員の在宅投票などといった枝葉の部分であり、「国会審議の形骸化」という長年の批判に応える審議の在り方そのものを問う改革は行われない。
野党は存在意義に関わるので総予算には反対するが、自分たちの提出する編成替え動議(実質的な否決)を通そうとは思っていない。世の中に与える影響が大きすぎて、よほどの事情がない限りかえって責任を問われてしまう。予算というものが選挙で勝利した政党の作る政府の具体的な政策の表象である限り、与党は少数派である野党の主張を受け入れることはあり得ない。辞書よりも厚い予算書の数字を少しでも触ると一大作業になってしまうという現実的なハードルもある。実質的な修正も困難である。住専問題で新進党議員が第一委員室前でピケを行い、長期間予算委員会の審議が空転した平成8年度総予算の修正は総則部分だけの形だけのものであり、予算本体は1円たりとも修正されていない。原案通りの可決という結論は見えているのであるから、残されているのは審査日程となる。審査の在り方よりも日程が与野党の攻防の焦点とならざるを得ない。
総予算の審議は通例1月末から始まる。衆議院の予算委員会における審査は、参議院の審議ために30日、3月末までの成立ということを前提にすると、3月2日までに終わらせることになる。この間、平日だけで22日程度は確保できることになる。このうち、公聴会、地方公聴会、分科会に4日かかるので、本格的審査は18日程度となる。1日7時間の審査をすれば、年度内成立を前提にしても126時間の質疑は可能なはずである。だが、実際にはそんなに長くはやっていない。国民には見えない駆け引きに時間はとられている。予算の審議時間を犠牲にしてまで表に出ない日程協議に長い時間が取られている。
日程に絡めて、野党が与党や政府に様々な要求を出すのはお決まりのパターンである。予算という人質があれば要求も通りやすい。日程を協議する理事会において、政府の資料を提出せよ、証人喚問や参考人招致をせよ、大臣の答弁を訂正せよ、集中審議を開けといった野党からの要求は頻繁にある。政府はなかなか資料を出さない、証人や参考人もすぐには応じない、答弁訂正もくずぐずと時間をかけ、集中審議は「努力する」とはぐらかす。その間にも審査は進み、時間が稼げる。しびれを切らした野党が、これでは審査に応じられないと強硬姿勢をとると、政府は渋々要求に応じる。小出しに要求に応じることは審議促進のための国会運営上の一つの技術である。
与野党の駆け引きを委員会の裏(理事会や国会対策委員会)で行っている間に日数は過ぎていく。ただし、協議が長引けば、日程の決定はその日暮らしとなり、翌日の委員会ですら簡単には決められないことが多い。質問通告は深夜となり官僚の徹夜作業は増す。委員会当日になってみると野党が委員会に出てこないときもある。与党は過ぎ行く日数と採決日と実際の審査の遅れとを勘案しつつ、少しずつ妥協し事態を進展させていく。政府に対し「いつまでかかるんだ、今日中には資料を出せ」と怒った素振りを見せ、野党には「採決前に総理入りで集中審議をやりましょう」と努力を誇ってみせる。国会対策のために総理大臣をも犠牲にするというのは世界的にも珍しい。こうした応酬は自民党と社会党との長年の国対政治で形作られたものであろうが、今でもその残滓は残っている。
野党は、問題解決やスキャンダル解明に向けて煮え切らない態度を取り続ける与党の姿勢を見て、質疑を続けるよりも審議拒否した方が世間の評価が高いと考える。しかし、その考えが本当に正しいのか不安も残る。与党も時計を気にしながらも支持率を下げてでも強硬策に出るべきなのか迷いがある。いくら「審議を拒否した野党の責任」と言い張っても審査時間が短いのは与党にとっても「審査不十分、採決は与党の横暴」との世間の批判を浴びることになりかねない。審議拒否も強行採決もお互いのチキンゲームである。決断を迫られる与野党幹部は協議は重ねつつもお互いの意見の相違を切り捨てて調和させることを放棄し、疑心暗鬼の中で行動に出る。他方で、平和に進むケースを考えれば、予算審査の終盤になると、同じような質疑が繰り返される。野党も実は弾切れになってきている。政府も同じような答弁を繰り返す。与野党とも日程表を見て「そろそろだな」と阿吽の呼吸で採決が決まる。野党は「やむを得ない」と言うか、表向きは「採決に合意できない」と主張するにしても。
1月間くらいの審査が進んでいく間で、一番面白くないのは与党の予算委員(理事ではない一般の委員)であろう。彼らは毎日数時間を予算委員室で過ごさなければならない。予算に対する要求は与党内で予算提出前に終わっている。予算全体よりも予算の個所付けが選挙区対策としては重要であり、これは誰もが聴いている委員会で話はしにくい。予算全体に多少の問題を感じても口に出せば野党を利することになり、党幹部から睨まれるから、それはできない。野党に時間を与える一方で、時間を節約するために委員会で質疑することも少ない。総理大臣が出席してテレビ中継のある基本的質疑や集中審議には与党幹部が登場し、仮に平委員の出番があったとしても注目度の低い一般的質疑くらいである。大多数の与党委員にとっては、じっと座って他の議員の質疑を聴いているか、寝ているか、あるいはヤジを飛ばすことくらいしか仕事がない。定足数不足は委員会が止まる格好の材料となるだけではなく、与党席がガラガラではテレビ映りも悪いので不在にするわけにはいかない(テレビに映ると「うちの先生は国会で頑張っている」と地元での評判がよくなることもある)。予算委員会が開会できない場合も、平委員は理由もよく分からずに委員(会)室で待機している。予算審査の実際は野党議員対政府であり、与党委員は手持無沙汰である。
