国会の攻防(7)

国会の攻防(7)
昭和30年代③ー政防法案、農業基本法案、石炭対策、職安法案、緊急失対法案

岸井和
2020.10.01

⑤政防法案1)正式名称は、政治的暴力行為防止法案と農業基本法案(1961年、第38回国会)

池田勇人内閣は岸内閣の強行姿勢の転換を図り「寛容と忍耐」を標榜し、「話し合いによる国会運営」を目指して各党間で国会正常化のための改革に取り組んだ。たが、それでも与野党は対立し、徹夜国会が繰り広げられた。経済成長路線にかじを切ったために、憲法改正や自衛隊、安保問題などのお互いに妥協の余地のない問題での表立って大きな対立はなくなってきたが、政治的対立を激化させないための仕組みができあがっていなかったために、対立は感情的になった。他方で、社会党は院外闘争に頼るより国会内で゛合法的な゛抵抗手段をとって、時間稼ぎと会期末廃案を作戦の手法とするようになっていく。それは、荒々しくはあったが、過度に暴力的な手段をとることは避け、警官隊が国会に入るような事態までにはならなくなった。

第38回国会、1961年においては、防衛二法案2)防衛庁設置法の一部を改正する法律案、自衛隊法の一部を改正する法律案と農業基本法案、政治的暴力行為防止法案(政防法案)が与野党対立の法案であった。この中で社会党が本気で反対する法案は政防法案であった。右翼による浅沼稲次郎社会党委員長の刺殺(60年)、中央公論社社長の自宅襲撃(61年)を受けて、殺人、強要、集団暴行、国会への不法侵入などの政治的テロ行為を禁止、処罰し、それとともに、団体として政治的テロ行為が行われる場合、団体の活動を制限、規制するものであった。社会党はテロ行為禁止には賛成だが、この法律が労働組合の活動規制に利用されることを懸念し、強い反対に回っていた。他方で、このときには民社党が誕生していた。これまでの単純な自社間の対立ではなく、三者間の多元的な関係も国会運営上の新しいファクターとなるなかで、政防法案は自民と民社議員が共同提出した議員立法であった。

衆議院段階では、防衛二法案は社会党が委員会審査を拒否したものの比較的穏やかな抵抗であり、また、農業基本法案は委員会では強行採決、本会議では社共欠席の中で可決されたが過激な抵抗はなかった。5月31日の時点では、「防衛二法案と農業基本法案をめぐる与、野党の攻防は…事実上の決着がつき、いずれも政府案が可決、成立することはほぼ決定的となった3)1961年6月1日 朝日新聞」との見通しで、社会党は政防法案に焦点を絞ったかにみえた。しかし、攻防の山場は会期末にあった。

これらの法案の処理は6月2日に一気に動いた。その午前中に防衛二法案が参議院本会議で可決・成立、午後には農業基本法が参議院委員会で可決された。衆議院における政防法案については審議を妨害する社会党のウラをかき三たび委員会の部屋を移動し、それでも混乱して議事録もとれない状況で深夜に修正議決された。翌日の衆議院本会議では、清瀬一郎議長は社会党に議長席を占拠されたため、自民党の席から議事を進めて政防法案を強行採決した。

最終盤になって社会党は政防法案の廃案に向けて参議院において全精力を傾けた。与党としては、協力している民社党を見殺しにはできない。対する社会党は、政防法案は議員立法であるがゆえに、大臣不信任決議案等で阻止することは困難であるから、同時並行に審議されていた政府提出の農業基本法案を利用した。6月5日から翌日の参議院本会議では、藤野繁雄農林水産委員長解任決議案が提出されたことに加え、議案への修正案や各種動議が連発され、それらの処理のたびに牛歩戦術が展開されたために徹夜国会となった。農業基本法は6日にようやく成立したが、関連する農地法改正案などの法案は審査未了となった。

衆議院もまだ事態は収まっていなかった。6月6日には参議院の農業基本法審議への援護射撃のために周東英雄農林大臣不信任決議案(否決)、会期最終日前日の7日には正副議長不信任決議案が提出され徹夜国会となった(翌8日に清瀬議長不信任決議案は否決、久保田鶴松副議長不信任決議案は可決)。さらには5常任委員長解任決議案(未了)、荒木萬壽夫文部大臣不信任決議案(未了)、池田内閣不信任決議案(未了)等を提出して、政防法案絶対阻止の姿勢を最後まで崩さなかった。この中で、社会党出身の久保田副議長不信任決議案が可決されたのは国会の攻防(5)のとおり与党の報復のためである。

