議院運営委員会とは何をするところなのか? ―その空洞化と便宜主義
岸井和
2022.09.08
議院の内部事項を所管する特殊な委員会である議院運営委員会は、議論の透明性に欠けたままで妥協と合意が優先されている。他方で、議院運営委員会が権限を越えて守備範囲を拡大し、コロナ問題や国葬問題までを扱うのは適切なのだろうか?
議院運営委員会の特殊性
国会には、衆議院と参議院にそれぞれ17の常任委員会が置かれている。政府の各省庁に対応して委員会が設置され、たとえば、厚生労働委員会は厚生労働省に関係する事項の調査や法案の審査を行う。予算や決算は政府全体に関係しており、省庁ごとに区分けして審査を行うのは不都合なので、予算委員会と決算行政監視委員会(参議院は決算委員会と行政監視委員会)で全般的な議論を行う。
国会は国政全般について権限を有していているが、各委員会は付託を受けたそれぞれの所管事項について審査、調査の権限を委譲されている。逆に言えば、常任委員会は所管事項についてはそのすべてを審査する権限を有する。この権限は排他的で、厚生労働委員会以外の常任委員会が労働関係法案について議題とすることはできない。また、例外的な場合を除き厚生労働大臣は厚生労働委員会、予算及び決算(行政監視)委員会にしか出席しない。これが国会運営上の原則である。
他方で、17の常任委員会の中で、懲罰委員会と議院運営委員会はほかとは異なった性格を持つ。つまり、行政府との関係ではなく、各院の自立権に基づき、衆議院や参議院の内部事項について所管している。院内において秩序をみだした議員、たとえば暴言を吐いた、暴力的行為を行った議員は懲罰委員会において議院の自立権に基づき処分が決められる。ただ、懲罰委員会は懲罰事犯が生じたときにのみ開かれるので現実に活動することはほとんどない。
もう一つの議院運営委員会は議院の運営、国会法や議院の諸規則、議長からの諮問事項などについて議論する委員会である。具体的にあげれば、国会の会期、特別委員会の設置、本会議の日程や議事内容、院の予算、議院・議員関係の法案(国会法、規則等及び歳費関係法規、秘書関係法規等)、議院の建物(議員会館、宿舎を含め)等の管理など、審議に関係するものから庶務的事項まで議院の事項はすべて議院運営委員会の所管となる。院内の事項を所管しているので原則として大臣や政府の役人が出席することはない。
議院運営委員会は国会開会中はほぼ毎日活動しているだけでなく、「議院の運営」という所管事項はあいまいな規定であるがゆえに活動範囲は広範となり、他の常任委員会の活動にも影響を及ぼす議院において特別な地位を占める。
各常任委員会は対等な関係であり上下関係はないが、実際には院内においては議院運営委員会の権限は大きく、他の委員会の上位に立っているようにみえる。労働関係法案を議院運営委員会で審査することは法や規則に反するので行わないが、その一方で議院運営委員会はその法案の付託から、本会議へ上程するまで関与している。その間、公聴会、委員派遣及び証人喚問の承認、混乱緊急時の議長と調整など審査を進めるうえでの総合調整、全体的日程管理に関与することが少なくなく、その結果、特別な地位を占めることとなっている。
委員会には議長、副議長が出席し、常任委員会のなかで唯一議事堂本館に委員長室、理事会室が置かれ、委員長のみならず各党理事にまで公用車が割り当てられているのも特例的扱いを受けている証左である。また、各常任委員長が集まる会議においては、議院運営委員長が座長を務めることからも、他の常任委員長よりも格上に扱われていることがわかる。実質的に、議院運営委員長は議長、副議長に次いで議院内でナンバー3の地位とみなされている。
空洞化していく議院運営委員会
議院運営委員会が特別な地位にあるのに反し、そこでの議論は空洞化が進んでいる。
議院運営委員会の実際の議論の場はその理事会である。その重要性が認められるのに反し、委員会は形式的に進められることがほとんどで、議論もなく、数分で終了してしまうのが通例である。
