国会の攻防(17)

国会の攻防(17)
平成6年から平成17年 ― 政治改革、戦後50年決議、住専処理、預金保険法案、
駐留軍用地特別措置法改正案、周辺事態確保法案、組織犯罪対策三法、住民基本台帳法案、加藤の乱、参議院の定数是正法案、テロ特措法案、イラク特措法案、健康保険法改正案、国民年金法改正案、郵政民営化六法案

 

岸井和
2021.01.08

 

 

(7)1994年~2005年(平成6年~17年)

1994年から2005年までの間に、細川護熙、羽田孜、村山富市、橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗、小泉純一郎と7人の総理が入れ替わった。この間、非自民政権(細川、羽田)、自民・社会・さきがけ政権(村山、橋本)、自民単独政権(橋本、小渕)、自民・自由政権(小渕)、自民・自由・公明政権(小渕)、自民・公明・保守政権(小渕、森、小泉)、自民・公明政権(小泉)と衆参の多数を確保するために連立構成が入れ替わっていく。

政党の結成、分裂が繰り返され政党構成は流動化するとともに政権与党の連携構成が変わったことになる。小渕内閣の途中からは衆参両院で多数を回復した自公を中心とする安定した政権が形成された。他方で、政権獲得の望みを失った野党勢力は離合集散を繰り返していたが、やはり小渕内閣の時に民主党を中心とした安定的な野党構成となる。ここに至るまでのほぼ6年間、不信任決議案等を巡っての本格的な与野党の攻防は影をひそめる。政権争奪ないしは政権安定のための多数派工作が各党の主たる関心事であったことや、また、政権与党は与野党対決法案を提出するだけの安定した基盤を持たなかったし、野党も政権獲得を目指す政党としては単なる抵抗戦術をとりづらかったからである。

 

政党の離合集散と多数派工作

この時期の特徴を国会内の事象を中心にみてみると、第一に、宮澤内閣不信任決議案の可決を受けての1993年7月18日の総選挙により衆議院の会派構成が劇的に変化したことにある。与党自民党と社会党を中核とする公明党、共産党、民社党という野党からなる国会ではなくなった。すでに揺らぎ始めていたとはいえ、ここに55年体制は完全に崩壊した。自民党も社会党も存在はしたが、自民党は最大政党ではあったものの衆議院の過半数を割り込み、社会党は大幅に議席を減らした。公明党、民社党、共産党は議席を維持し、自社が失った議席は自民党を離脱した議員からなる新生党を始めとして日本新党、さきがけと新たに登場した政党に流れた。新党ブームと呼ばれるほど政党の数が多くなり、どの政党もマジョリティーを有していない状況となった。したがって、国会内での法案成立を目指す政策的な連携工作よりもまず多数派工作、政権を獲得するための政党間の合従連衡が重要な政治戦略となる。

その結果、自民党、共産党以外の政党が連立を組むことで非自民政権が誕生し、自民党は結党以来初めて政権を失う。しかし、細川内閣は前政権時代からの懸案であった政治改革法案を成立させると、突然の国民福祉税構想、総理の東京佐川急便問題により非自民政権の求心力は大きく低下した。細川辞任を受けて成立した羽田内閣は、社会党の政権離脱により少数政権であり、最初からレームダック化しており、近いうちの総辞職か解散かは明らかであった。

与党内の乱れに乗じて、政権奪回の思いから自民党は長年対立してきた社会党とともに1994年6月に自民・社会・さきがけによる村山連立政権をつくる。村山内閣の発足により下野した社さ以外の非自民・非共産勢力は結集して、新進党を結成する。新進党は自民党を飛び出していった議員たちが中核をなしていたため、自民党の新進党への敵愾心、政権を失うまいとの執念は強かった。村山政権時代の1995年秋には、表向きには宗教団体と政治との関係の適正化をうたい、実態的には新進党対策と選挙対策を狙った宗教法人法改正案を提出する。特に参議院においては法案を成立させること以上に創価学会名誉会長の参考人招致に固執し、旧公明党を含む新進党に激しく揺さぶりをかけると、平成会(新進党や公明党からなる院内会派)は委員長らを議員会館の部屋に閉じ込め委員会の開会を阻止するなどしてなりふり構わず抗戦した1)1995.11.29 読売新聞

