「ここが変だよ文通費」―文通費の真の問題
岸井和
2021.11.18
不可思議な文通費
10月31日に先の選挙の投開票が行われ、その日から新たな衆議院議員の任期が始まった。その結果、法律の規定に従って10月分の文通費の全額100万円が支払われた(引き続き当選した前議員は10月中に受け取り済なので追加の支給はない)。新人議員・元議員はわずか1日在職しただけで、一か月分の文通費が丸々支給されることに対し、議員自身から疑問の声が上がり、世論は批判の声を上げ、これに押されて各党とも「返還(寄附)」と在職日数に応じた「日割り支給」の法改正を行う方向で動き始めた。
国会議員のコスト削減を議論するとき、まず歳費の話になる。実際に新型コロナウイルスの拡大というよくわからない理由で10月まで歳費が2割削減されていた(10月までの期限法のため、知らないうちに11月から満額に戻っている)。選挙で歳費削減を「身を切る改革」として公約に掲げ、参議院の定数を増やした分についてコストカットをするときも歳費の削減で賄おうとした。歳費の削減は世論に訴えるには都合がよいらしい。働きに比してもらい過ぎだと考えているのだろうか?
それよりも、議論がもっぱら歳費に向けられていることは意味深である。実は、一番の不可思議な手当は歳費ではなく、文書通信交通滞在費(文通費)だからだ。この長たらしい名称の文通費は戦後の議員第一主義から生まれ出た手当のアマルガムのようなもので、様々な手当が合体されてできあがった。それゆえに、時々の思惑も複雑に絡み合い、本来は費用弁償的なものであるにもかかわらず、実態は報酬の一部にもなりうる奇妙な手当になってしまった。しかも、非課税である。非課税で月額100万円となる。
議員特権としての文通費の形成
戦後の憲法は新たな特権階級を誕生させた。国会議員は全国民の代表であり、国権の最高機関のメンバーであり、選良となった。選良はしかるべき待遇を受けなければならない。したがって、報酬は役人よりも高いのは当然として(したがって法律でそのように決めた)、議員会館、宿舎、公用車、各種手当と思いつくものを次々と要求していった。議会事務局は喜んでその実現を手助けし、大蔵省は渋々予算を認めた。
文通費は、戦後間もなくの通信費、滞在雑費、審査手当(のちに審査雑費)に始まる。通信費は「議員は会期中または公務上必要な通信をするために、一定額の手当を受ける」と国会法に規定されていた。滞在雑費は議会開会中の宿泊費に充てられた。これは法律もないのに支出されていた。審査雑費は国会閉会中の会議への出席費用であり、さすがに法的根拠がないとまずいからと法律を作った。電報代が高いし、宿泊事情もよくないので、費用弁償として各種手当を作っていった。唯一の立法機関の議員が自分たちの手で決めるのだから、そう困難な作業ではない。かといって、お手盛りとまで批判するのも酷かもしれない。戦後の困難な事情の中で費用弁償を認めることまで批判するのはどうか。問題は、この時点で特権意識が根付いてしまったことにある。
各手当は物価の上昇とともに金額を引き上げられていく。しかし、次第に手当への世論の批判も強まっていく。そこで、手当の名称を変えることをきっかけに金額を引き上げるという目くらまし作戦を考えつく。名称を変え、費用弁償の対象を拡大し、その拡大された分の金額が増えるという仕組みだ。1963年(昭和38年)には通信費は通信交通費となり、金額を5万円から10万円の2倍にした。
1966年(昭和41年)には滞在雑費と審査雑費が廃止され、調査研究費が新たに設けられる。形の上では別物ではあるが、実質的には名前の変更である。滞在費用がなんで調査研究費に化けるのかはよく意味が分からないが、調査研究費という名称の方が宿代よりも高尚であるし、世間の納得がいくものと考えたのだろうか。宿の事情は戦争直後とはもはや異なり、何よりも議員宿舎もできていて宿代では合理性に欠ける。しかし、これにより、費用弁償的な性格の手当が、金銭的には実態を把握しにくい調査研究に充てられる費用に様変わりしてしまい、性格が変質してしまった。
1974年(昭和49年)には通信交通費と調査研究費が一本化され、また名称が長くなり、文書通信交通費になった。しかも、調査研究費は課税対象だったものが、文通費に吸収統合されたためすべて非課税になるというトリックがあった。会議録では非課税措置のことは触れられていない。そして、統合されたことで、この手当は細々した費用の弁償なのか研究費なのか、その性格はさらに意味不明なものとなった。費用弁償なのか、調査経費なのか、政治資金なのか、個人の金なのか?実態的には何に使ってもよい手当であるから、趣旨についてはどうでもよかったのであろうが。
1993年(平成5年)に、名称はさらに長くなり文書通信交通滞在費と改正され、金額は一挙に25万円引き上げられて100万円となる。通信費→通信「交通」費→「文書」通信交通費→文書通信交通「滞在」費と変遷したこととなる。しかし、この後は日本の経済事情、財政状況は厳しさを増し、それ以上の引き上げを言い出す雰囲気はない。批判の矢面に登場することのないように静かにしている。
文通費の問題と維新の会の対応
この文通費の問題点は、税金から支払われているにもかかわらず、金額の大きさと使途の不透明さと非課税ということにある。費用弁償ならば非課税としても納得はできるが、その趣旨が本当に費用弁償なのか、使途の公開義務がないために本当に費用に使われているのか、そんなに多額の費用が実際にかかるのか疑問に思うところである。国会議員の仕事は零細企業的で、労働集約型で生産性が著しく低い。こうした、零細企業ならば本来はコストに対し敏感なはずでもある。
