国会の攻防(5)

国会の攻防(5)
昭和30年代① ー 警職法改正案、改定日米安保条約

岸井和
2020.09.13

7 抵抗の手段としての不信任決議案等

既に述べたように、衆参本会議において内閣や大臣等に対して不信任決議案等が提出されるのは、大きくいって、第一に与野党の基本的な政策スタンスの相違を背景に内閣総体を批判し、その信任を問う場合、第二に大臣等の個別の責任を問う場合(政策上のミス、失言、スキャンダルについて責任を問う場合)と、第三に野党が強く反対する法案(条約などのその他の議案も含め)の審議の進行に抵抗する道具として使う場合の3つのケースがある。

第一の直接に法案審議とは関係なく内閣全体の信任を問うのは、衆議院の内閣不信任決議案、参議院の内閣総理大臣問責決議案であり、可決されたことはそれぞれ4件ずつある。これは、衆議院においては与党内の造反があった場合、参議院では衆参のねじれにより政権与党が過半数を維持していない場合である。第二の大臣等の個別の責任を問うのは、衆議院の大臣不信任決議案、参議院の(総理以外の)大臣問責決議案であり、可決されたことはそれぞれ1件と7件であり、同じように与党内の対立か衆参ねじれを原因としている。

しかしながら、第三の法案審議に抵抗する目的で提出された不信任決議案等が可決されたことはない。55年体制時の社会党の対決法案に対する共通する戦略は、まず、委員会審査においては慎重審議を主張し、答弁が不十分ならば審議拒否を行い、時間をかせぐ。それによって会期末に近づけば、(慎重審議とは矛盾するかもしれないが)会期延長に反対し、最終盤には不信任決議案等を提出して法案の会期切れ審査未了廃案に追い込むことであった。特に、正副議長不信任決議案、常任委員長解任決議案は、ほぼすべてが法案審議の妨害のためであり、その理屈付けは、法案審議の進め方が与党寄りであること、議長や委員長の職権による会議開会、法案の強行採決である。

だが、衆参の本会議において正副議長不信任案が可決されたのは衆議院副議長の1件のみ、委員長解任決議案が可決されたのは参議院での3件のみである。しかもこのいずれも野党による法案審議妨害のためではなく、さらに言えば上記の三類型にも当てはまらないイレギュラーな事例ともいえる。

衆議院における副議長不信任決議案が可決されたのは、法案審議をめぐる与野党対立のなかで与党が報復として提出したものである1)与党が衆議院副議長不信任決議案を提出したことは過去2例あり、本会議の議題となったのはこの1件のみである(1961年第38回国会、衆議院副長久保田鶴松君不信任決議案。可決後、副議長辞任。国会の攻防(4)参照)。もう1件も野党の議長不信任決議案に対抗して提出されたものだが、正副議長不信任決議案とも同日に撤回された(1956年第25回国会、衆議院副議長杉山元治郎君不信任決議案)。詳細は後述。参議院で可決された委員長解任決議案3件は、法案審議とは直接関係のない衆参ねじれ下における自民党委員長の無許可海外出張は別として、2件については野党委員長が法案審議をサボタージュしたがためにやはり与党が解任して与党委員長に交代させたものである。このようなことは、全面的な対決となり事態をより混迷させてしまうので、与党は野党出身の副議長不信任決議案及び野党委員長の解任決議案提出は一般的には自制することから、これらが可決されることは例外的である。

つまり、法案審議を妨害するための不信任決議案等への対応としては、与党は少なくとも本会議場内の行動としては一致団結しており、明示的に野党を利する行動をとることはない。与党議員は仮に法案に批判的であったとしても、不信任決議案等には反対している。とはいえ、これは野党の敗北とは言えない。この場合の野党の立場から見れば、不信任決議案等を提出するのは法案に抵抗することにあり、不信任決議案等が可決されるかは問題ではない。時間と労力をかけることで抵抗の強い意志を示し、法案の修正に追い込むか、あわよくば廃案に追い込むことが目的であるからである。