6日には池田総理は「政府提出の法案がたとえ今国会で不成立となっても、政防法の成立を期したい4)1961年6月7日 朝日新聞」との意思を示し、参議院の法務委員会は質疑を続けた。しかし、社会党のみならず与党内においても反対意見があがっていた。参議院側は、第一院の行き過ぎをチェックし参議院の良識を示すべきとの考え、衆議院自民党が参議院に相談もせず方針を勝手に決めてしまったことへの反発などから、慎重な姿勢を取り始めていた。重宗雄三参議院自民党議員会長は辞意を示し、松野、平井太郎正副議長も強行策をとるならば進退を考慮せざるを得ないと自民党に伝えた。会期末に正副議長が与党を批判して辞めてしまっては万事休すである。この背景として「松野や重宗は佐藤(栄作)と近かったために、当時政治的暴力行為防止法案は岸派と佐藤派が参議院を使い、池田首相を追い込むために仕込んだ陰謀だと噂された5)竹中治堅 「参議院とは何か」中公叢書 2010」。この結果、政防法案は参議院で継続審査となるが、事実上の廃案であり、社会党が成果を上げることになった。

次の第39回国会では政防法案をめぐる混乱の収拾策が、その次の国会では国会正常化の協議が行われ、国会法の改正や与野党が国会運営に責任を持つようにと国会役員の配分についても話し合われた。しかし、意識はあっても現実の正常化へとは進まなかった。

 

⑥石炭対策(1962年、第42回国会)

1962年12月8日召集の第42回国会は「石炭国会」と呼ばれるが、16日間の短い会期のなか、与野党の裏交渉とその決裂、意地の張り合いと政策議論のない徹夜の本会議で浪費された時間が長く、審議のない国会であった。最初は12月10日の衆議院本会議で重政誠之農林大臣が産炭地の鉱害復旧費を「国と地方自治体が負担」というべきところを「全額国庫負担」と言い間違えたことから審議は13日から18日までストップした。この国会のメインテーマであった石炭が基幹エネルギーから保護産業に変化することに対応するための石炭対策関連4法案6)石炭鉱業合理化臨時措置法の一部を改正する法律案、石炭鉱山保安臨時措置法の一部を改正する法律案、産炭地域振興事業団法の一部を改正する法律案、炭鉱離職者臨時措置法の一部を改正する法律案の取り扱いについては、石炭の需要拡大への努力、炭鉱労働者の就労促進手当の上積みなどの妥協案で、17日の夜には自社両党は内々に合意した。

しかし、正式合意の席で社会党が公務員の勤勉手当について0.1か月分増額を唐突に要求したため、自民党は「信義にもとる」として社会党との妥協案を全て破棄した。18日午前1時半過ぎに石炭対策費を含む補正予算を自民党だけで委員会で採決し、午前2時に石炭関連法案を混乱の中で委員会採決、さらに、午前3時半過ぎからの衆議院本会議では、自民単独で22日までの3日間の会期延長を決めるとともに、補正予算、石炭関連法案を可決、参議院に送付した。

衆議院での紛糾を引きずった参議院では、予算委員会において社会党が審議引き延ばしを図った。炭労などの労組出身の社会党議員は簡単に与党に押し切られてはメンツが立たないし、あわよくば妥協案の復活もできないかと考えていた。しかし、自民党は妥協には応じず、12月21日に補正予算と石炭関連法案の質疑を打ち切り、委員会採決を強行した(予算委員会では補正予算案採決の直前に委員長不信任動議を否決している)。

同日の午後10時18分から重宗議長の職権で休憩中の参議院本会議が再開され、補正予算案が議題となったが、社会党は予算委員長解任決議案、正副議長不信任決議案、数多くの動議を提出するとの見通しで、残り1日の会期内に本案採決に至るのは困難な情勢であった。22日には、衆議院で社会党は清瀬議長を議長室に缶詰にし会期延長阻止をはかったが、原健三郎副議長が本会議を主催し2度目の会期延長が社会党欠席のなかで議決された(23日まで1日間の延長)。

参議院本会議では、木内四郎予算委員長解任決議案、重宗、重政庸徳正副議長の不信任決議案や動議が出され長引くなか、会期再延長決定後の22日午後11時頃からようやく補正予算審議が始まり、延会した翌日に補正の修正案の質疑などを経て、午後3時半近くに2泊3日をかけて可決、成立した。会期最終日のこの日はさらに午後11時過ぎまで本会議を開いていたが、石炭関連法案及び公務員給与法案は審査未了廃案となった7)次の第43回国会は翌日の12月24日に召集されていた。このような場合、閉会中が一日もないため議案の閉会中審査の申し出が不可能であり、議案を継続することもできない。

