衆議院の解散は何時何分(いつ)?―解散の効力発生時点
岸井和
2023.10.13
大島理森議長 |
上記は2021年10月14日の衆議院解散の際の衆議院の会議録である。
衆議院の「解散」とは、「(衆議院)議員の全部に対して、任期の満了以前において、(衆議院)議員たる資格を失わせる行為である」1)宮沢俊義著芦部信喜補訂「全訂日本国憲法」第二版 日本評論社2005.5.20 115頁。議論の余地はあるが、解散は憲法7条3号を根拠に内閣の助言と承認に基づき天皇の国事行為によって行われるとされる(詔書の文面参照)。解散により衆議院議員の個々の身分は失われるが、組織体としての衆議院は存続している。構成員が不存在の組織であり、活動機能は失われる。衆議院が解散されると、参議院は同時に閉会となる(憲法54条2項)2)衆議院が解散されると、内閣総理大臣から参議院議長に対し詔書の写しを添えてその旨が通知される。。
解散の手続きと詔書
解散と同様に天皇の国事行為である国会の召集については詔書の形式をもって行い、それを公布することが定められている(国会法1条)。他方で、解散の方式、手続きについては法律上の規定がない。
明治憲法下では、解散は詔書をもって行われて(天皇の大権に基づく解散についての詔書の降下が内閣総理大臣より伝達される)おり、現行憲法下でも明治憲法時代以来の慣行にしたがったものである3)前掲宮沢著 118頁。
明治憲法下の詔書については公式令4)明治40年2月1日公布、勅令。昭和22年5月3日政令により廃止。に定められていた。天皇の行為のうち「皇室ノ大事ヲ宣誥(せんこう)シ及大権ノ施行ニ関スル勅旨ヲ宣誥スルハ別段ノ形式ニ依ルモノヲ除クノ外詔書ヲ以(もつ)テス」と定められ、皇室内あるいは憲法上の天皇の命令(詔(みことのり))を伝える最高形式の文書のことであった。天皇の親署、玉璽を鈐(けん)し、総理以下の大臣が副署することとされていた。また、官報をもって公布されることも定められていた。しかし、戦後になると詔書についての規定はなくなり、解散は詔書の形式をもって行うとの規定も存在しなくなったが、前述の通り帝国議会時代以来の先例が解散手続きの形式となっている。
解散の効力発生時期
したがって、解散の手続きは法的根拠としては曖昧ともいえる詔書をめぐって進められていくこととなる。
①まず、閣議によって解散が決められると、天皇が解散詔書に親署のうえ、玉璽が押され、内閣総理大臣が副署する(詔書の作成)。
②続いて、詔書(写し5)衆議院に伝達される解散詔書は原本ではない。詔書の写しである。原本は公文書として内閣官房で保管され、最終的に国立公文書館で保存・管理・公開される。衆議院では伝達された詔書の写しを保存している。)が(原則として)会議中の衆議院に伝達され議長が詔書を朗読する。
③詔書が官報で公布される。
この儀式的な詔書の伝達も朗読も手続きとして定められているわけではなく慣習である。同じ詔書でも召集詔書については伝達という儀式はなく、公布されるのみである。召集詔書の場合は時間的に余裕がある6)国会法第1条第2項「常会の召集詔書は、少なくとも10日前にこれを公布しなければならない」。なお、特別会、臨時会の召集詔書に法規の定めはないが、過去の例では遅くとも3日前には公布されている。が、解散詔書の場合は解散の効力の発生時点が重要であるから、伝達と解散時点の明確性が担保されなければならないからである。
なお、解散は国会の開会閉会を問わずに行えるとされているが、これまでの解散は開会中に限られている。
解散の効力発生時点
詔書作成
このとき、解散の効力が発生するのは上記①~③のいずれの時点であろうか。天皇が解散詔書を作成した時点とすると明かな問題が生じる。まず、公の目に見える場で親署、玉璽を押すわけではないので、判然とした時間が分からず国会の活動は続けられてしまう。また、天皇の行為が完結した時点だとすると(総理の副署作業を含めたとしても)、冒頭記載の会議録の時点では解散の効力がすでに発生していることとなり、会議の開会自体が無効なものとなる。
たとえば、2014年11月21日の解散では、参議院先議の3法案が衆議院で可決(成立)された直後に解散となっているが、この法案の成立自体も無効となってしまう(同様な例は帝国議会時代からあった)。したがって、詔書の作成行為が完結した時点とすると、これまでの先例とは大きな矛盾が生じることとなり、政治的に大きな混乱が生じてしまうので、これをもって解散効力発生の時期とは言えまい。
官報公布
官報での公布の時点とするのは、解散詔書の公布は法規上規定されていないものの、一般的に公布が法律の施行日などの起算の基準となるなどのことを考えれば意味があるかもしれない。しかし、解散の効力の発生の影響を直に受ける議員が「詔書伝達・朗読」と「公布」との短時間の差で何らかのアクションを起こす可能性もありうるわけで、効力発生時期は現場を優先させるほかあるまい。
あるいは解散伝達時に参議院が審議中の場合、微妙な時間の間に法律を成立させてしまう可能性もある(現実には衆議院解散は事前にわかっているので参議院が議事を行っていることはない。ちなみに、衆議院が解散するときには参議院では既に閉会中審査の手続きをとっていることが多い7)平成25年版参議院先例録138衆議院の解散による閉会中においては、議案の継続審査は行わない
(注)第35回国会閉会後昭和35年10月15日の議院運営委員会理事会において、衆議院解散の場合における各委員会の継続審査及び継続調査につき、国会の議決を要する案件の継続審査は要求できないが、調査事件の継続調査は要求できる旨の決定があった。。衆議院議員は「誰も知らないはず」の解散を、参議院はあたかも知っているかのように事前に日程をたてている)。ただ、昔ならいざ知らず、現在では内閣府職員が官報掲示板の前で現場の状況を把握して直ちに掲示しているので時間差は何秒もないから事実上の問題は生じない。
詔書の伝達と議長の了知
微妙な差異ではあるが、難しいのは②の「詔書が会議中の衆議院に伝達され議長が詔書を朗読する」ケースである。効力発生は解散詔書が議長に伝達された(手に渡った)ときなのか?仮に議長以外の議員が先に解散詔書を知ってしまったら?議長が詔書を朗読したときなのか?議長が「憲法違反の解散権行使だ」として詔書の受け取りを拒否したら?