かつて戦後の国会が始まったときには議院運営委員会において、議会運営の在り方、議員の待遇、議案の取扱、混乱の収拾策等多岐にわたって与野党が丁々発止の議論を展開していた。議論が長時間になることもしばしばあった。
それが昭和40年の前あたりからは委員会の議論は形式的になっていく。委員会ではなくその前段である理事会において実質的議論を終わらせてしまう傾向が強まった。自社のなれ合いが始まり、与野党の取引などを表ざたにしたくないとの思惑があるのだろう。ある意味、スマート化され、本会議の強行開会などの場合を除き大勢の前で喧嘩を繰り広げることは少なくなった。ただ、これにより議会運営の肝心な部分が議事録に残らないシステムへと変わってしまった。委員会では形式的でつまらない議事録が残るか、乱闘で「聴取不能」の議事録が残るだけであった。それでも理事会は長時間にわたり喧々諤々の議論が繰り広げられ、しばしば怒鳴りあいの場ともなっていた。当時の白熱していた理事会の議論は、事後に委員長、理事が取材に応じることでかなりの程度報道されていた。
ところが、近年では理事会での議論も形式化しつつある。野党が国会運営で対決的ではなくなってきていて、これに伴い、国会対策委員会の意向を踏まえつつ与野党の筆頭理事間での協議で内々に決められるようになり、意思決定がより閉鎖的に行われてしまうようになったからである。理事会では与野党で建前が述べられ平行線のままで、筆頭理事間の裏の協議で妥協が図られ、委員会は結論だけが記録される。重要事項の実質的決定場所が時代とともに深い闇の中に沈んでいった。さらに問題なのは、この筆頭間協議が携帯電話で行われることも多くなり、より一層不透明性は高まった。
たとえば、先の臨時国会の会期について、理事会では与党は3日間、野党は3日では短いと主張していたが、別の場所で閉会中審査をすることを条件に3日間とすることで決まり、最終的には野党はほとんど抵抗も見せずにすんなり受け入れてしまった。裏の協議から排除されている共産党は3日間では短すぎる理由を表の議院運営「委員会」で主張した。しかし、それは言いっぱなしで他の政党は何も反応せず、意見が一致しないからと採決で決定した。3日間とした理由は会議録上、全く出てこない。国民にも、後世の人にも何もわからない。
与野党の仲介役となっていた事務局の委員会担当者はほとんど不要となり、単なる連絡係としての意味しかなくなった。意思決定過程のブラックボックス化がさらに進んでいることは民主的議会を監視するうえでは大きな懸念材料である。国会の運営を取り仕切っている人々にとっては、それがやりやすく、効率的で、正しい方法だと受け取られている。それと同時に、手続き面だけではなく内容的にも内々の与党と主要野党の合意があれば、つまり政治的妥協さえあれば、理屈もなく、説明もなく何をやってもいいという慣行ができあがりつつあるように思われる。
便宜主義的国会運営
近年は、議院運営委員会は何をやってもいいという風潮ができている。
新型コロナウイルスの蔓延に対し、令和2年4月以降、政府は改正新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づき緊急事態宣言、まん延防止等重点措置をたびたび発出した。この緊急事態宣言等の発出は国民の私権を制限することにつながることから、法律により国会報告が必要とされ、法律審査過程での附帯決議では事前に国会に報告することが求められた。
政府の活動を監視し、手続きに国会が関与して行政の独走を防ぐ観点から、手続きが煩瑣だという点を別とすれば国会報告については十分に意味があろう。問題は国会の内側にある。