それでは、戦後の国会の歴史の中で、不信任決議案等を提出して法案審議に抵抗することで、実際の法案成立阻止に成功してきたのであろうか?与党は抵抗を乗り越えて法案成立にこぎつけているのであろうか?ここでは、実例をふまえて、与野党の攻防とその成否を検証していく。攻防の強さのメルクマール、つまり、野党が本気で法案に抵抗したかどうかを示す指標として、不信任決議案等が対決法案の審議に付随して提出されたものであること、その提出件数がある程度多いこと、さらには本会議における不信任決議案等と法案採決の一連の議事の所要時間の長さ―つまり、成立に向けた与党の粘着性と廃案に向けた野党の粘着性を表している―を考慮しつつ、時代ごとに実例を取り上げ、その成果をみていく。

(1)1955年~1964年(昭和30年代)

1955年には社会党と自民党が結成され、いわゆる55年体制の始まりの年であった。この10年間における国会内での与野党の大きな対立は、憲法問題、小選挙区法案、労働問題(電力・石炭事業のスト規制法延長案、職業安定法・緊急失対法改正案)、治安関係(警察官職務執行法改正案、政治的暴力行為防止法案、暴力行為処罰法改正案)、自衛隊関連の法案、日米安保条約改定などを巡るものであった。国会内の与野党の調整方法については、いわゆる国対政治が確立されていなかった。野党は激しい物理的抵抗をしばしば展開し、徹夜国会は頻繁に生じ、暴力行為が繰り返され、国会内に議長が軟禁されたり、警察官を導入したりする無秩序状態もたびたび生じた。混乱が生じるたびに国会正常化に向けた与野党合意が取り交わされたが、すぐに合意は破られた。混乱収拾につき国対ではなく自社の党首(自民党総裁(=総理大臣)と社会党委員長)自らが打開策を協議することもあった(鳩山・鈴木会談(第25回国会)、岸・鈴木会談(第30回国会))。議長が与野党を仲介する場面も多く、責任を問われることもあるが、その判断は法案成否に大きな影響を与えた。自民党内の反主流派の背後での動きが法案成立を妨げることもあった。また、混乱は、衆議院のみならず良識の府たる参議院においても数多く生じただけではなく、かえって衆議院よりも激しいことも多くあった。参議院における対決法案の本会議審議は会期末近くなることがしばしばであり、最後の攻防の場となったからである。結果として、重要法案が成立しないこともあった。

ここで、混乱した議事の本会議運営について簡単に触れておこう。平時の場合、本会議の議事内容、進行については、本会議開会前に開かれる議院運営委員会で協議される。ここでその日の本会議で議題となる案件、質疑や討論の人数や時間等が与野党の合意で決められ、本会議の所要時間も事前にわかる。しかし、戦時になると議院運営委員会を開くことができなくなり、本会議場の中でひとつひとつ議事を決めていくことになる。これを決めるにあたっては、動議という手段が用いられる。動議も事前に提出されているのが通常であるが、戦時になると議事の進行状況に応じて本会議場で突然提出される。さらには、不信任決議案等も突如提出される。これらが提出されると議場内の与野党の交渉で次にどの議案や動議を議題とするかが話し合われる。野党は休憩の動議、散会の動議を提出し、あるいは案件ごとに質疑や討論を要求する。質疑や討論は長時間演説につながる。与党は、発言時間制限の動議を提出し長時間演説を阻止しようとする。制限時間を超過して発言する場合には、議長の「衛視執行」の命により衛視が発言者を壇上から引きずり降ろすこともあった。さらには、多数の野党議員が質疑や討論を希望するので、途中で、質疑終局の動議や討論終局の動議が提出される。不信任決議案等についてはもちろん、これらの議事進行に関する動議が提出されるたびに、野党はその動議の可否について記名採決を求める。出席議員の5分の1以上の要求があれば記名採決としなければならず(憲法第57条第3項、衆議員規則第152条、参議院規則第137条2項)、野党に牛歩の機会が与えられることとなる。議事はいつ終わるのかわからなくなる。

