内閣不信任(内閣信任)決議案とは何なのか?②
―理論だけではない手段としての内閣不信任(内閣信任)決議案の現実
岸井和
2026.06.23
2内閣不信任決議案の可決事例
前述のように与党が衆議院の過半数を持っているのが通常であるから、内閣不信任決議案が可決される事態はほとんどない。だが、まれに、少数政権の場合や与党内が分裂した場合に可決された事態が生じたことがあるが、次の4例にすぎない。
①第4回国会 不信任決議案(吉田内閣)(1948年12月23日可決)(No1)
吉田内閣は少数与党であり国民の信を問うために召集日には解散することを表明していた。与野党とGHQとの約束に基づいて、内閣不信任決議案は補正予算成立の翌日の12月23日に可決された(賛成227反対130)。解散は憲法69条所定の場合に限るとのGHQ見解もあり、野党提出の不信任決議案の可決を受けて内閣は衆議院を解散した(したがって「馴れ合い解散」ともいわれる)。なお、当時は内閣不信任決議案の最優先審議、他の案件の審議ストップという慣例はなかった。
②第15回国会 吉田内閣不信任決議案(1953年3月14日可決)(No4)
特別会での解散である。吉田総理が予算委員会で「バカヤロウ」と不規則発言したことを受けて、野党が懲罰動議を提出、可決された。懲罰動議を受けて与党自由党内の抗争は激化し、3月13日に野党が内閣不信任決議案を提出すると、14日には自由党鳩山派の大半22名が離党した。これにより内閣不信任決議案は可決され(賛成229反対218)、衆議院は即日解散された。
③第91回国会 大平内閣不信任決議案(1980年5月16日可決)(No19)
自民党内はかねてより田中・大平派と福田派の確執が激しかった。福田派らの反主流派の党刷新連盟はKDD事件、浜田幸一前衆議院議員の証人喚問問題などをめぐり政治倫理の確立を積極的に主張し主流派を揺さぶっていた。5月16日の本会議にあたって主流派の姿勢に不満を感じた反主流派議員約70名は議場に入らなかったため、野党提出の内閣不信任決議案は可決された(賛成243反対187)。その後、本会議がセットされないまま19日に議長応接室で解散詔書が伝達された。
④第126回国会 宮澤内閣不信任決議案(1993年6月18日可決)(No24)
海部内閣以降、政治改革、特に選挙制度改革への熱は日々高まりを見せていた。宮澤内閣に代わった後の第126回国会では与野党がそれぞれ選挙制度改革法案を提出して議論が進められ、総理は「今国会中に選挙制度改革はやる」と公言していたが、与党は党首会談も拒否し改革への道筋は全く見えないまま会期末が近づいた。野党は政治改革を先送りし国民不信を募らせるものだとして内閣不信任決議案を6月17日に提出した。これに応じて、総理の対応に不信を持っていた自民党内の羽田派らの政治改革積極派も野党に同調したため、18日に内閣不信任決議案は可決されるに至った(賛成255反対220)。これを受け、衆議院は即日解散された。
(参考)
内閣不信任決議案が可決されるのは、与党が分裂ないしは与党の造反が出たときである。可決はされなかったが、それに近い状況が生じたこともある。
○第129回国会 羽田内閣(1994年6月(議決前に内閣総辞職))
宮澤内閣の解散総選挙後、非自民の細川連立政権は政治改革を成し遂げたが、国民福祉税構想の失敗、政治資金スキャンダルで1年も経たずに政権を羽田に譲った。しかし、このとき、社会党が連立を離脱したため少数政権となった。野党自民党は連立政権の提出した予算の審議が終了した6月23日を待って同日に内閣不信任決議案を提出した。社会党は与党時代に作成に参画した予算には賛成したものの、少数与党下で内閣不信任決議案が可決されるのは明らかであった。総理は衆議院解散の道を選ぶことはできたが、解散すれば旧制度での選挙となることから、本会議が予定されていた25日に内閣総辞職をし、内閣不信任決議案は消滅した。29日に新たな首班の指名が行われた。
○第150回国会 森内閣不信任決議案(2000年11月21日(加藤の乱失敗で否決))(No29)
森内閣は、密室政治での政権誕生、総理の失言、スキャンダル、相次ぐ閣僚辞任などから大きく支持率を低下させていた。これを機と見て野党が11月20日に提出した内閣不信任決議案に対し、加藤紘一を筆頭に加藤派及び山崎派の自民党議員は賛成する姿勢を示した。与党内の派閥抗争で可決される可能性が高まったが、最終的には与党執行部の強烈な締め付けにより加藤の乱は失敗に終わり、内閣不信任決議案は否決された。これにより、森内閣の基盤は一層弱まるとともに加藤の党内での立場も失墜した。
(参考リンク)
©国会ブログ大学


コメント