THE FACTS ― 参議院議長(2)

THE FACTS ― 参議院議長(2)

岸井和
2023.01.23

1参議院議長の出身学校、参議院議員となる前の主な職歴

貴族院時代の議長は、初代の伊藤博文を除き、大名家(蜂須賀、徳川、松平)、五摂家(近衛)などの出身者のみであり、ほとんどが最上位の公爵、明治維新前の特段に家格の高い血筋から選ばれていた。明らかに庶民から隔絶した階層による支配で、民党の影響を排除しようとする意図が見てとれる。特に、徳川宗家16代の徳川家達は貴族院の57年の歴史にあって、約30年にわたって議長を勤めた。

1947年に参議院が創設されて以降、1992年に13人目の議長として就任した原文兵衛に至るまで、戦前官僚(軍、満鉄を含み)出身者が8人と多く、出身学校も東京帝国大学を始めとする官学出身者が9人と圧倒的に多い。しかし、その後の14人目から現在の24人目まで官僚出身議長はいなくなる(江田五月は裁判官出身であるが官僚経験はない)。

 

緑風会の議長

華族制度は廃止され、参議院の議員は民選となったため、議長についても旧公爵家から選出するわけにはいかなくなる。それでも、初代議長は松平恒雄で会津藩主容保の息子であり、さらに松平を含め佐藤尚武、河井彌八は官学出身者で戦前官僚として高官を極め貴族院の勅選議員相当と考えられる(河井は現に勅選議員であった)。貴族院の人材供給システムが実質的には引き継がれたとも思われるとともに、3人目までの議長は緑風会に所属し新たな自律的な参議院を目指したことを前提としつつも、それは政党政治から一線を画す戦前の貴族院の影響下にあったとも考えられなくもない。

松野鶴平、重宗雄三、河野謙三議長

参議院議長として独自の能力を発揮した4人目から6人目の松野、重宗、河野は異なる経歴を持つ。学歴については、重宗は官学、東京高等工業学校(現在の東京工業大学)付属出身ではあるが帝大ではなく、松野、河野は私学出身である。職歴も松野は戦前の政友会衆議院議員を経験した政党政治家、重宗は明電舎社長、実業家出身の貴族院議員、河野は大日本人造肥料に勤務後、公職追放となった兄一郎の代理として衆議院選挙に当選、兄の復帰後に参議院議員となった。55年体制が生まれ参議院も政党化が進む時代において、参議院の自立性を死守するために定型的な経歴とは異なる強いリーダーシップを持つ議長が必要であったのであろう。

野党の支持を得て議長となった河野以降は議長は党籍を離脱する慣例が出来上がる。しかしこれは、議長の中立公正の立場を明示することとは裏腹に真に議長を支えるものがいなくなることを意味し、議長は自民党内での影響力を維持することが難しくなってくる。

 

帝大・官僚出身議長の時代

その後は元に復して官僚出身の議長が多くなる。河野の後の7人目の安井謙から13人目の原までの7人のうち、5人が戦前の帝国大学・官学、戦前官僚出身と貴族院的人材に戻った。河野が退任するときには参議院が誕生して30年が経過しており、この7人は戦後に政界入りして議長となり、戦前体質から戦後体質への架け橋になったのかもしれない。強烈な個性を持つ前任の3人への反省から政権に対して強い姿勢で臨む議長は避けられ、参議院において一定の経験を積んだ優秀で穏便な発想で議院を運営する人材が好まれた。この間、参議院としては比較的安定的な運営が進められた。

その一例として議長不信任決議案を見てみる。この7人の議長が在職した17年間の間に4回しか議長不信任は提出されておらず(いずれも共産党提出)、しかも全て記名ではなく起立で採決が行われている(重宗に対しては5回ですべて記名採決。野党の支持を得て議長となった河野に対しては2回だがいずれも起立採決。この後の斎藤十朗に対しては2回、いずれも記名採決。上記の結果はいずれも否決)。野党の議長に対する姿勢は激しくないといえる。与野党が決定的対立に至らないよう良識の府としての立場を固めていった。

 

地方議会・タレント出身議長(官僚出身者の後退)

原の次、1995年に就任した斎藤以降2022年に至るまでの11人のうち、裁判官出身の江田を除き官出身者は姿を消すことになる。また、東大出身者も江田と尾辻秀久(中退)を除いていなくなり、ほぼすべての議長の出身校は異なっている。これまでと異なり、職歴も学歴も多様になった。時期的には55年体制の崩壊と重なっている。