この時期において、前記のメルクマールをもとに、激しい攻防が繰り広げられたのは第24回国会(小選挙区法案、新教育委員会法案)、第25回国会(スト規制法延長案)、第38回国会(政防法案など)、第42回国会(石炭対策法案)、第43回国会(職安法・失対法改正案)の5つのケースである。(下の表参照) ただ、不信任決議案等は提出されなかったものの、これら以上に対立したのは、第30回国会、第34回国会の警職法改正案と改定日米安保条約であった。

①警職法改正案(1958年、第30回国会)

野党の抵抗戦術として不信任案等は提出されていないものの、この期間の中で重要議案の審議において大きな混乱をみたものに、警察官職務執行法改正案と改定日米安保条約があげられよう。

1955年の左右社会党の統一綱領には、議会主義を謳いつつも院外大衆闘争の重視を表明しているが、「両者の位置関係についてはこれをあいまいにしている2)原彬久 「戦後のなかの日本社会党」中公新書 2000年」。そして、社会党は両者の相乗的効果をねらって審議を停滞させる戦略をとってはいるが、審議の最終局面において、不信任決議案等を提出して議会内で戦う場合と国会審議を放棄して院外活動に移ってしまう場合とに分かれた。社会党が最も強く反対した警職法改正案と改定日米安保条約については後者の道を進んだことになる。

警職法改正案は、勤評闘争や王子製紙争議などを念頭に労働争議の暴力化を防ぐ目的で警察官の権限を強化する内容であった。施政方針演説にも言及されず、提出予定の法案にも掲載されていなかったこの法案を岸信介政権は10月8日に突如衆議院に提出した。社会党は戦前の治安警察法にあたる民主主義を根底から破壊する悪法だと最初から強烈に反発し、衆参両院の本会議・委員会には一切出席しない方針を固めた。星島二郎議長が法案を地方行政委員会に強行付託すると野党は委員室を占拠して審査を妨害した。やむを得ず法案は委員会から差戻され、10月17日には衆議院本会議において社会党が同日に提出した「警職法改正案撤回要求決議案」を否決した後、趣旨説明を聴き審議入りとなったが、すでに11月7日の会期末までの成立はまったく困難な状況であった。他方で、国会の外では社会党中央委員会が警職法反対国民運動の展開を進め、「デートもできない警職法」に対する国民の反対運動は幅広く盛り上がっていった。さらに、会期末が近づいた11月4日には社会党議員らが議場周囲を取り囲んでいる間に、椎熊三郎副議長が議長席ではなく自民党席から本会議の開会を宣告して議事を進め、会期延長を奇襲で議決した。社会党は延長無効を訴え、延長後の国会には登院せず、院外ではゼネスト、文化人や婦人の抗議デモが広がる。与党内からも政府への非難が出始め、結局は11月22日には自社党首会談を開き、岸総理は法案の審査未了廃案を認めざるをえなかった。会期延長の強行も空しく、警職法改正案は衆議院通過すら果たすことができなかったのである。社会党は院内での抵抗ではなく、院外での大衆運動を展開することで、廃案を勝ち取った。

 

②改定日米安保条約3)日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約の締結について承認を求めるの件外1件(1960年、第34回国会)

