内閣不信任(内閣信任)決議案とは何なのか?③
―理論だけではない手段としての内閣不信任(内閣信任)決議案の現実
岸井和
2026.06.29
3内閣不信任決議案を本会議の議題とした直後の解散
内閣不信任決議案が本会議の審議中、議決に至る前に衆議院が解散されたことが6回ある(第28回、88回、100回、147回、162回、214回国会)。これは政治的に与野党ともに解散を望んでいる状況のなか、技術的に舞台を設えた結果でもある。形式美を守る一つの方法でもある。野党としては内閣を解散に追い込んだ体裁をとる一方、与党としては解散がやむを得ない適切な判断だとする双方の阿吽の呼吸によるものである。否決されれば解散の大義はなくなるし、可決後の解散では内閣の面子が立たない。
タイミングは解散詔書を読み上げる本会議の設定にも関わる。何も案件がないまま天皇の国事行為を想定して本会議をセットすることは難しいが、内閣不信任決議案が提出された、あるいは提出予定だとすれば与野党ともに本会議セットを了解しやすい。技術的に本会議セットの理由がつく。内閣不信任決議案を議題宣告すると(あるいは審議途中で)、予想外に解散詔書が伝達されたとの体裁をとるものである。
例えば、2005年8月には、郵政民営化法案が参議院で否決された直後、一気に攻勢を仕掛けたい野党は内閣不信任決議案を提出する一方で、小泉総理は郵政民営化の是非を問うために解散を望んだ。8月8日は他に議題とする案件はなかったが、内閣不信任決議案提出を前提として本会議がセットされていた。
直近の2024年10月については、会期最終日であったが会期延長、閉会中審査の手続を進めずに、内閣不信任決議案の提出を待った。これらの議事が終わると本会議も散会して、会期が終わってしまうからである。なお、会期延長は本会議に上程しないこととなっており、各委員会からの閉会中審査の申し出もなかった。暗黙の裡に解散を前提としていたのである。内閣不信任決議案が提出されると本会議を開き、議題宣告直後に解散された。
4会期末の内閣不信任決議案
内閣不信任決議案が可決される可能性があるときは議場内には異様な緊張感が漂っているが、通常の場合はそんなことはない。表面的には対決の場であるから怒号は飛び交うが気楽な怒号である。最重要議案であることから、実際には、他の重要法案の審議の日程闘争の道具に利用されたり、会期終了の総括的行事、主張の場として使われたり、あるいは内閣が解散を目論んでいる際にそのお膳立てとして用いられることが多い。そのため、表にあるように内閣不信任決議案は会期末近くに提出されることが圧倒的に多い(会期終了日から1週間以内に議決された内閣不信任決議案は、表の左端No欄が黄色くなっている。会期末という言葉の定義は決まっているわけではないが、狭義には会期最終日を示し、より広い意味では一般的に会期終了1週間前程度を意味する)。
<PDFはこちら(再掲)>
会期末に提出される理由は、第一に、一事不再議の原則から早い時点で内閣不信任決議案を議決してしまうと、その後の切り札を失ってしまうことである。第二に、重要法案の成否はしばしば会期末にずれ込むため、その審議妨害戦略としての内閣不信任決議案も会期末に使われることが少なくないことである。第三には、野党にとっては会期末の総括的内閣批判、対決姿勢を示す象徴的な政治行為、参議院選挙前の気勢などの意味があろう。
①他の重要法案の審議を妨害するために提出される内閣不信任決議案
重要法案の審議妨害を意図した内閣不信任決議案は、社会党が編み出した戦法であり、牛歩戦術とあわせて国会の攻防の一つの象徴であった。委員長解任決議案、大臣不信任決議案などと組み合わせて、〇泊〇日といった激しい抵抗の道具となった。
戦後初期の国会では抵抗戦術の手段として内閣不信任決議案が使われることはなかった。しかし、自社55年体制になってから、1956年の鳩山内閣(No6、新教育委員会法案参院審議中)では、内閣不信任決議案の衆議院での審議に要した時間はさほどではなかったが、参議院では他の決議案をめぐり激しい抵抗が続き、国会になってから初めて本会議場に警察官が導員された。このときが内閣不信任決議案を審議遅延の戦術の道具としたはしりと言えよう。
1967年の健保特例法案(No11)の衆議院審議中には、社会党は佐藤内閣不信任決議案を含めて決議案を連発し、牛歩を行い、本会議は5日間を要した。この後、内閣不信任決議案は参議院での対決法案審議中、会期末に提出されるケースが多くなる。
