文通費と国会審議

文通費と国会審議

岸井和
2021.12.09

文通費問題の三つの論点「日割り」「使途公開」「国庫返納」

10月末の衆議院選挙を受けて、在職期間が1日であっても1か月分の文通費100万円が全額支給されることに素朴だが当然の疑問が生じ、国会の内外で議論になった。10月31日分の100万円は何らかの方法で寄付する(議員は受け取らない)ことで各党が一致している。

さらなる問題点は大きく分けて三点ある。「在職日数に応じて『日割り』計算をすべき」「文通費の『使途を公開』する(領収書を添付する)」「使いきれなかった場合は『国庫に返納』する」というものだ。文通費が国会議員の活動に伴う実費弁償的なものであることを考えれば、議員活動していない期間は払わない、かかった経費の領収書などを明らかにする、使わなかった金は返還するということは、誰もが納得する話である。非課税とされている文通費に合理性と透明性を求めるのは当然であるが、実態としては文通費はその対極的な不合理で不透明なお金であり、何十年もそれでまかりとおってきている。

総選挙後、文通費が問題として浮上すると各党とも「日割り」には素早く対応し、在職日数に応じて日割り支給とする法改正には賛成の意思を示した。仕事をしていない期間の経費支給は合理性が全くないから世論の批判には耐えられない。選挙が終わって3週間も経たない11月中旬には自民と立憲が次の国会で文通費の日割りの法改正を行うことで早くも合意した。「日割り」を認めることで文通費問題が拡大することを防ぎ、早く幕引きをしたいという意図がみえみえであった。

しかし一度火のついた問題は容易には鎮火しない。「使途公開」と「国庫返納」がクローズアップされることになる。この議員特権がこれまで闇に隠され続けてきたのは、特権に対する感覚のマヒとコトを荒立てない体質が理由である。この感覚マヒ、体質はほぼすべての国会議員に共通するものであり、それゆえ文通費問題は静かにやり過ごすことができていた。文通費(及び立法事務費)について領収書等をつけた報告書の提出を義務付け、閲覧に供するべきとした2001年の「衆議院改革に関する調査会の答申」も20年間ほぼ黙殺されてきた。維新の会は使途公開を主張し、自ら一部実行していたが、その公開は不完全であり、他党からは無視されるか批判されていた。共産は国会議員団の共同管理にしているようだが各議員に支払われる文通費の趣旨からして果たして正しい方法なのかよく分からない。

 

文通費をめぐる国会の流儀

文通費は1993年に25万円引き上げられて現行の100万円となった。このとき、議院運営委員会で審議されているが、法案の提案理由が説明されただけで即座に採決されている。つまり、25万円引き上げは説明されているが、その理由は全く明らかにされていない。与野党議員の共通の利益には口を挟まない。その根拠として国会議員の身分に関することは全会一致で決めるという「美しい慣行」がある。全会一致となるように事前に隠れて妥協点を探り、馴れ合いで内容を決めましょうということに他ならない。逆に、改革を頓挫させるための方便ともなる。真の対立は存在せず、表向きの対立点を明らかにすることがお互いに都合が悪ければ密かに手を握ってしまう。これがいわゆる国対政治である。(なお、1993年改正に共産は反対した。その後も共産は文通費に反対の方針をとっているが受け取ってはいる。)

一般的に、野党は高めのボール(厳しい案)を投げ、与党は低めのボール(緩やかな案)を投げかえす。両案をめぐって内々に与野党で協議を進め、与党案に近い形で結論が出る。最後は多数決だからしょうがないということではない。与党は厳しい案をとらなかったことで批判は浴びる。とはいえ、全党の了解を模索していく中で民主的な過程を踏んで一歩前進したと主張する。野党は与党に押し切られてしまったという。だが、内心は与党が批判を引き受けてくれたので大きな犠牲を払わずに済んだことを喜んでいる。理念的対立というよりは格好つけのための対立だから、双方のメンツが立つ落としどころを探るのが政治的決着の重要なところとなる。

文通費問題の先行きは

今回の文通費問題も、国会における表立った議論がないまま、この臨時会では結論が出ないということになりそうだ。しかも自民と立憲の間で合意していたはずの「日割り」についてまでも、である。自民公明は「日割り」で収めようとしている。一方の野党、立憲と維新・国民は「使途公開」と国庫返納」を求め、それぞれ法案を提出した。両者はほぼ同様の内容だが、主導権争いをしているため共同提案とはならない(その後、維新・国民は自らの案を取り下げ立憲案に賛成する方針に転換した。これは、立憲が与党と妥協することを阻止するものかもしれない)。しかも、立憲はとりあえず「日割り」だけで了解しそうな様子でもある。共産は政党交付金と合わせて抜本改革すべきとして問題を拡散している。このままだと、全会一致で決めるという「美しき慣行」に反するからすべてに関し結論は先送りになる。この場合、話が進まないのはどの党のせいなのか?慣行はそんなに大事なのか?慣行は話を進めないための隠れ蓑ではないのか?どうして表の場で正々堂々と議論を展開しないのか?文通費の話だけではないが、背景には責任の所在を曖昧にして妥協する国会運営の在り方にそもそもの問題がある。

「日割り」は衆議院選挙のある3~4年に一度の話であり、ほとんど議員にとって「実害」はない。「日割り」で終わらせるのは議員特権への批判をうやむやにするその場しのぎの方策だ。「使途公開」と「国庫返納」は日々の話となり、金銭的だけではなく、事務的な「実害」はとてつもなく大きくなる。特に困難なのは、適正な使途である。住宅ローンの返済やワイン代に充てるのは論外しても、「公の書類を発送」するためだと残金を全部切手に変えてしまうことも認めるのか。自らの政党支部に寄付してしまってもいいのか。抜け道探しは彼らの得意技でもある。さらには、立法事務費や鉄道無料パス・無料航空券、格安宿舎など他の経費支給との整合性はどうなのか。政党交付金との関係はどうなのか。

実は検討すべきことはたくさんあって、論点を整理してきちんと議論しなければ文通費は永遠に問題アリの手当となる。議員特権に関しては現在の国会の審議方式は、議論を不明朗にし、現状維持を認め、やむを得ない場合のみ目先の取り繕いですませようというシステムとなっている。不可思議な全会一致の慣行、実質審議しない議院運営委員会、闇に包まれた庶務小委員会(委員会の前段階、肝心の懇談部分の議事録は公開されない)、国対間の取引での決定などである。国民の目をかいくぐった決定過程である。こうした国会の在り方に一石を投じて議員特権についても公開の場で議論を展開するところにまで持ち込めるのか、これまでのように知らない間にどこかで妥協案ができあがるのか。今回も、密室の政党間協議をマスコミが報道しているだけであり、国会の場で各党が責任をもって国民の前で堂々と主張しているわけではない。裏交渉を得意気に解説するマスコミにも共同責任があるのかもしれない。

時間が経過すれば世論の熱も冷め、強硬改革派も疲れてくる。ここで性急にコトを収めるよりも時間をかけることで事態が沈静化する戦略に与党は転換しつつあるふしがある。与党が「使途公開をしない」、あるいは「できない」理由を明確に述べることは難しかろう。事務の煩雑さは理由にはならない。地方議会ではやっている。野党議員の中には「与党さん、日割りだけで押し切ってくれ」との声もあると聞く。これまで何十年も議論を先送りにしてきた。それに野党も便乗してきた。マスコミは根負けして報道をあきらめてしまう。合理性と透明性に欠ける国会審議が合理性と透明性のない文通費の存在を支えている。

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