1996年の年明けに村山総理が突然辞意を表明し、後任の自民党の橋本総理のもとで10月に、新しい小選挙区・比例代表並立制による初めての衆議院総選挙が行われる。選挙後には自社さ政権の枠組みは維持されるが、党勢が衰えた社民党(1月に社会党が社会民主党に党名変更)とさきがけは閣外協力に転じる。社会党の一部とさきがけなどの議員は選挙前に民主党を結成する。野党第一党の新進党は初めての総選挙で議席を減らし政権から遠のいたことで求心力を失い、翌年12月には党を解散・分裂し、代わって民主党(前出の元社さ議員による民主党に他の野党(民政党、新党友愛、民主改革連合)が合流したもの)が野党第一党となる。

1998年7月の参議院選挙での自民党の敗北を契機に橋本が退陣し、小渕総理へと交代した。小渕内閣は社民党とさきがけの連立離脱もあり、発足時から参議院では過半数を失っていた。その参議院においては、民主党の菅直人が総理に指名され(7月)、あるいは防衛庁の不正調達を理由に額賀福志郎防衛庁長官問責決議案が可決され(10月)辞任するに至った。さらには、金融危機に対応するためには閣法の成立をあきらめ、野党提出の金融関連法案を丸呑みすることで、危機を回避するしかなかった2)衆議院金融安定化に関する特別委員会で一括審議していた閣法と与党案、野党案(①不動産に関連する権利等の調整に関する臨時措置法案(閣法)、②金融機能の安定化のための緊急措置に関する法律及び預金保険法の一部を改正する法律案(閣法)、③債権管理回収業に関する特別措置法案(与党衆法)、④金融機関等が有する根抵当権により担保される債権の譲渡の円滑化のための臨時措置に関する法律案(与党衆法)、⑤競売手続の円滑化等を図るための関係法律の整備に関する法律案(与党衆法)、⑥特定競売手続における現況調査及び評価等の特例に関する臨時措置法案(与党衆法)、⑦金融機能の再生のための緊急措置に関する法律案(野党衆法)、⑧金融再生委員会設置法案(野党衆法)、⑨預金保険法の一部を改正する法律案(野党衆法)、⑩金融再生委員会設置法の施行に伴う関係法律の整備に関する法律案(野党衆法)、⑪信用保証協会法等の一部を改正する法律案(野党衆法)、⑫金融機能の正常化に関する特別措置法案(野党衆法) )について、閣法(①②)の採決を諦め、与党案(③~⑥)及び一部野党案(⑦⑧)を丸呑みして成立させたもの。

衆参の会派構成がねじれている状況で両院の法案の議決が異なる場合、それを調整する機能は働かない。衆議院での3分の2の再議決の規定を使うだけの与党議席はなかったし、両院協議会は制度的に結論の出ない仕組みとなっている3)実質的には衆議院からは議案に賛成した会派から、参議院からは反対した会派から両院協議会の委員が選ばれるため、その両者の話し合いで成案が得られることは極めて稀である。(平成29年版衆議院先例集481説明文「本院議決案に賛成した会派に属する議員の中から指名するのが例である。」 平成25年版参議院先例録415説明文「議長は両院協議会に付される案件の院議を構成した会派にその所属議員数に応じ協議委員を割り当て、会派から推薦された議員を指名する。」) 。選挙で参議院での過半数を獲得するにはまだ時間がかかる。それでも、政権の安定のためには両院での多数の確保は急務であった。

そこで、小渕総理はまず1999年1月に自由党と連立を組んだ。自由党との連立をクッションとして再結成されていた公明党とも10月には連立合意が成立し、自自公政権ができあがる。これにより、二度目の衆参ねじれは解消し、両院での過半数を確保し、安定した政権運営に道筋をつけた(最初のねじれは海部内閣の時で、三度目のねじれは第一次安倍内閣の時となる。)。2000年4月には自由党が連立を離脱するが、自由党から分離した連立維持派の保守党と自公保政権として衆参の過半数は維持する。ようやく安定した政権が作り上げられた。細川内閣から小渕内閣の6年間に、政権の枠組み(衆議院での多数)をいかに作り上げ、あるいは衆参ねじれをいかに克服するかに各党は腐心し、そのために合従連衡、連立工作が繰り返されたことになる。この後に続いた森内閣、小泉内閣は与党全体としての安定性はあったが、自民党内における対立、造反が生じることになる。