まず、伝達の相手である。これは衆議院の代表者である議長に詔書が伝達された時点と考えざるを得ない。衆議院議員であれば誰でもよいというわけではない。実際、衆議院議員たる内閣総理大臣は、少なくとも解散詔書に副署した時点では、天皇の作成行為が完了し、詔書ができあがったことを知っているわけで、これをもって効力発生時期とすることは前述のとおり難点がある。当然、たまたま某議員が解散詔書を持っている官房長官と出くわしてしまったとしても解散の効力は発生しない(そもそも官房長官も衆議院議員であるケースがほとんどであるが)。
解散が行われることは事前にわかってはいるが、衆議院内ではそのことは「知らない」ことを擬制して行動している。解散当日の議事内容を協議する議院運営委員会でもあたかも解散などないかのように当日に予定している議事のことを協議している(非公開の理事会、非公式の理事懇談会では話題となることもある)。知っていて知らないことにしている。知っていると公的に認めれば本会議の開会に疑義が生じるからである。
ただ、実際は、事務的には衆議院側と内閣府側が綿密に協議している。解散の閣議決定から詔書の移動状況も伝えられている。したがって、詔書が国会内に到着して以降、詔書を運ぶ官房長官と衆議院議長はそれぞれの導線はかち合わせしないように注意が払われている。議長は解散について知らないことになっている。議長と官房長官は本会議場で初めて顔を合わせる。紫の袱紗に包まれた解散詔書を持って官房長官が本会議場に入ってきたとき、議長は何のことやら分からないこととなっている。
さらに、解散の効力の発生時期が詔書の伝達時なのか、詔書の朗読時なのかという微妙な差異の問題がある。解散詔書が議長のもとに到達して議長が解散を了知しうる状態になったときに効力が発生すると衆議院は解釈しているようだ。しかし、ほとんど無視してもよいような時間差ではあるが、もっと細かく考えれば、詔書の伝達と議長の了知が同一なのかということには疑問が残る。単なる到達主義で片付けられるのか。「議長は、内容を了知したからこそ、すなわち解散詔書であることを認識したからこそ朗読するのである」8)鮫島真男「時に午後6時2分ー衆議院解散のあり方と、解散の効力発生の時期についてー」時の法令164号 1955年と伝達時が了知の時であるとの考えがある。他方で、議長は詔書を朗読しながら内容を了知するに至ったとの考えも成り立ちうる。朗読は効力発生の要件なのか。あるいは朗読が議長の了知行為の一環なのか、単に議員に周知する行為なのかによっても考えは微妙に異なってくる。
それまで、解散の事実を知らないはずであった議長が官房長官から書類を受け取った途端に「解散だ」と了知することには素直には頷きがたい。内閣総理大臣から議長あての「伝達書」には「別紙詔書が発せられましたから、お伝えいたします」とだけあって、解散の文字は詔書本体にしか書かれていない。勘づいてはいたが詔書を見る(読む)までは確信できないとはいえる。他方で、本会議場に届けられる詔書は解散以外にはありえないだろうとも言える。
会議録にも疑問点がある。冒頭に記したように、会議録には朗読された詔書の内容も記されている。仮に朗読前の伝達時に解散の効力が発生するのであれば、詔書朗読の部分は解散後のことであり、議事録に残されるのは矛盾がある。ちなみに、衆議院会議録の最後には通常「●時●分散会」と記載されるが、解散の場合のみ議長が詔書を読み終えた時刻で「(時に)●時●分9)1972年の解散までの衆議院会議録の最後は「時に●時●分」との表記であったが、1979年の解散からは「時に」がなくなり単に時間だけとなっている。なお、1976年は任期満了後の総選挙であったため、解散と解散の間が7年間空いている。」とのみ記載され、会議録を見てもそれが解散の時間なのかは定かではない。
公知性
本会議場での朗読によってすべての衆議院議員に知れ渡ったときに効力が発生すると解するのは無理があろう。当日の本会議に出席していない議員もいる。現行憲法下で、本会議が開かれないまま解散となったケースが3回10)議長応接室で解散した3例は以下の通り。
1952.8.28 吉田内閣抜き打ち解散
1980.5.19 大平内閣ハプニング解散
1986.6.2 中曽根内閣死んだふり解散ある。その最後の例、1986年6月2日の解散は、院内の議長応接室に解散詔書が伝達され、議長が朗読したが、社会、公明、民社などの野党は解散に反対してその場にはいなかった。与党だけの儀式となり多くの議員には直接には伝わらなかったが(ただし、マスコミはその場にいる)、それでも解散は有効である。野党には解散詔書のコピー(つまり、写しの写し)が配られたが儀礼的なものである。