予算に限らず、国会審査の在り方全体の問題であろうが、日本の国会では議員が一定の時間を与えられて、大臣等に質疑する方式をとっている。帝国議会時代以来の伝統であり、戦後になっても同じ方式を取り続けている。時間の管理は事務方の大きな仕事であり、議員は時間内ならば誰にも邪魔されずに安心して質疑を行える。また、「大臣がいないから委員会が開けない」という理屈は常識になっている。国会の日程なのに大臣の日程に左右されている。審査を不可能とするために、故意に衆議院の委員会の時間に合わせて参議院の本会議に大臣の出席を求めることもある。委員会の定例日制度が設けられたのは大臣の日程調整が一つの理由である(予算委員会には定例日がなく特別扱いだが)。国会は政府から自立していない。
いずれにせよ、この議員の質疑と政府の説明という伝統的方式が委員会審査である。質問通告制度もこの伝統的方式を前提としている。重箱の隅をつつくような質問も多いので、「通告があった、なかった」「通告がないから答弁(説明)ができない」という不可思議な論戦になる。議員が政府に対し、その議案の内容や行政行為の適否を問いただすということは必要である。しかし、合議体であるはずの委員会において与野党相互のコミュニケーションを取らずに、政府を介在させてのやり取りとなってしまっていることは合議体の体をなしていない。与野党議員の間の議論が行われることはほとんどない。与野党の応酬がない。質疑をしない委員は委員会に参加しているのか、いないのか、席に座って沈思黙考している。
日本語学者の芳賀綏氏によれば、人と和合する文化を持つ日本においてコミュニケーションとは、言うこと、伝えることだという程度に考えられている。ファジーな伝達である。西洋では勝負であり、対立する相手を変化させる、相手を操作することにある。日本では、説明をすることはあっても、徹底的に相手を負かすまで議論するという風土は弱いのかもしれない。一人の委員が質疑し、政府が説明し、他の委員は関与しない。
つまり、政府は説明をし続け、それを聞いた野党議員が「これは納得できない」と言い続け、委員会の構成員たる与野党委員間の議論はない。計画通りの時間が経過すれば、与党は野党に対して「審査は十分に尽くした、止むを得ず採決する」と伝え、野党は「欠陥議案なのに審査も不十分だ」と反発し抵抗する。審査を通じた与野党の言葉によるコミュニケーション不足(不足というか裏でのファジーな取引は別として)、表立った交渉をほとんどやっていない状況での対立となってしまう。それまで没交渉だった与党委員と野党委員が入り乱れて採決の修羅場を演出する(皮肉な見方をすれば、日本の強行採決も言葉を介さないコミュニケーションの1つかもしれない。強行と抵抗を行うことで結論としてはお互いに妥協している)。
しかし、議会制度という西洋文明を取り入れた以上、西洋流のディベートも必要となろう。英国は議院内閣制だが、委員会審査に大臣はまず出てこない。与党と野党の議員、副大臣や政務官がディベートを繰り広げる。質疑の持ち時間はない。発言したい議員が立ち上がって委員長の指名を求める。他の議員が発言中でも「譲ってくれ」といって、自説を主張し始める。発言内容に合理性があり納得する議員が増えれば、政府の法案は修正されてしまうかもしれない。副大臣らも政府法案が敗北しないように必死である。彼らにとっては試験の場でもあり、自分のキャリアにも決定的に影響する。
日本では委員会の採決の前に討論を行う。討論とはその名称の印象とは異なり、お互いに言い合うのではなく自己の主張を一方的に話すだけで、他の議員は聞いているだけである。それを聴いていると、与党は政府と同じ論法で賛成、野党は審査前と同じ理屈で反対をする。審査に時間をかけてきた意味はあるのか。与党議員は審査にほとんど参加せず、野党は説明を聞いているだけだから、互いのコミュニケーションが取れていないのも当然のことなのかもしれない。審査方法として、政府を介在せずに与野党議員が直接に議論し、お互いに相手を折伏するほどの覚悟で、コミュニケーションをとり、最終的な賛否は変わらないとしても「なるほどな」という雰囲気を醸成できるような場があってもよい。予算委員会であれば細かい技術的な議論ではなく、どの政党がどのような国家観を持ち、国をどのような方向に進めようとしているのか、どの政党に国を託すべきか、国民の眼にも明らかになるのではないか。定足数要員の与党委員も参加できるようにし、日程調整の交渉に追われることのない委員会審査を行うように制度設計を工夫しなければならない。
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