 

国対政治の変質

第二に、55年体制の象徴的存在であった国対政治は、非自民政権誕生とともに強い批判の対象となった。細川政権のときには、旧制度、密室政治、馴れ合い政治といった悪印象のつきまとう国対政治の排除が叫ばれた。政党によっては国対ということばを嫌い、その名称を避けた。他方で、政党間で行ってきた全体的調整を各委員会に任せることには限界があった。個別の委員会の議論に委ねても、各委員会は独立しており相互の調整には限界がある。さらには、衆参は独立した機関であり両者の調整もままならない。統括的調整機能がないことは機関としての国会の制度的欠点であろう。対立と馴れ合いを演じる国対を止めたとしても、それに代わる何らかの組織は必要となる。

連立政権発足当初は与党は国対委員長会談を行うことに消極的であった。しかし、その翌年の1994年3月の国会答弁で細川総理は、国対政治を排除するとしながらも与党が国対委員長会談開催を求めたことを問われ、「…連立与党としてはこれまで、あたかも密室の取引のように受け取られがちないわゆる国対政治はいかがなものであろうかという観点から、委員会、理事会等の現場を重視した国会運営を志向してきたところでございます。しかし、政党政治を前提とする議会制度のもとでは、その円滑な運営のためには政党間の協議は必要なことであり、その観点から政党間協議をお願いをした次第でございます。…4)1994.3.24 衆議院本会議録」と国対の廃止は困難であることを認めた。

国対はその後も残ることになるが、この時期に変質したことも事実であろう。与野党が三業地で仲良くどんちゃん騒ぎをし、その翌日の理事会では顔を真っ赤にして怒鳴りあうという姿は消え、さらには「カネのやりとりはなくなったといわれる5)橋本五郎ほか「日本政治の小百科」 一芸社 2002」。密室の部分は残るとしても、より実務的に、お互いに相手の言い分を聞きつつ、あるときは妥協しあるときは強行することを通告する。与野党の調整を行う機関へと変質していく。

 

野党の抵抗戦術の転換

第三に、国会の抵抗戦術としての「徹夜」と「牛歩」も古いものとして避けられる方向へと変わっていった。

衆議院において本格的な徹夜となったのは、2000年11月21日の森内閣不信任決議案を巡るいわゆる「加藤の乱」であり、与野党対決というよりは自民党内の混乱と本会議場内でのハプニングが原因であった。他に2回の深更の本会議6)2008年2月7日及び2004年1月31日の衆議院本会議もあるが、いずれも長時間にわたるものではなく、「午前様」程度であり、徹夜というほどのものではない。

参議院においては、1999年8月12日の組織犯罪対策三法案、国民年金法改正案の審議の時に徹夜となっている。これ以外に「午前様」となったのは4回7)2003年3月21日、2003年7月25日、26日、2004年6月5日の参議院本会議ある。

牛歩も避けられる方向に向かった。衆議院において野党が対抗手段として牛歩戦術をとったのは、2004年6月4日の厚生労働委員長解任決議案の記名採決の時に1回あるのみである。参議院における国民年金法改正案審議を遅延させるためのものであった。しかも、これは民主党執行部が指示したものではなく、一部議員が突発的に行ったものとされた8)民主党の藤井裕久幹事長は「牛歩ということを幹部が口にしたことは一度もない」と語っている。2004.6.5 朝日新聞。河野洋平議長は議長の議事整理権に基づき投票時間を制限したうえで、最終的には民主党の一部議員が投票をしないうちに打ち切った。徹夜ではなく、定刻の午後1時過ぎから2時間40分ほどで本会議は休憩した(夜10時30分過ぎに本会議を再開して延会の手続きを取ったが、翌日本会議は開かれなかった)。翌年の6月17日にも記名投票に時間を要した事例があるが、この時は会期延長手続きのために夜9時前に再開された本会議で、与党に酒気帯びの議員がいるとの抗議があがり議場が若干混乱したためで牛歩は行っていない。衆議院での牛歩は2004年が最後となる。

