国会の攻防(2)

国会の攻防(2)
内閣不信任決議案の可決、内閣信任決議

岸井和
2020.08.20

(2)内閣不信任決議案の可決

新憲法になって以降、内閣不信任決議案が可決されたことは4回ある。最初の一回目は別として、多数派である与党から造反が出たことによる。

①第2次吉田茂内閣

最初の内閣不信任決議案可決の事態は、戦後政治の揺籃期、つまり、不安定な政党構成、GHQの存在、流動的な憲法解釈を理由として起こった。

第3回国会の19481014日に、芦田均内閣(社会、民主、国協の連立)の総辞職を受け総理指名が行われるが、誕生した第2次吉田茂内閣は民主自由党の少数政権であった。政権基盤の強化を図りたい吉田総理は、次の第4回国会の施政方針演説において、国民の信を問うために冒頭解散を行うべきだと、解散・総選挙の意向を明確に述べた。一方の野党(前政権の与党三党)は昭電疑獄の影響を恐れ、総選挙には消極的であった。

このなかで、GHQの民政局は、解散は憲法69条の所定の場合に限るとの立場であった。しかし、GHQ内には、少数政権では政権運営は困難であろうとの考えもあり、各方面の考えの妥協の産物として、野党が内閣不信任決議案を提出し、それを可決したうえで解散という手法がとられた。かくして、19481223日に内閣不信任決議案は可決され、即日解散された。解散を避けたい野党から提出した不信任決議案を可決させ形式的に成果をとらせ、GHQのいう69条解散という体裁をとり、実質的には吉田の意図を通した。「馴れ合い解散」と呼ばれるゆえんである。

 

②第4次吉田茂内閣

2回目の内閣不信任決議案可決の事例は、1953314日(第15回国会)、同様に吉田内閣に対するものである。公職追放を解除になった鳩山一郎らと吉田との自由党内の主導権争いが可決の大きな原因であった。

この前哨戦として、第4次吉田内閣成立後間もなくの1952年11月には、池田勇人通産大臣不信任案が鳩山系議員の欠席により可決されていた。

対立が決定的となったのは、1953年2月の衆議院予算委員会で、総理は社会党議員の質問に対し「バカヤロウ」と答弁し、総理に対する懲罰動議提出へとつながったことに始まる。3月2日には鳩山派らの欠席により本会議で懲罰動議が可決されてしまう。総理は欠席した大臣らを即刻罷免した。その後3月14日には鳩山派の一部は自由党から離脱し分党派自由党(院内会派)を結成する。同じ日に衆議院本会議で左右両派社会党提出の内閣不信任決議案の議事が行われたが、鳩山派22人が賛成したため可決された。衆議院は即日解散された。「バカヤロウ解散」といわれる。

 

③第2次大平正芳内閣

3回目の内閣不信任決議案可決は、1980年(第91回国会)の大平正芳内閣に対するものである。前年の総選挙で一般消費税を掲げた大平総理は敗北を喫し、反主流派は大平の退陣を強く要求した。自民党内の抗争は収拾できず、選挙後の衆議院での総理指名では、主流派は大平に、反主流派は福田赳夫に投票し、自民党の票は分裂した。両者の決選投票を経て大平が第2次内閣を組織はしたものの、抗争は翌年に持ち込まれる。

総選挙の結果に自信を強めた社会、公明、民社は参議院選挙での協力方針を進めつつ、社会党は1980年夏の参議院通常選挙を目前にして会期終盤の516日内閣不信任決議案を提出したが、このとき、決議案が可決されるとは与野党ともに考えていなかった。

自民の反主流派が大平政権への対応について協議を続けている最中に本会議は開会され、内閣不信任決議案の議事は進行し、多数の反主流派が採決に出欠せず決議案は可決されてしまった。「ハプニング解散」と呼ばれる。3日後の5月19日に通例の本会議場ではなく議長応接室において解散詔書が衆議院に伝達された。

 

