党首討論(3) - 存在意義を失った国会改革の柱、歴史的使命は終わったのか?
岸井和
2023.08.10
5党首討論はなぜ立ちいかなくなったのか
鳴り物入りで導入された党首討論は、最初は「(総理が本会議や他の委員会に出席しない)週に一回」だったが、「月に一回は」になり、それも「せめて会期末には」となり、最後は「歴史的使命は終わった」とされて開催が協議されることもなくなった。熱意は冷め、無関心となってしまった。
党首討論については、いくつかの問題点が指摘されてきた。
まず、討論時間、開催頻度の問題である。当初は40分間、のちに45分間となったが、これが短すぎるということである。さらに、開会頻度が少ないということである。ちなみに、英国のPMQsはさらに短い30分間であるが、会期中は毎週行われている。
試行的に開催された最初の党首討論(予算委員会合同審査会)において、鳩山由紀夫民主党代表は「…私ども、例えば民主党が二十六分、社民党さんは五分だと思いますが、大変に短い。これでは十分に国民の思いをお伝えすることもできないと思います。ぜひ、将来的には、また御討議いただく中で、議論の時間をふやしていただくように心からお願いをします」と述べており、党首討論導入にあたり野党が短時間という条件を飲まされたことが窺える(1999.11.10)。
制度導入当時、与党自民党は明かに総理の国会出席時間の短縮を考えていた。少なくとも、それまでの出席にさらに上乗せされることだけは絶対に回避しようとした。そこで、総理の国会出席は週1回、党首討論は他に出席がない場合に限るとルール化した。2000年に党首討論が本格稼働した時には「(議論が空回りする場面もあったが)…原則週一回開かれるこの討論が定着すれば、政治主導で国政を論じ合う機会に育ちそうだ(2000.2.24朝日新聞)」との期待もあったが、その期待は裏切られていく。
この大きな理由は、野党が党首討論の開催に積極的ではなくなったことである。45分では時間が短すぎる、それならば予算委員会の集中審査で総理に数時間質問した方が戦術的にベターだと考えるようになった。党首討論と予算委員会を両方行うという選択は与党は受け入れない。再掲となるが以下の図を見れば、近年では野党が党首討論よりも予算委員会の方を重視していることが一目瞭然である(「総理の国会出席時間(常会)と説明責任」参照)。総理が党首討論に出席した時間は常会における総理の出席時間の1%にも満たない。
次は、議論がかみ合わない、質問に答えていないという批判である。討論の内容の決定権は野党にあり、それは事前に通告されている。通常の委員会質疑では総理を含む政府側は質問している議員に逆質問することは許されていない。政府はあくまでも国会に対して説明をするものであって、行政権が国会論議の主導権を握る、立法行為に能動的に関与してはいけないとされているからである。ところが、党首討論では総理が主導権をとってもいいこととなっている。つまり、普段は質問に答えるだけの総理は、党首討論の場を借りて積極的に自己の成果のアピールをすることが可能な仕組みとなっている。それが過ぎると、野党の質問に答えるよりも、それとは関係がなくても延々と自己主張を展開してしまうことになる。つまり、議論がかみ合わないということになる。
最初から誤解があるようで、99年の試行的党首討論では鳩山代表は「私は、けさはピザを食べてまいりました。…総理にまず、…何を召し上がったか、お尋ねをしたい」と意味のない内容だが最初の最初から「質問」をしており「討論」ではなかった。
同じ討論で、小渕総理は「…クエスチョンタイムというのは、首相に対して、今鳩山さんもネクスト内閣の首相になっておるわけで、我々は本務を尽くしていきたいと思いますから急にネクストにお渡しすることはできないと思いますけれども、私は、そういう意味で、首相に対して野党党首がお話しするのがこのクエスチョンタイム、こういうふうに理解をしておりますので、党首対党首の話し合い、討議、こういうことであるとすれば、これは改めて議会の中で御審議をいただいてその方式をしていただければ、こう考えております」と明らかにクエスチョンとディベートは混同されていた。その後も鳩山の質問と小渕の答弁が普通の委員会のように続き、これでは党首討論を導入した意味がなかった。
そもそも日本の国会で討論といえば、採決に先立って議案に対して賛否を明らかにしたうえでのその理由を述べるものである。これに対して党首討論の討論は一つの議題について両者が意見を闘わせることを企図した。先で述べた申合せで合同審査会のことを「内閣総理大臣と野党党首の直接対面討論」と定義したことから党首討論という呼び方が定着した。
他方で、党首討論=クエスチョン・タイムという制度として整理されないままで導入された。党首「討論」とは言いつつも、一般的に日本の国会ではクエスチョンばかりなので(英国議会では法案審議はディベートによって行われ、PMQsはクエスチョンであり、日英で逆になっている。)、野党は質問慣れ、政府は答弁慣れしてしまい本当の意味での討論が成り立ちにくい。党首討論であっても「質問」者は詳細な事実を求め、あるいは総理の知識を試そうとする。総理が「答弁」に窮すれば得点になるであろう。そこで総理の「答弁」は相変わらず下手な言質を取られないことに留意する。
