国会の攻防(14)
昭和60年代から平成5年①―売上税
岸井和
2020.12.04
(6)1985年~1993年(昭和60年~平成5年)
1985年から1993年 (昭和60年から平成5年)までの間、これまで自社を中心に展開されてきた国会の攻防は変革期を迎えた。この時期、売上税法案(第108回国会)、消費税法案(第113回国会)、PKO法案(第121~123回国会)、それと政治改革法案(第121~128回国会、成立は1994年)が攻防の焦点となった。
この時期は自民党の他の派閥から後継総理が選出されても、中心となる政策課題は変わらなかった。世界情勢、国内の社会状況に応じて税制改革、国際貢献、政治改革は避けては通れず、それらは前の内閣から引き継がれた宿題、どの内閣にも共通する最大の課題であった。いずれも激変を伴うものであり、これまでの道を覆すもので、それだけに野党(特に社会党、共産党)のアレルギー反応も強いものがあった。
高度経済成長の終焉や高齢化社会などの日本国内の社会環境の変化と冷戦終結後の国際環境の変化は、社会党の「抵抗」と自社の「馴れ合い」という55年体制の変質をもたらした。社会党の税制改革や国際貢献への頑な反対は新たな時代に対応できるものではなかった。抵抗政党としての社会党は一定の成果をあげ、最後の輝きを見せた時期であったが、それは凋落の始まりでもあった。
一方で、リクルート問題や総理のスキャンダル問題で自民党長期政権の腐敗した構造が批判の的となり、1989年7月の参議院通常選挙では大敗を喫した。参議院では自民党の多数維持が困難となり、翌月の首班指名で社会党委員長の土井たか子が選ばれた。衆議院の優越により海部俊樹が総理の座に就いたが、参議院においてとはいえ野党党首が指名されたのは自民党結党以来初めての事態である。自民党も生き残れるかどうかの正念場を迎えた。
この期間の国会運営上の特徴を挙げれば、第一には、自民党内の派閥間の抗争はほとんど見られなかった。中曽根康弘の後継指名で竹下登内閣となり、その後の宇野宗佑、海部俊樹、宮澤喜一の各内閣はいずれも竹下派の支持により誕生したものであった。竹下派の支配を通じて自民党の求心力は強く、税制改革、国際貢献では一枚岩であり、成果を残した。しかし、その膨張し過ぎた権力は破裂し自民党の分裂へとつながる。肥大化した竹下派は政治改革を契機に派内の対立が顕在化し、宮澤内閣不信任決議案の可決という事態へとつながり、その結果自民党が政権を失うこととなる。
第二には、国内外の状況の変化のなか、衆参ねじれ現象も相まって自民党は国会戦略として、公明党、民社党の意見をくみ取り、社会党から引き離し、政府自民党に賛成しないまでも協力的な姿勢に引き込むことに腐心した。それとともに両党も旧態依然とした姿勢をとり続ける社会党との野党共闘からは一線を画すようになっていく。
これは野党第一党としての社会党の求心力の低下につながった。売上税法案では社会党が中心となり野党共闘が成果を上げた。だが、その後の消費税法案、PKO法案では、次第に自公民路線が定着し、重要議案での社会党外しがはっきりとしてくる。自公民の協議で内閣提出法案に対する修正協議が進められる一方で、社会党は共産党と共に抵抗路線を続けることとなる。自社の対立と馴れ合いという55年体制は流動化し、国会運営の基軸として機能しなくなっていく。やがて社会党は野党第一党の地位を失うこととなる。
第三に、それまでの時代と同様に憲法改正を政治日程化することは避けられ、与野党対立の原因とはならなかった。中曽根、竹下、宇野、海部、宮澤と5人の総理は、いずれも憲法改正を主張することはなく、最大の理念の問題で自社が対立することはなかった。かねてから熱心な改憲論者であった中曽根総理ですら就任後間もなくの衆議院本会議で「現段階におきまして、内閣としては、憲法改正問題を政治的日程にのせる考えはございません1)1982.12.8 衆議院会議録」と発言して以来、最後に至るまで同様の発言を繰り返し、憲法改正を具体化することはしなかった。1986年の衆参同日選挙で自民党が歴史的大勝をしたとはいえ、3分の2には満たない議席数、野党第一党として護憲を党是とする社会党が存在する以上、憲法改正の発議をすることはほとんど不可能であったし、また、発議のための国会の審議体制や国民投票の制度も全く整っていなかった。