補正予算は成立したとはいえ、関連する石炭対策法案と公務員給与法案は成立せず、予算を執行できない状態となった。社会党は法案成立阻止には成功したものの、炭鉱離職者への手当は出ず、公務員給与も引き上げられず、果たして成果と言えるのか大きな疑問である。与野党のメンツや意地の結果、空疎な国会となってしまった。石炭対策については、次の会期に入ってから自社の幹事長書記長会談で合意が見られ、提出し直された法案が1963年3月27日に成立した。

⑦職業安定法及び緊急失業対策法改正案(1963年、第43回国会)

第42回国会の審議なき国会を正常化させるため、第43回国会の冒頭の1963年1月12日には3党幹事長、書記長会談で国会役員配分に関する申し合わせが確認されたが、その後の進展はないまま、再度の混乱が引き起こされることになる。

職安法及び緊急失対法改正案は、中高年齢失業者をできるだけ民間の安定した職場に就職させ、失業対策事業の改善を図る目的で提出された。これに対し、社会党は失対労務者を中小、零細企業に押し込み、常用雇用ではなくなり、賃金も低くなり、単に失対賃金の打ち切りを図ろうとするものだと批判するとともに、未組織労働者の社会党支持層への取り込みも視野に入れていた。法案は2月に委員会に付託されたものの審議は難航し、会期延長後の会期末である7月6日までの成立も次第に厳しくなっていった。6月18日には、衆議院において社会党議員に委員室の片隅に押し込まれた社会労働委員長が採決を強行し、法案は修正議決された。社会党は採決無効を訴え、ほかの委員会の審査も行わないように求めた。

この事態を受けて、清瀬衆議院議長が自社両党に事態収拾を呼び掛けている矢先に、6月20日には内閣委員会において祝日法改正案などの5法案、他の委員会においても相次いで強行或いは社会党が欠席の中で採決が行われ、与野党の溝はさらに深まった。21日に本会議は強行開会され、本会議場では清瀬議長不信任決議案が提出され、その後も、原副議長不信任決議案、秋田大助社会労働委員長解任決議案、大橋武夫労働大臣不信任決議案も次々と提出され、2日続けての徹夜国会となった。23日未明に至り、委員会採決は無効との立場から社会党の全議員が棄権する方針をとり、21日の本会議開会から約31時間を経て失対法案は修正議決された。社会党は衆議院審議を十分に引き延ばすことができ、残り2週間の時間からして参議院の所管委員会の委員長が社会党議員であることなどから、廃案への見通しが立ったと計算したのである。

しかしながら、時間的猶予がないなか、参議院において自民党は相当に強引な手段を選んだ。6月28日の夜から始まった本会議では、法案の中間報告を求める動議が提出された。本会議開会前に行われた議院運営委員会でも問題となったが8)1963年6月28日 参議院議院運営委員会会議録、この時点で委員会においては法案の提案理由を聴いただけで質疑は全く行われていなかった。社会党出身の鈴木強社会労働委員長は「全く審議を行っておりませんので、中間報告をせよと言うのは、全く無茶な話でありまして…9)1963年6月29日 参議院本会議録」と発言している。重宗参議院議長不信任決議案、数多くの動議で社会党は抵抗したが、徹夜国会の4日目の7月1日に、本会議休憩を含めて約67時間をかけて法案は可決成立した。

この参議院での失対法案の審議中、衆議院においては、祝日法案などの委員会強行採決の余波が残り、混乱は収まっていなかった。6月25日に清瀬衆議院議長は、委員会で質疑も行われずに採決された法案については委員会に差し戻すという議長裁定を行い、いったんは与野党間で合意されたものの翌日には破棄され、その日からの、会期末に立て込んだ法案審議の本会議では社会党は連日執拗な順法闘争に徹した。「失対法案をとるか、そのために他の多数法案を犠牲にするか、の二者択一に自民党を追い込む…スッポン作戦10)1963年6月30日 朝日新聞」であった。最大の対決法案は衆議院では既に議了しており、また、議長の要請があったことから、徹夜にはならなかったが、通常なら1件数分で終わる法案審議が数時間かかる非常にゆっくりしたペースで進み、日曜日も含めて長時間の本会議が7月1日まで続いた。ほぼ本国会での審議が終わりかけた段階で、清瀬議長の呼びかけにより、「少数意見を尊重し、議事の妨害を慎む」ことを申し合わせて7月4日に正常化した。

参議院においても5日には、重宗議長のあっせんにより与野党間で正常化に関する申し合わせが成立した。議長は「先般来議事が混乱いたしましたことは、まことに遺憾でありますが、この事態が今回のような中間報告に端を発したものであることにかんがみまして、今後、各会派の御協力を得て、このような議事の進め方を避けるよう最善を尽くす所存であります」との所信を明らかにした11)1963年7月6日 参議院議院運営委員会会議録しかしながら、翌6日の会期最終日に至り、議案の処理について与野党が対立し、衆参両院において継続審査の手続きができず、閣法26案が廃案となった。

 

⑧昭和30年代の与野党の攻防とは?