④宮澤喜一内閣

4回目の、直近の内閣不信任決議案可決は1993年(第126回国会)の宮澤喜一内閣に対するものである。宮澤内閣の最大の課題は、前内閣から引き継いでいたPKO法案と政治改革であった。PKO法案は徹夜国会を経てかろうじて成立した。他方で、政治改革法案については、海部前総理がその廃案の事態に「重大な覚悟」で臨むと発言したのも空しく政権を追われ、宮澤総理も「絶対にやります」と断言したもののそれが命取りになった。前年に、自民党最大派閥の竹下派は分裂し、それは自民党の分裂となり、表向きには政治改革に対する積極派と消極派へとつながっていた。党執行部は消極派が占めており、総理も党内のコントロールができなくなり、政治改革実現の見通しは全く立たなかった。

野党はこの状況をみて、6月17日に内閣不信任決議案を提出する。翌日の採決にあたっては自民党内からも39人の改革積極派が決議案賛成に回り、可決された。宮澤内閣は即日解散を行い、総選挙の結果、自民党が政権を失うこととなる。総理が「絶対にやる」と言った政治改革が果たせずに解散したことから「嘘つき解散」と呼ばれる。

内閣不信任決議案は数多く提出されてきたが、可決されたのは上記の4例しかない。最初の吉田内閣の時を除いて、いずれも与党が分裂ないしは与党内から造反が出て可決されたものである。通常、内閣は衆議院の過半数の支持がなければ成立しないわけであるから、政権支持政党が何らかの理由で分裂しない限りは内閣不信任決議案が可決されることはなく、それは野党が政権批判をし自らの存在をアピールのために使われるか、野党が反対する法案の成立を阻止するために使われることがほとんどである。したがって、否決されるのが常道である。

 

⑤内閣不信任決議案の本会議上程前に内閣総辞職

他方で、与党が明らかに過半数を失って、内閣不信任決議案が可決されそうな場合は、それが議題となる前に内閣が総辞職したこともある。1954年12月6日(第20回国会)提出の第五次吉田内閣不信任決議案と1994年6月23日(第129回国会)提出の羽田孜内閣不信任決議案がこれにあたる。吉田内閣は、与党自由党からの脱党者が民主党を結成したため少数内閣になっていた。提出翌日に総辞職している。また、羽田内閣は社会党が連立政権から離脱していたため最初から少数政権であった。提出の翌々日に総辞職している(総予算作成に参加した社会党はその成立までは政権に協力するとしていた)。これらは内閣不信任決議案の可決の事例ではないが、その場合と同様に与党の分裂により可決が自明の状況にあったといえる。両方のケースにおいて、内閣不信任決議案は、内閣総辞職により消滅している。

内閣不信任決議案が本会議の議題となる前、あるいは審議している最中に衆議院が解散されることもある。このケースの場合は状況に応じて多少の差異はあるが、一般的には、内閣としてはあらかじめ解散を決意していて、さらには、野党とも内々に意思疎通をしている。野党に決議案を提出させることで内閣と衆議院との正常な関係ではないとの擬制のうえに立って、実際の解散行為を行うということが多い。

 

(3)内閣信任決議(案)(衆議院)

内閣信任決議案が否決されると、内閣不信任決議案が可決された場合と同様に、憲法69条の規定により、内閣は総辞職か衆議院の解散のどちらかを選択することとなる。信任・不信任とも似たような決議を表と裏から表現しているともみえる。しかし、内閣はそもそも衆議院の信任によって発足しているわけだから、内閣信任決議はわざわざ改めて信任を確認するということであり、内閣の存続を積極的に否定しようとする不信任決議とはニュアンスが異なる。

内閣信任決議案は与党の政治的な戦術としての意味合いが強い。与党としては、あえて時間をかけて院としての信任の意を示す必要はないわけで、政治的閉塞状況を打開するためにやむを得ず提出するものである。したがって、提出されたのは過去に上記3例しかなく、採決にまで至ったことは2回のみである。提出した理由は、野党の抵抗手段を封じるためであったり、参議院における内閣総理大臣問責決議案可決の効果を逆に政治的に減殺するためであったりする。

 