売上税法案(1987年、第108回国会)
一般消費税が大平内閣で断念されて以降、大型間接税の導入は財政再建と来るべき高齢化社会に対応するために10年越しの懸案となっていた。大平内閣の失敗から、歳出削減、行政改革と手順を踏みつつ時間をかけたうえで、中曽根内閣、竹下内閣と二つの内閣を経て税制改革は成し遂げられた。1987年に中曽根内閣は売上税法案を提出するが、野党は一致団結して徹底的に反対し、売上税は廃案となる。税制改革は竹下内閣に引き継がれ、1988年に消費税という名前で成立を見るが、この時は社会党を取り残して、公明党、民社党との連携のもとに法案成立をみた。
1979年10月、大平総理が一般消費税導入を掲げて戦った衆議院総選挙で自民党は過半数を割り込んだ(その後、保守系無所属を加え過半数を維持)。その年の12月に衆参両院とも本会議で「財政再建に関する決議」2)1979.12.21 衆議院会議録、参議院会議録を全会一致で行い、一般消費税によらずに財政再建策の検討を進めることとなる。翌年のハプニング解散(国会の攻防(2)参照)による衆議院選で自民党が勝利した後もこの流れは変わらず、中曽根も1982年の総理就任以来、一貫して「一般消費税を導入する考えはない」と国会で答弁し続けてきた。一方で、中曽根総理は1985年のボン・サミットでは大規模な税制改革は将来の課題であると言及し3)1980.5.9 衆議院会議録、翌1986年(第104回国会)の施政方針演説では、「税制改革は国民的課題」と述べた。
中曽根総理は、その年の7月6日の衆参同日選挙で大勝し、9月の自民党両院議員総会で総裁任期が1年延長され、秋の臨時国会(第107回)では行政改革の最大のシンボルである国鉄の分割民営化も成し遂げた。その余勢をかって翌年の常会では戦後政治の総決算の最後の課題であり、戦後のシャウプ税制に代わる税制改革、消費税創設に取り組もうとした。しかし、総理は「多段階、包括的、網羅的、普遍的で大規模な消費税を投網をかけるようなやり方はとらない」4)1985.2.7衆議院予算委員会議録などと国会の内外でかねてより発言しており、売上税は公約違反との批判の声は野党のみならず与党からもあがっていた。売上税という新税は単純なカネの問題を越えていた。来るべき高齢化社会への対応という側面もさることながら、その逆進性から高所得者層の優遇策であって、低所得者層や中小事業者に負担を求めるもので日本の社会構造に亀裂を生じる制度改正だと見る考えも強かったが、そうした理屈以上に大平内閣以来、過度に政治的対立を生じさせ世論を二分するような問題となっていた。
売上税国会
1987年1月26日(第108回国会)の施政方針演説においては「抜本的な税制改正案の提出」と言及しただけで売上税創設についての説明がなかったことに野党が反発して代表質問入りが遅れた。1週間後の2月2日の衆議院本会議で中曽根総理が「施政方針演説において述べました間接税制度の改正は売上税の創設を含めたものであります」と異例の補足説明をすることで、ようやく代表質問に入ることができた。
第108回国会は常会なので、衆議院での予算審議からスタートすることになる。しかし、野党は総予算を人質にとって売上税の阻止を図る作戦に出た。まず、予算の裏付けとなる税制改革法案がすべて提出され内容が明らかにならなければ予算審議には応じられないと審議入りに抵抗していたため、2月4日には総予算の提案理由説明を自民党単独で行った。これに態度を硬化させた野党は砂田重民予算委員長の辞任と提案理由説明の白紙撤回を求めた。審議は空転し、それは2週間に及んだ。17日には予算委員長が「4日の委員会開会の手続は、規則上違法ではないとしても、政治慣行としては適切と言いがたく、改めて予算の趣旨説明を行う」と妥協策を提示したことで、予算委員会は19日にようやく始動した。なお、税制改革関連の7法案5)(1987.2.4提出) 所得税法等の一部を改正する法律案、売上税法案