森総理の「答弁」は長かったが、次の小泉総理は比較して短かった。議論は概ね噛み合っているように思われるが詳細な点については議論を避けた。小泉総理最初の党首討論(2001.6.6)では、金融機関の不良債権問題の「質問」に対し、「…あなた方の定義と金融庁の定義が違うんだったら、意見を闘わせながら、どっちがいいか妥当な判断をすればいいのであって、私はそういう問題はもっと詳しい、こういう具体的な、専門的な議論があるんだったらば、予算委員会もありますから、担当大臣を呼んでやればいいんですよ」と党首討論のあり方を端的にとらえていた。
安倍総理は、「質問」に対して答えるというよりは自己の成果や主張を延々と述べ、ある時には野党を強く批判した。野党はその批判を無視した。これでは、議論は噛み合わず、それぞれが独自の見解を述べあっているだけとなった。第二次安倍政権以降、党首討論への期待感は大きく低下し、実際に開会されることも少なくなった。7年弱の在任中10回しか開かれていない。ここで、党首討論制度はほぼ死に体となったと言えよう。
第二次安倍政権下での最初の党首討論では、海江田万里(民主代表)がアベノミクスの副作用、リスクについて問うたのに対し、総理はアベノミクスにより経済の閉塞感が打破されたと成果を強調し、議論の方向は逆向きでしかなかった(2013.4.17)。蓮舫(民進代表)のカジノ法案の内容批判に対しては、蓮舫代表の側近議員がカジノ議連に参加していたことを執拗に主張した(2016.12.7)。枝野代表が課税の総合合算制度について質問した際には、雇用増による年金保険料の増加や運用益の拡大を答えている(2019.6.19)。つまり、長広舌にもかかわらず、意図的かどうかは分からないが我田引水の答弁となり、論点はずれ議論は噛み合わない。
野党も本来は質問をするべきではない。説明を求めるべきではない。逆襲を恐れず、政府を批判し、自党の政策の正当性を主張し、総理からの反論を受けて立たなければ討論にならない。お互いに相手を論破する姿勢がなくてはならない。オフェンスは野党、ディフェンスは与党という固定化した国会審議を克服するところに党首討論の意味があったはずである。野球とは違う。サッカーのように突然攻守が入れ替わる論戦に国会審議の活性化の本旨があるのではないか。与野党が独自の勝手な思いで発言し、討論として成立させようとする気がない。党首討論を新しい形態として育てようという気持ちに欠けていた。
参議院が実質的に討論に参加していないという点も問題である。衆参の両院が参加して国政の基本問題を議論するという理念自体は間違っているとは言えないが、現実には民進代表の蓮舫参議院議員、公明党首である山口那津男参議院議員が参加した場合を除いて、ほとんど衆議院議員しか参加していない1)参議院議員で党首討論を行ったのは蓮舫、山口のほかは、片山虎之助(維新)、大塚耕平(民主)のみでいずれも短時間。(なお、英国のPMQsは下院だけであり、上院は参加していない)。そもそもの国家基本政策委員会の合同審査会という舞台設定に無理があり、つぎはぎ委員会である。例外的に両院合同で開催するならば、もっと抜本的に国会法を改正して例外的な両院共通の国家基本政策委員会を定め、また、参議院議員の参加の方法も考慮した方がよかろう。
そのメンバーである議員は単なる定足数要員であり、実態は傍聴者であり、ヤジ要員としての意味しかない。開催を決める委員会の幹事会が存在するが、実質的な日程の決定権は彼らにはなく、党幹部からの指示に基づいて動いているだけである。国会運営が新しい事態に対応できなくなっているのは全般的に言えることだ。党首討論はそれを象徴しており、形式的な作業に時間を取られ機動的ではない。
党首討論の導入が検討された約四半世紀前に立ち戻ると、各党の思惑はあったにせよ、政権交代可能な二大政党制に向けた制度づくりが真剣に議論されていた。党首討論が始まってからは、その時代の重要政策について党首同士で一対一の(形は概ね質疑であったとしても)討論を交わし、どちらが政権にふさわしいかアピールしあい、政権選択の盛り上がりを見せた時期もあった。ただ、政権交代を経て、再び自民一強の時代を迎えると、党首討論は廃れてしまった。不要な組織は廃止すべきであるし2)委員長車、委員長室、担当の事務方の給与など、組織の維持のためにコストがかかっている(「総理の国会出席時間(常会)と説明責任」参照)。、そうでないのであれば党首討論を再生させる道を模索すべきである。このまま何もせず放置し続けることは国会として国民に対して不誠実でしかない。
脚注
本文へ1 | 参議院議員で党首討論を行ったのは蓮舫、山口のほかは、片山虎之助(維新)、大塚耕平(民主)のみでいずれも短時間。 |
---|---|
本文へ2 | 委員長車、委員長室、担当の事務方の給与など、組織の維持のためにコストがかかっている(「総理の国会出席時間(常会)と説明責任」参照)。 |
コメント