今回の文通費の全額支給に異を唱えた日本維新の会はそもそも文通費に対する疑問を持っており、かねてよりその使途を領収書を含め自主的に公開していた。その領収書をみると、文通費のかなりの部分が選挙区支部や資金管理団体に寄付されている。つまり、議員個人の金を自分の政治団体に、自分名義の領収書を発行して移管し、政治資金としているということになる。
文通費の趣旨は「公の書類を発送し及び公の性質を有する通信をなす等のため」と法律にあるが、「公の」の意味が曖昧だし、「等のため」とはいったい何を意味するのか分からない。選挙関係の文書は公とは言えないのか。有権者との意見交換の会合費用は公なのか?一読するだけでわかるように、そもそも法律上の趣旨と文書通信交通滞在費という名称も齟齬がある。しかも、この趣旨を有権的に解釈する機関も存在しないし、公開義務もないから違法かどうかは基本的に分からない。仮に違法だとしても処罰する規定もない。文通費は訳の分からない制度として築きあげられてきた。
さらに、もう一点として、選挙区支部等に多額の文通費が寄付されているということは、毎月100万円の文通費が使いきれないのでは?という推測につながる。文書の発送や通信費ですべて使い切ってしまうならば資金の移動をする必要はない。同じ国会議員でも一生懸命働いている人と何をしているのか分からない人がいて、必要とするお金にも個人差があるだろうが、一律100万円というのは妥当な制度なのか。
それでも維新の使途公表は、苦し紛れにでも領収書まで添付していて、良心的ではある。文通費の使途と政治資金の使途の整合性がないと他党に突っ込まれてはいるが、何もないよりはマシであろう。なぜなら、文通費は不透明であるがゆえに、非課税の第二の給与とも言われ、マンションやクルマの購入に充てられることもあるとの噂は絶えない。マンション購入に充てたことが明らかになれば、世論の批判には耐えられまい。滞在費とあるから問題なしと開き直れるか?あるいは、議員活動をするための事務所兼住居と抗弁するか?いずれにせよ、公開すれば一定の歯止めはかかる。
文通費と他の議員特権との重複
時代の変化の要因もある。かつては、文書の印刷費、切手代、電話代や電報代にお金がかかった。今では、パソコンのメール、スマホのラインやメルマガ、ツイッターなどのSNSを使うことが多く、それほど多額の費用が必要なのだろうか?議員会館でのインターネット高速接続回線の費用は国が負担、国会議事堂内などでは無料のWi-Fも整備されている。交通費は、鉄道パスや飛行機チケットは別途支給されているし、公用車も各院でそれぞれ100台以上も用意されている。利用者が少ないとの批判から本数が大幅に減らされたが、今でも各議員宿舎と国会の間で議員専用バスが運行している。平成5年には「滞在」が加わって25万円増額されたが、議員宿舎の家賃は最高でも13万円である。東京と地方の二重生活の出費に苦労を漏らす議員もいるが、世の中の単身赴任のサラリーマンはどうしているのか?東京出身の議員は滞在費を必要とするのか?議員は特別だという論理は今や通じまい。
文通費の改革
文通費は実態として給与と同じように好きに使えるお金であり、しかも、税金もかからない黄金手当である。議員は特権階級ではなく、敬意を持たれる国民の僕でなければいけない。「身を切る」よりもまず「身を律する」ことが重要であろう。文通費は、いくら屁理屈を並べてもその趣旨が曖昧であることは誤魔化しようがない。長年の継ぎ足し手当でより不分明なものになった。洗い直しをしなければならない。金額は適切なのか、重複した手当はないのか、現代の実情にあっているのか。さらに、使途についても、何に使っていいのかをより具体的に明確にするべきであろう。その趣旨目的にあった使い方がされているのか検証するためには使途の公開が絶対的に必要である。こうした洗い直し作業が国会自らの手で行えないのであれば、第三者機関の判断を経て、整理することも一つの方法である。その金額の妥当性、使途の適切性、公開性の基準を第三者の目で公平・公正に明らかにしてもらい、議員活動に必要な費用弁償として妥当なものと認められる範囲のものならば、非課税であっても許容されるべきであろう。
ただ、見通しは暗い。各党は100万円の返還、支給金額の日割り計算といった目先の問題だけを片づけて終わりにするのではないか。しかし、これは若干名の議員辞職や補選・繰上当選を除けば、選挙が行われるほぼ3年に1回の話に過ぎない。議員にとって何よりも不都合なのは使途公開である。議会事務局は公開に伴う領収書の煩瑣なチェック作業を嫌がる。そもそも文書通信交通滞在費は歳費法に「各議院の議長、副議長及び議員は、公の書類を発送し及び公の性質を有する通信をなす等のため、文書通信交通滞在費として月額百万円を受ける」とある以外の規定がなく、可能な使い道を議会事務局に聞いてもこの条文をただただ繰り返すしかない。このような現状で使途の適法性も誰が判断するのか?与野党の泥仕合の原因ともなりかねない。世論の思いと永田町と思惑がかけ離れてしまっているということだろうか。文通費の改革は永田町の意識改革にもつながろう。
~本コラムは2019年10月23日掲載の「黄金の手当 文書通信交通滞在費」を加筆修正したものです~
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