他方で、参議院ではしばしば牛歩が行われた。組織犯罪対策三法案9)組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律案、犯罪捜査のための通信傍受に関する法律案、刑事訴訟法の一部を改正する法律案、国民年金法改正案のときには野党は多数の不信任決議案等を提出し、長時間演説と牛歩戦術をとった。また、この時期以降、近年においても一部野党が牛歩を行っている。参議院での対決審議はどうしても会期末近くの攻防となり、野党としては力が入らざるを得なくなる。参議院は1998年に本会議場での押しボタン式投票を導入したが、参議院規則により出席者の5分の1以上の求めがあれば記名投票となる。与党は牛歩戦術排除のためにかねてより衆議院で押しボタン式投票導入を主張していた10)参議院ホームページhttps://www.sangiin.go.jp/japanese/aramashi/keyword/osibotan.htmlが、それを採用した参議院でのみで牛歩が残るのは皮肉な話である。

 

総理大臣(自民党総裁)の権限強化

また、第四に、総理、与党党首、自民党総裁の権限が次第に強くなったのも、この時代の小渕内閣に端を発すると考えられる。政治改革の結果、衆議院では1選挙区で1人しか公認できなくなったことによる公認候補の選定の権限集中、政党交付金導入による党への資金集中が進み、総裁、執行部の党への支配力が強化され、派閥の力は相対的に低下する。特に、選挙がいつあるか分からない衆議院にその傾向は強い。小渕内閣の時には大臣任命に総理枠を設定し、派閥の要請とは関係なく総理の判断で入閣者を決める。総理の党内権限強化の始まりでもあった。派閥単位での反乱や造反は、小渕内閣後の森内閣不信任決議案の時に起きた「加藤の乱」が最後で、それも結局は未遂に終わった。これも選挙の公認権、つまり総裁の権限を使って反乱軍を切り崩したと言われる。

小泉内閣の郵政民営化法案否決後の総選挙で反対派を公認せず、刺客を立てたことは総理の権限が格段に強くなったことを明確にした。かつての大平内閣不信任案のときの造反者が自民党籍を失わなかったことと比べると隔世の感がある。公認を受け選挙で勝利できることを前提に、各議員は執行部に抵抗せず、派閥も主流に与し反旗は翻さない。党務において幹事長職もかつてのように党内のバランスを取って他派閥から選ぶのではなく、総裁派閥、ないしは総理の腹心から登用されることが多くなる。小泉総理は「偉大なるイエスマン」武部勤幹事長を使って郵政民営化反対派に対抗した。閣内おいても内閣機能の強化に伴い権限を増した官房長官に、やはり総裁派閥の出身者や総理の腹心の起用が多くなっていく。これは、第二次安倍政権以降の一強政治にもつながるものであろう。したがって、与党内の造反という現象は郵政民営化問題を最後に著しく減少していく。

他方で、参議院は与党自民党であっても政権から一定の独立性、距離感を保っている。かつての松野、重宗議長は参議院における支配力を誇示した(国会の攻防(7)(8)(9)参照)。近年では、議長ではなく、自民党参議院幹事長などの職にある村上正邦、青木幹雄らが参議院の権益を代表する実力者として存在した。選挙が衆議院ほど頻繁にない(公認権による強制力は薄れる)こと、衆議院に対するコンプレックスを抱える中、まとまって対抗する必要がある(たとえば参議院の与野党をまとめるための法案修正などを要求する)こと、参議院の利益を主張する(例えば大臣の参議院枠の要求)ことなどから権力を持つ代表者を必要とし、それによって独立性や距離感を維持している。

 

政策テーマの変化

自民党が政権に復帰し、安定した多数を回復すると安保・防衛関係の立法が数多く成立するようになる。国際情勢の変化に対応した立法であるとともに、国会内の力学においては「自衛隊違憲」の野党第一党が勢力を失ったことは大きい。これまではほとんど触れることのできなかった分野で野党が必ずしも賛成はしなくても、少なくともPKO法案の時のような大きな労力をかけずに法案を成立させることができるようになった。主なものでも、周辺事態安全確保法(1999年)、船舶検査法(2000年)、テロ特措法(2001年)、事態対処法(2003年)、イラク特措法(2003年)など、国際貢献、自衛隊の任務拡大に関する法案が成立している。