ただ、こうした抵抗は社会党が野党第一会派時代に10年に2回程度と、毎年のようにあったわけではない。特に、日米新安保条約(1960年)、日韓基本条約(1965年)、沖縄返還協定(1971年)など歴史的に大きな条約では、与党も最も強硬戦術をとったことから内閣不信任決議案提出のタイミングすら与えなかった。
対決法案についても不信任決議案提出戦術をとるまでもなく与党が断念に追い込まれたことがある。中曽根内閣の売上税導入法案の時(1987年)には野党は総予算審議を抵抗の足掛かりとし、予算委員長解任決議案などの牛歩で抵抗しつつ、与党内の反対派や世論も追い風に成立断念、廃案に追い込んだ。
海部内閣の時の政治改革法案やPKO法案(1991年)は、内閣不信任決議案を提出するまでもなく、与党内の混乱や答弁の齟齬によりともに廃案となった。
他方で、消費税導入法案(1988年、No22)とPKO法案(1992年、No23)のときについては、内閣不信任ないしは内閣信任決議案が提出され与野党の攻防があったが、与党の切り崩しにより野党の足並みは乱れた。その後、社会党主導であった野党の国会運営は次第に崩れていく。
消費税導入法案については、参議院審議に先立つ12月23日に社会党が単独で竹下内閣不信任決議案を提出した。しかし、同法案については自民、公明、民社の間で合意が形成されており、公明、民社は内閣不信任決議案に賛成はしたものの短時間の本会議審議で終わってしまった。参議院本会議では問責決議案が連発され、社会、共産は牛歩を展開したが、公明、民社は牛歩に参加せず、最後の法案採決の際には社会、共産は欠席した。
PKO法案は、第122回国会に衆議院を通過したが、参議院で継続審査となったのち、123回国会で再度審議が行われた。社会党提出の宮澤内閣不信任決議案は与党提出の内閣信任決議案によって封殺された(後述)。このときも、公明、民社は与党と合意を得ており、信任決議案に賛成した。
1994年に社会党が野党第一会派の立場を失う(村山内閣を除いて)。
その後の新しい衆議院の会派構成にあっては、
1999年の小渕内閣(組織犯罪三法案等、No28)
2003年の小泉内閣(イラク特措法案、No32)
2006年の安倍内閣(教育基本法案、No34)
2007年の安倍内閣(社会保険庁改革関連法案、No35)
2013年の安倍内閣(特定秘密法案、No41)
2015年の安倍内閣(平和安全法制、No42)
2017年の安倍内閣(組織犯罪処罰法案、No45)
2018年の安倍内閣(IR整備法案、No46)
2021年の菅内閣(土地利用規制法案、No48)など、
対立法案を巡り会期末の参議院審議中にたびたび内閣不信任決議案が提出された。
しかしながら、社会党時代とは異なり、法案成立阻止のための時間かせぎという様相は影を潜めた。対決姿勢は明示するが徹底的には抵抗しない。徹夜国会という言葉は死語になりつつある。その理由としては、評判の悪い牛歩という手段がとられなくなって時間をかけられず、長時間演説の手段もとられたが時間をかけるには限度があったこと、もう一つは政権交代可能な状況の中で多数を握る与党に対して抵抗することへの意味を問われ、反対のための反対への批判があったこと、その背景としては、戦争や組合闘争を経験してきた泥臭い社会党とは違って新しい野党はスマートになってしまい議員の質が変化したことなどであろう。
②会期末の行事としての内閣不信任決議案
その一方で、会期末にあたって、総括的に内閣不信任決議案が提出されることも、特に、近年に増えてきている。かつて(野党時代の)日本維新の会は再三再四にわたり「会期末になれば、年中行事のように、否決されて終わりの不信任決議案を出す特定野党の三文芝居」と手厳しく批判しているが、まさにその通りと言わざるをえない。緊張感のない最重要議案の審議となってしまう。
中期的には政権交代の可能性があるとしても、その会期内においては、与党の強引な国会運営への批判、野党提出の法案などはなかなか議題にもならない中で内閣・与党提出の議案が次々と成立していくことへの憤懣を吐き出すためには、内閣不信任決議案を提出して自己主張の場を設けるしかないのだろう。だが、もう少し知恵を出すことが必要なのではないか。
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