(1987.2.10提出) 所得税法等の一部を改正する法律及び売上税法施行法案、租税特別措置法の一部を改正する法律案
(1987.2.12提出) 地方税法の一部を改正する法律案、売上譲与税法案、地方交付税法の一部を改正する法律案は12日までにすべて提出されていた。
それでも、宮澤喜一大蔵大臣の海外出張、売上税関連の政省令の提示問題などで総括質疑に入ったのは3月3日になってからであった。その後も公聴会の開会日程などをめぐり与野党は対立を続け、空転が繰り返され、さらには統一地方選挙のために総予算審議は4月14日まで休止状態となる(ただし、年度末には5月20日までの暫定予算が野党も出席して成立)。翌15日には野党4党が予算成立の前提として「売上税導入とマル優制度廃止の白紙撤回」を改めて確認したことから、与党はこれを無視し、ほとんど質疑が行われていないまま、予算委員会での審議を打ち切り総予算を強行採決した。野党は採決は無効であり、売上税粉砕のために徹底的に闘うと気勢を上げた。竹下自民党幹事長は「予算成立はただちに売上税の実施を意味するものではない」との含みのある談話を発表し、この後の与野党折衝への道をあけておいた。
与党は年度を越えても総予算審議が進まない膠着状態を打開し話し合いにつなげるためにいったんは強硬策をとったが、総理の公約違反の問題、統一地方選での敗北、自民党支持率の激減もあり、与党内からも売上税撤回や首相の政治責任を問う声も出るほど揺れていた。逆に世論の追い風を背負った野党は攻勢を強め妥協を排する姿勢をとった。16日には、野党四党共同で予算委員長解任決議案、大蔵大臣不信任決議案を提出し臨戦態勢をとった。
予算委員会での強行採決の善後処理のためにすぐには本会議を開くことはできなかった。原健三郎議長・多賀谷真稔(社会党出身)副議長の調停工作、与野党間の折衝が続けられる。「売上税関連法案は議長預かりとする」との議長の調停案を野党は受け入れる構えを示したが、総理ら政府側は法案が廃案扱いになってしまうとして拒絶した。自民党議員の売上税撤回の署名者は112人6)1987.4.22 朝日新聞にも達しており、議長調停案はその動きをみた金丸信副総理の意向が働いていたと言われる。
しかしながら、原議長は中曽根派であり本会議開会には協力的であった。協議決裂により、21日にいたって、政府の意を受けた自民党の要求で本会議開会が午後9時40分過ぎに強行開会され、成算のないまま10年ぶりの徹夜国会に突入した。与党から発言時間制限の動議が提出されるが、野党は牛歩で対抗する。議長は投票時間を制限したうえで投票を打ち切ったが、野党は議長席を取り囲んで約1時間にわたり激しく抗議、結局、この日の議事は全く進まず、本会議は延会された。
翌日の午前1時過ぎから本会議が再開されるが、野党は徹底した牛歩戦術を展開した。発言時間制限の動議を可決したのち、予算委員長解任決議案を否決し、大蔵大臣不信任決議案の途中までで午後10時を回ってしまった。野党は休憩の動議などの奇抜な作戦はとらなかったが、これまでにないほどの長時間の牛歩を繰り返した。
本会議で徹夜の長時間審議が続く一方で、局面打開を探る動きが出ていた。22日の夕方には金丸副総理は中曽根総理に売上税関連法案の廃案を進言した。最終的には、改めて正副議長の調停にゆだねる形で事実上の廃案を確定させ、与野党ともその結果を尊重する7)1987.4.23 朝日新聞というものであった。総理は廃案に難色を示したものの、野党の抵抗、与党内からの反発、総予算が成立しないという状況から、これを受け入れざるを得なくなる。自民党の控室に総理が姿を現すと罵声が飛ぶという異様な雰囲気があった。その裏では野党に対しても、金丸副総理や竹下幹事長らが調整を進めていた。