また、かつては議論することも許されなかった憲法改正について協議する憲法調査会が各院に設置され(2000年)、国旗・国歌法も制定された(1999年)。これらは社会党が野党第一党の時代には考えられなかった変化である。これらに代わって、通信傍受法案、住民基本台帳法案などの国民のプライバシーに関わるような法案、国民年金関係法案、行政の透明性、公平性、政治家の関与などが与野党の攻防の焦点となってくる。

 

国会審議の改革

さらには、小渕内閣の時、国会審議を活性化させ、行政機関における政治主導の政策決定システムを確立させるために国会審議活性化法11)国会審議の活性化及び政治主導の政策決定システムの確立に関する法律が制定された(1999)。具体的には国家基本政策委員会の設置(党首討論の制度)、政府委員制度の廃止(官僚答弁の原則廃止)、政治家からなる副大臣・政務官職の設置などである。自律的に大きな改革をすることには消極的である国会が時代の変化に合わせてかなりの大きな改革を成し遂げたともいえる。しかし、その実際の成果は微妙である。ここでは多くを述べないが、党首討論は次第に行われなくなり、官僚の答弁は政府参考人としてかなり復活し、何をしているのかわからないポストだけの副大臣・政務官も少なからずいる。当初の理想とは異なり、現実的な利便性や与野党の政治的思惑の結果、改革が機能しなくなっている面も多い。

脚注

脚注
本文へ1 1995.11.29 読売新聞
本文へ2 衆議院金融安定化に関する特別委員会で一括審議していた閣法と与党案、野党案(①不動産に関連する権利等の調整に関する臨時措置法案(閣法)、②金融機能の安定化のための緊急措置に関する法律及び預金保険法の一部を改正する法律案(閣法)、③債権管理回収業に関する特別措置法案(与党衆法)、④金融機関等が有する根抵当権により担保される債権の譲渡の円滑化のための臨時措置に関する法律案(与党衆法)、⑤競売手続の円滑化等を図るための関係法律の整備に関する法律案(与党衆法)、⑥特定競売手続における現況調査及び評価等の特例に関する臨時措置法案(与党衆法)、⑦金融機能の再生のための緊急措置に関する法律案(野党衆法)、⑧金融再生委員会設置法案(野党衆法)、⑨預金保険法の一部を改正する法律案(野党衆法)、⑩金融再生委員会設置法の施行に伴う関係法律の整備に関する法律案(野党衆法)、⑪信用保証協会法等の一部を改正する法律案(野党衆法)、⑫金融機能の正常化に関する特別措置法案(野党衆法) )について、閣法(①②)の採決を諦め、与党案(③~⑥)及び一部野党案(⑦⑧)を丸呑みして成立させたもの。
本文へ3 実質的には衆議院からは議案に賛成した会派から、参議院からは反対した会派から両院協議会の委員が選ばれるため、その両者の話し合いで成案が得られることは極めて稀である。(平成29年版衆議院先例集481説明文「本院議決案に賛成した会派に属する議員の中から指名するのが例である。」 平成25年版参議院先例録415説明文「議長は両院協議会に付される案件の院議を構成した会派にその所属議員数に応じ協議委員を割り当て、会派から推薦された議員を指名する。」)
本文へ4 1994.3.24 衆議院本会議録
本文へ5 橋本五郎ほか「日本政治の小百科」 一芸社 2002
本文へ6 2008年2月7日及び2004年1月31日の衆議院本会議
本文へ7 2003年3月21日、2003年7月25日、26日、2004年6月5日の参議院本会議
本文へ8 民主党の藤井裕久幹事長は「牛歩ということを幹部が口にしたことは一度もない」と語っている。2004.6.5 朝日新聞
本文へ9 組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律案、犯罪捜査のための通信傍受に関する法律案、刑事訴訟法の一部を改正する法律案
本文へ10 参議院ホームページhttps://www.sangiin.go.jp/japanese/aramashi/keyword/osibotan.html
本文へ11 国会審議の活性化及び政治主導の政策決定システムの確立に関する法律

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