いずれにせよ、解散詔書は公の面前で伝達される慣例になっている。この公知性は詔書伝達方式の大きな特徴である。明治時代は、議会停会中、本会議前、本会議散会後などに突然に解散されたことがあり11)第2回(1891.12.25)、第5回(1893.12.30)、第12回(1898.6.10)、第19回(1903.12.11)帝国議会。これ以外は公然と解散が行われている。、この場合、当然議長は了知していたものの一般議員には書面や公報号外で通知を行った。ただ、これらは帝国議会初期の事例であり、大正期以降は本会議中ではない場合でも議長室(ないしは議長応接室)において公然と解散詔書が伝達された。現在でも、議長への伝達、議長の了知を必要十分な要件だとするならば、官房長官が議長室に議長を訪れて二人だけの席で伝達することも可能であろう。しかし、それは実際には取りえない方法である。本会議場での伝達(議長応接室での伝達だとしても公知性のある場での伝達)は憲法慣行として確立されたものであろう。衆議院の構成員であるすべての衆議院議員が少なくとも解散を知りうる状態になること、つまり衆議院の権能行使が停止されたことを一般的に知りうる状態になることは重要である。こうして考えると、伝達、了知、朗読、周知は、時間にしても1分程度の解散に伴う一連の儀式的行為としてとらえ、その儀式的行為が完結した時点で解散の効力が発生するというのが妥当な考え方なのではなかろうか。
他方で、現実にはあり得ないことであろうが、議長が詔書の受け取りを拒否するような場合はどうするのか。議長が雲隠れしてしまって詔書を受け取らず(議長の法定代理者である副議長も同様の行動をとり)、「解散なんて知らない」と強弁したしたとしたら。
その場合については、到達主義着をとるしかないであろう。議長に解散を拒否する権限はなく、他方で詔書を議長に伝達することもできないのであるから、詔書が衆議院に到達した時点で解散とするより方法があるまい。そのうえで、議長に代わる然るべき者が解散の事実を知らせることになろう。
脚注
本文へ1 | 宮沢俊義著芦部信喜補訂「全訂日本国憲法」第二版 日本評論社2005.5.20 115頁 |
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本文へ2 | 衆議院が解散されると、内閣総理大臣から参議院議長に対し詔書の写しを添えてその旨が通知される。 |
本文へ3 | 前掲宮沢著 118頁 |
本文へ4 | 明治40年2月1日公布、勅令。昭和22年5月3日政令により廃止。 |
本文へ5 | 衆議院に伝達される解散詔書は原本ではない。詔書の写しである。原本は公文書として内閣官房で保管され、最終的に国立公文書館で保存・管理・公開される。衆議院では伝達された詔書の写しを保存している。 |
本文へ6 | 国会法第1条第2項「常会の召集詔書は、少なくとも10日前にこれを公布しなければならない」。なお、特別会、臨時会の召集詔書に法規の定めはないが、過去の例では遅くとも3日前には公布されている。 |
本文へ7 | 平成25年版参議院先例録138衆議院の解散による閉会中においては、議案の継続審査は行わない (注)第35回国会閉会後昭和35年10月15日の議院運営委員会理事会において、衆議院解散の場合における各委員会の継続審査及び継続調査につき、国会の議決を要する案件の継続審査は要求できないが、調査事件の継続調査は要求できる旨の決定があった。 |
本文へ8 | 鮫島真男「時に午後6時2分ー衆議院解散のあり方と、解散の効力発生の時期についてー」時の法令164号 1955年 |
本文へ9 | 1972年の解散までの衆議院会議録の最後は「時に●時●分」との表記であったが、1979年の解散からは「時に」がなくなり単に時間だけとなっている。なお、1976年は任期満了後の総選挙であったため、解散と解散の間が7年間空いている。 |
本文へ10 | 議長応接室で解散した3例は以下の通り。 1952.8.28 吉田内閣抜き打ち解散 1980.5.19 大平内閣ハプニング解散 1986.6.2 中曽根内閣死んだふり解散 |
本文へ11 | 第2回(1891.12.25)、第5回(1893.12.30)、第12回(1898.6.10)、第19回(1903.12.11)帝国議会。これ以外は公然と解散が行われている。 |
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