昭和30年代の10年間、自社間の意思の疎通が悪く、お互いの不信感が増幅され、関係修復をしたとしてもそれは束の間でしかなく、すぐに対立が繰り返された。社会党の戦術は、国会内では対決法案の審議を遅延させ、会期切れ廃案に追い込むことであった。具体的には、執拗な質疑、審議拒否、会期延長反対、不信任決議案等の提出、休憩動議などの連発、議長席占拠などの物理的抵抗、牛歩が社会党が用いた手段であった。その行動がエスカレートすれば、暴力的になり議場は過度に混乱した。院外の大衆活動も組織し、それも暴力化させ、与党に大きな圧力をかけようとした。これに対し、与党は、委員長や議長の職権による開会、質疑打ち切り、抜き打ち的採決、会期延長による土俵の拡張、中間報告(場合によっては委員会審査なしで)などで対抗した。物理的抵抗に対しては議院の衛視だけではなく警察官という物理的防御策を行使した。

与野党間で国会正常化の合意がなされたとしても、それは一時的なもので簡単に覆された。仲介役たる議長は与党に圧されて議長職権で本会議を開くこともしばしばあり、真の調停者にはなりえなかった。与野党ともに議長の権威を高めると繰り返し言いつつも、お互いに議長を有利に利用しようとし、与野党の不信が解けないなかで議長の調停は受け入れられないことも多く、結局議長は批判される立場におかれた。他方で、議長が反主流派に近い場合には、政権の意に反して法案の生殺与奪権を持つこともあり、その場合は野党に有利に働いた。

こうした環境のなか、多数を握る与党が議会においては有利であるにもかかわらず、社会党は小選挙区法案、警職法改正案、政防法案、石炭関連法案などを廃案に追い込み、重要法案について戦果をあげることができた。政権奪回を目指す政党の意気込みの結果であったかもしれない。

とはいえ、与野党が妥協なき戦をしている時代であり、繰り返された暴力的行為への非難は強く、抵抗するにしても度が過ぎるとの声も少なくなかった。やがて意を通じた抵抗へと変化していく。この10年間の終わるあたりから、国会対策委員長が表に出てくることが次第に増えはじめる。意思疎通の全く欠けた危険な国会運営から、裏での取引を行い、抵抗しつつもそれが過度にならないような国会運営を行う知恵が生まれる。さすがに警官のいる中での国会審議は与党も野党もマズイと感じていたであろう。

それだけではない。社会党は昭和30年代末ころから長期低落傾向と呼ばれる下降線をたどることになる。政権を獲得できなさそうな政党としては、怪我をするような本気で絶対反対の国会戦術ではなく、自らの存在は維持しつつ、与党と意を通じ自らの言い分を幾何でも受け入れてもらうようなマイルドな抵抗戦術に転換していくことは不思議なことではない。基本的な国会戦術は継承しながらも、それによって得る中身を変えていくことになる。

脚注

脚注
本文へ1 正式名称は、政治的暴力行為防止法案
本文へ2 防衛庁設置法の一部を改正する法律案、自衛隊法の一部を改正する法律案
本文へ3 1961年6月1日 朝日新聞
本文へ4 1961年6月7日 朝日新聞
本文へ5 竹中治堅 「参議院とは何か」中公叢書 2010
本文へ6 石炭鉱業合理化臨時措置法の一部を改正する法律案、石炭鉱山保安臨時措置法の一部を改正する法律案、産炭地域振興事業団法の一部を改正する法律案、炭鉱離職者臨時措置法の一部を改正する法律案
本文へ7 次の第43回国会は翌日の12月24日に召集されていた。このような場合、閉会中が一日もないため議案の閉会中審査の申し出が不可能であり、議案を継続することもできない。
本文へ8 1963年6月28日 参議院議院運営委員会会議録
本文へ9 1963年6月29日 参議院本会議録
本文へ10 1963年6月30日 朝日新聞
本文へ11 1963年7月6日 参議院議院運営委員会会議録

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