警職法改正案の2年後の日米安保条約の改定についても、社会党は院外大衆運動戦略をとった。改定日米安保条約の提出される前の第33回国会は、その前哨戦となる。11月27日、社会党が主導するなか、安保条約改定阻止の国民会議主催のデモ隊が国会正面玄関から構内になだれこみ、デモ隊と警察官に多数の負傷者が出た。衆議院議長加藤鐐五郎は、12月17日の本会議で議長職権でデモ隊を先導した社会党議員4名を懲罰委員会に付すことを宣告した。これに憤慨した社会党は、基本的人権に反するデモ規制法4)正式名称は、国会の審議権の確保のための秩序保持に関する法律案。大衆運動に備えようとして加藤議長が試案を示し、自民が提出した議員立法であるが、自民の単独審議で衆議院を通過したのみで最終的には参議院で継続となった。その後、第36回国会まで継続されたが、最終的には衆議院解散により廃案となる。を制定しようとする策動、及び通常の手続きを経ないで議長職権によって懲罰委員会に付託したことを理由に議長不信任決議案を提出して対抗した(1221日否決)。さらに、自民単独でのデモ規制法案の本会議上程に対し再度議長不信任決議案を会期終了前々日の25日に提出(議院運営委員会で、社会党欠席のなか、一事不再議(国会の召集と会期(8)(9)参照)で本会議に上程しないことを決めた)するなど、対立の火種を次の国会に残した。

岸内閣にとって執念といえる政治課題であった改定日米安保条約は次の第34回国会の1960年2月5日に衆議院に提出された。米軍の配置や行動につき両国政府間で事前協議をすることや日本内の内乱に米軍が介入できることを削除するとともに、在日米軍は日本以外の極東地域の活動も可能となり米国の世界戦略の枠組みに日本が入ることを意味した。社会党は、徹底審議、会期切れ廃案の作戦をとる。与党は日米安保条約等特別委員会を設置して条約審査を円滑に進めようとしたが、社会党が「極東の範囲」などについて追及すると、政府の答弁が二転三転したために審議は遅々として進まなかった。しかし、岸総理にとって、警職法改正案のように廃案とするわけには絶対にいかなかった。

会期末が迫るなか、与党は5月19日に50日間の会期延長を申し入れた。社会党は会期延長をさせないため本会議開会阻止をはかる。ところが、与党は同日の夜の10時25分に休憩中の特別委員会を突如再開し、質疑を打ち切り、強行採決で条約を議決した。直後に本会議の本鈴も鳴り、清瀬一郎衆議院議長を軟禁する野党議員らを警察官が排除した。衛視に守られて議場に入った議長は午後11時49分に会期延長を議決、翌日未明に本会議を開くことを宣告した。

翌20日午前零時6分、本会議は再開され、自民党のみが出席して条約が承認された。わずか十数分の本会議であった。会期延長をしたため、憲法の規定により参議院で承認されなくても30日後には自然承認となる。社会党は、ここからは国会に出てこず、院外の大衆運動に重点を移した。また、条約承認の本会議強行に反発した河野一郎、三木武夫ら多数の自民党反主流派議員が欠席していた。

参議院では改定日米安保条約はほとんど審議はされず、衆議院通過30日後の6月19日午前零時に国会としての承認が決まった。しかし、国会外では安保反対、岸総理退陣を訴える大衆運動が激化し、15日にはデモ隊が国会になだれ込んだ際に死傷者が出るほどとなり、アイゼンハワー米国大統領の訪日中止も決断せざるを得なかった。岸内閣は改定日米安保条約の批准書交換を終えるとともに総辞職を決めた。

脚注

脚注
本文へ1 与党が衆議院副議長不信任決議案を提出したことは過去2例あり、本会議の議題となったのはこの1件のみである(1961年第38回国会、衆議院副長久保田鶴松君不信任決議案。可決後、副議長辞任。国会の攻防(4)参照)。もう1件も野党の議長不信任決議案に対抗して提出されたものだが、正副議長不信任決議案とも同日に撤回された(1956年第25回国会、衆議院副議長杉山元治郎君不信任決議案)。詳細は後述
本文へ2 原彬久 「戦後のなかの日本社会党」中公新書 2000年
本文へ3 日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約の締結について承認を求めるの件外1件
本文へ4 正式名称は、国会の審議権の確保のための秩序保持に関する法律案。大衆運動に備えようとして加藤議長が試案を示し、自民が提出した議員立法であるが、自民の単独審議で衆議院を通過したのみで最終的には参議院で継続となった。その後、第36回国会まで継続されたが、最終的には衆議院解散により廃案となる。

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