①鳩山一郎内閣信任決議案

最初に内閣信任決議案が提出されたのは、1956年(第24回国会)の鳩山内閣の時である。鳩山内閣は憲法改正を可能とするよう衆議院での議席を確保するために小選挙区法案を提出した。与党が本会議での採決を目指す段階に入って、野党の社会党は猛反発し、4国務大臣不信任決議案、16常任委員長解任決議案やさまざまな動議を提出、法案の衆議院通過の阻止を図った。与党は徹夜国会が続き大臣不信任案の審議が終わらないことを恐れ、内閣信任決議案を可決することで全大臣が信任されることとなり、個別の大臣の不信任決議案の議事を封殺できるとし、野党は前例のない信任決議案を強引に本会議で先議することに反発した。しかし、最終的には議長の調停の結果、法案の取り扱いについて与野党の合意が見られた。内閣信任決議案は本会議上程が決定されたもののその直後に撤回され、野党提出の不信任決議案等も撤回された。したがって、採決には至っていない。

 

②宮澤喜一内閣信任決議案

2回目は、1992年(第123回国会)のPKO法案採決の際の宮沢内閣信任決議案である。PKO法案は前年9月(第121回国会)に海部俊樹内閣が提出したものである。同時期に審議されていた政治改革法案が廃案となったことから海部内閣は退陣したが、PKO法案は継続審査となって宮沢内閣に引き継がれた。第122回国会では自公の賛成で衆議院を通過したが、強行採決への批判もあるなか残り会期が短いことから参議院において継続審査となった。

次の会期の1992年4月から参議院の審議に入ると、一方では自公民3党間で法案の大幅な修正で合意がみられ、他方では社共の抵抗には拍車がかかった、6月上旬の委員会の強行採決ののち、本会議では総理問責決議案などが提出され、5日間にも及ぶ徹夜国会を経てようやく参議院を通過した。法案は衆議院に送付され(会期不継続の原則により衆議院は審議を再度行う。国会の召集と会期(6)参照リンクを貼る)、社共の姿勢は前国会以上に激化し、不信任決議案などによる徹底抗戦を行い本会議は4日間にわたった。

これに対し、自民が法案に関係する大臣の不信任案審議が連発される事態を阻止するため、先んじて内閣信任決議案を提出したものである。同決議案が採決されるのは初めてであり、6月14日に与党の自民に加え、野党の公明、民社の賛成により可決された。翌日の法案採決にあたり社会党は退場し、内閣信任決議案同様に自公民の賛成により可決、成立となった。なお、社会党は内閣不信任決議案を提出したが一時不再議により議決対象とならないため撤回し、また、解散総選挙に追い込むためとして党所属の全議員の辞職願を提出した。

 

③福田康夫内閣信任決議

直近の事例は、2008年(第169回国会)の福田内閣信任決議である。これは、前述のように、衆参ねじれ国会の状況のなかで、6月11日に参議院において福田内閣総理大臣問責決議案が可決されたため、翌日に与党は衆議院において福田内閣信任決議案を可決し、第一院である衆議院の内閣に対する信任を明確にし、その正当性を主張する方策をとったものである。そのため、過去2例の野党の抵抗手段を封じ、議案の審査を促進しようとする内閣信任決議案とは提出の政治的意味合いが異なる。参議院において総理大臣に対する問責決議案が可決されるということが初例であったがゆえの対応であろう。

内閣信任決議案否決の場合については憲法にも規定されているが、本来衆議院多数派が信任している内閣に対して信任決議案を提出することは法的にはあまり意味がない。意味を持つのは、政治的に与党が防御的攻撃をするための手段としてである。法案審議にからんで野党が大臣不信任決議案などを連発することを阻止すること、あるいは衆参ねじれ状況下で総理大臣問責決議案が可決された場合に政権の正統性を明確にすることにある。しかし、前者の場合も野党が牛歩で抵抗する機会を与えることになるし、他の委員長解任決議案などの提出は防ぐことはできない。また、麻生太郎内閣や野田佳彦内閣のように事前に衆議院で内閣不信任決議案を否決している場合も含め、問責決議案可決への対抗手段として使っても政権の延命にはつながっていない。法的に正当性を示しても現実には無視されてきた。ねじれ問題の本質的解決にはつながっていないからである。したがって、総理大臣に対する問責決議案が可決された最後の例、安倍内閣は国会において内閣信任決議案提出という直接の対応はせず、参議院選挙に勝利することで状況を根本的に解決する道を選んでいる。こうしたことから、内閣信任決議案を与党が積極的に提出するメリットはあまり見当たらず、苦し紛れの一手ということになろう。

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