国会といっても、衆議院と参議院は別々に存在する。各院に報告することは手間はかかるがやむをえない。しかし、各院のどの場で報告するかである。国会報告の根拠となる特措法を審査したのは内閣委員会である。つまり、所管は内閣委員会である(あるいは、法律の実施に密接な関係のあるのは厚生労働省であるから厚生労働委員会も考えうるし、行政に関する全般的事項を扱う予算委員会でも良い)。それなのに議院運営委員会で報告することにしてしまった(コラム「国会に会期は必要なのか?」参照)。内閣委員会は権限を侵害されているのに決まったことだと諦めている。「国会」に報告するのだから国会のどこに報告してもよかろう、国民からもマスコミからも特段のクレームはないことだし、ということだ。
ここでも、効率性が重視され、国会で決めた法律やルールは無視された。議院運営委員会ならば短時間で終えることができる。他の常任委員会と違って議長が出席していることもあり、議院運営委員会は短時間しか開かないのが近年の先例となっている。また、議院運営委員会は、これも他の常任委員会と違って前日までに開会を決定しなくても、当日に緊急に開会を決めることもできる。余裕のない状況で、慌てて手続きを進める必要があり、執拗に追及される懸念のない委員会は政府にとっては好都合である。
だが、議院運営委員会は院内の内部事項、議院の運営、国会法・議院の諸規則、議長の諮問事項について協議する場である。議院運営委員会の権限がほかにスピルオーバーしている傾向は以前からあるものの、新型コロナ関連の報告及び質疑は権限を明確に逸脱している。国民から見れば国会ならばどこでもいいじゃないか、一番効率的な方法でやればいいということかもしれない。しかし、こうした便宜主義は国会が決められたルールを守らないことで、自らルールを作る立法府として正しい選択なのだろうか。
同様のことが安倍元総理の国葬問題についても言える。国葬を執り行う根拠は、内閣府設置法で定められた「国の儀式並びに内閣の行う儀式及び行事に関する事務に関すること」という所掌事務規定と閣議決定であるという。
しかしながら国葬についても議院運営委員会で扱うという。「内閣の所管に属する事項」も内閣委員会が所管することになっている。国葬の根拠法となる内閣、内閣府を所管する内閣委員会ではなく、議院の内部事項を所管する議院運営委員会で扱うのは理屈が通らない。これも便宜主義に発した考えなのであろう。
議院運営委員会の議論能力は著しく低下している。国対委員長間の協議、筆頭間協議など非公式なステージで実質的なことが決められている。そこでの発想は閉鎖的な空間での妥協と便宜主義、効率主義であり、そもそも論の議論がなくなっている。かつての社会党は「なんでも反対」と揶揄されていたが、反対する理由を述べるためにそれなりに考えたうえで「そもそも論」を展開し、自民党もそれに真剣に反論し、議院運営委員会理事会はしばしば長時間にわたった。今は、そもそも議院運営委員会の所管なのかも考えていない。そもそも論は面倒だからと避けられ、与野党が都合よく合意できる結論ばかりを追い求めている。こうしたことが議院運営委員会の権威を自ら貶めていることに気づかない。
時間の無駄であったのかもしれないが国会の召集権限、開会式の性格、会期の延長、解散権…など議会の根本的在り方の議論はほとんどなくなった。内閣不信任案は形式的に会期末に提出され、緊張感もなく否決されるだけである。報道では「会期末に向けて国会は緊迫」と流されるが嘘八百だ。議院運営委員会理事会では「不信任案が提出されたので午後からの本会議の議題とします」「了承します」と事務的なやり取りしかない。その提出や否決がいかなる意味を持つのか考える場としての議院運営委員会はなくなった。無駄な議論はしない、与野党が合意すれば何をしてもいい、安易な合意でも、それがルールだと言わんばかりで、議会の在り方への深い洞察をする能力は明かに劣化している。選挙で惨敗した野党が「政策提案型」を唱えるのは青臭い書生論だが、「対決型」を目指すならば安易な合意を排して、理屈に裏打ちされたもっと本気の対決をしてもらいたい。
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