23日の午後に大蔵大臣不信任決議案が否決されると、事態収拾の動きが活発化する。夜9時過ぎには、議長が与野党の幹事長・書記長を集め、調停案を示した。その内容は、「・売上税関連法案は議長が預かる、・税制改革は現在の最重要課題の一つであり早期に実現できるよう各党協調し最大限の努力を払う、・このため衆議院に税制改革に関する協議機関を設置する、・売上税関連法案は協議機関の結論をまって処理し、今国会中に結論が得られない場合は、その取扱いは各党の合意に基づいて措置する」というものであった。調停案に伴う議長と野党とのやり取りでは、各党の合意が得られない場合は「今国会廃案」と確認された。廃案を明確にするよう求めてきた野党の全面勝利であった(ただし、共産党は調停案に反対)。総理は「勝負はこれから」と廃案を認めず強がったが、この時点で廃案が確定した。与党としては総予算が最優先であり、その強行採決がとても許されない情勢下で大きな譲歩はやむを得ず、調停案に廃案を明記しないことや協議機関の設置でかろうじて総理のメンツを保つこととなった。売上税廃案により、昭和62年度総予算は深夜から再開された本会議で1時間ほどで可決された。
社会党議員は、総予算に対する討論で「…四野党、すなわち社会党、公明党、民社党、社民連は、かたく団結して闘いを展開してまいりました。…増税法案が事実上廃案に追い込まれたのは、国民世論の勝利であり…8)1987.4.23 衆議院会議録」と発言している。まさに、その通りで、強い国民世論を背景に野党は団結して売上税を粉砕した。しかし、これは国会内の大きな闘争で野党が団結した最後の機会であり、社会党の最後の勝利でもあった。この後、自民党は公明党、民社党との連携を図り、その意見も取り入れつつ難航する法案を成立させるようになり、社会党は取り残されていくことになる。また、各党間の協議機関を設置して事前の協議を積み重ねることは、問題が膠着状態を抜け出せず、いつまでも解決に至らない状況を打開する一つの手法として確立した。
自民党内の派閥の抗争はかつてのような激しさはなかったが、総選挙で大勝した総理に対し、自民党議員、それと竹下、安倍、宮澤のニューリーダーと言われる三人は本気で支援したのか疑問である。国会内外の雰囲気は圧倒的に不利であると悟り撤退を考えた。自民党内の反対論はもちろん、竹下幹事長もかなり早い段階から総予算の成立を優先し、売上税廃案で動いていた。10月の自民党総裁任期満了の前に、有終の美を飾りたい総理は功を焦りすぎ、後ろを見たらだれもついて来ていないということだった。
総理は、この国会の会期初めの施政方針演説で「…我が国民主政治充実への努力という面において、戦争直後の燃えるような情熱が減衰し、形式主義やマンネリズム、漫然たる前例の踏襲が繰り返され、日に日に新たに熱情を込めて民主政治の改革と議会政治の新たな前進に挑戦する意欲が欠けてはいないかという憂慮を持つものであります。ローマは一日にして成らずと言いますが、我が国の民主政治の発展のため、さらに忍耐と寛容、識見と勇気を旨として、その大本と大道を国民の皆様とともに切り開く努力を続けることを決意するものであります。…9)1987.1.26 衆議院会議録」と発言した。具体的な方向性には言及していないが、同日選挙の大勝と長期政権に勇気づけられて、旧弊たる国会に対して切り込む覚悟を示したものであろうが、現実には自らの食言と準備不足により、不覚を取った。次の竹下内閣は周到な準備をして売上税に代わる消費税の導入を行った。
脚注
本文へ1 | 1982.12.8 衆議院会議録 |
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本文へ2 | 1979.12.21 衆議院会議録、参議院会議録 |
本文へ3 | 1980.5.9 衆議院会議録 |
本文へ4 | 1985.2.7衆議院予算委員会議録 |
本文へ5 | (1987.2.4提出) 所得税法等の一部を改正する法律案、売上税法案 (1987.2.10提出) 所得税法等の一部を改正する法律及び売上税法施行法案、租税特別措置法の一部を改正する法律案 (1987.2.12提出) 地方税法の一部を改正する法律案、売上譲与税法案、地方交付税法の一部を改正する法律案 |
本文へ6 | 1987.4.22 朝日新聞 |
本文へ7 | 1987.4.23 朝日新聞 |
本文へ8 | 1987.4.23 衆議院会議録 |
本文へ9 | 1987.1.26 衆議院会議録 |
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