近年の参議院議員となる者の前歴は、地方議会(首長を含む)が多く、続いて、国家公務員、タレント、民間企業社員、労働組合などとなっている。貴族院時代のことを考えれば地方議会や労組、女優出身者が議員となったり、ましてや議長になることはあり得ない話であろう。50年近くをかけて参議院は履歴から見る限りは貴族院的なものから脱したのかもしれない。それとともに、出身学校も私学、専門学校、宝塚など特定の傾向はなくなり多彩なものとなった。

参議院議長も参議院議員の経歴を当然のことながら反映している。地方議会出身者が5人と多数を占める。自民党の8人に限れば地方議会5人、女優2人となっている。地方議会出身で参議院選挙区選挙での地盤を固めるか、タレントの知名度を生かして比例区での集票を確実にして、当選回数を重ねることが必要となっている。

しかし、官僚出身議長がいなくなったのはどういう理由なのか。官僚出身の参議院議員は多数存在するが議長にはならない。参議院議員は大臣を何回も経験することはほとんどなく、政権とは一定の距離を置いている。決算審査の重視に表れているように、政府に対するチェック機能は参議院の役割とされている。それは政府と密接にある衆議院に対する独自性を主張することでもある。政府に参画することよりも、参議院としての一体性を保ち、政府や衆議院に対して対峙していく姿勢が重要となる。

そのためには、特に自民党においては党務を経験し党内を把握しひいては参議院全体としての存在意義を守ることがリーダーには求められ、政策論争を展開することも重要だがそれ以上に、参議院全体を見渡して各議員、院全体の調整を果たし院の独自性と利益を守る能力が決定的に必要である。それには官僚の能力よりも党人の存在が不可欠となる。衆参ねじれを利用してまでも参議院の権限向上を図るのは党人の凄さである。議長の前段階とされる自民党参議院議員会長についても1997年の坂野重信を最後に官僚出身者はいなくなっている。議長とはなっていないが参議院のドンと言われた村上正邦(会社員)、青木幹雄(地方議会)、輿石東(教員、教育組合)も官僚出身ではなかった。

 

2参議院議長就任時の当選回数、年齢、政府・党内役職の経歴

議長となるまでの在職期間

参議院議員となってから議長となるまでの最長期間は山東昭子の当選8回、在職年数は37年である(参議院当選8回は史上最多)。2番目は尾辻の当選6回、在職年数は33年である。

ただし、衆議院議員歴を含めると西岡武夫は議員在職年数42年近くとなり最も長期である。

 

議長就任時の年齢

就任時の年齢は尾辻の81歳が最高齢で、以下、原の79歳、伊達忠一と山東の77歳が続く。最も若くして議長となったのは斎藤で55歳、唯一の50歳台参議院議長である。斎藤は32歳のときに補欠選挙で初当選、46歳で入閣と、参議院議員としてのキャリアとしては最も早いケースとなろう。

 

参議院議長となるまでのキャリアパス

参議院では概ね当選4~5回で議長に選ばれることが多い。参議院議員として在職20年~25年である。特に自民党の場合、衆議院とは異なってキャリアアップの道筋が定型化され、官僚的ともいえる制度となっている。衆議院のように総理を目指して党内の闘争を潜り抜けていくというよりは、参議院の秩序維持のために対立は避けられ、年功序列的に地位が高くなっていく。河野退任以降は議長の任期も3年が通例となっているので議長人事の先は見通せる。

自民党においては「国務大臣→参議院幹事長(党務)→参議院議員会長(党務)→参議院議長」というのが典型的である。当選2回で大臣となり、3回で参議院幹事長、議員会長、4回で議長となる。

参議院議員が国務大臣を複数回経験することは少なく、政府の役職を経験するよりも党務を経験し、参議院自民党を掌握し、衆議院に対抗するだけの権威を身につけ、その上で公職としての議長の座に就き、野党を含めた参議院全体を率いていくことを求められている。

倉田寛之、扇千景、山東は参議院自民党の要職についていないが、倉田は井上裕の議長辞任後の緊急登板であったこと、扇は保守党党首であったこと、山東は最多当選者であったことが考慮されたのであろう。

また、衆議院議長は派閥領袖経験者が就くことが慣例となりつつあるが、参議院では山東のみである。これは参議院議員で領袖となるものが殆どいない(山東と前述の村上のみ)ことによる。

他方で、若くして決められた出世階段を昇りつめてしまうと、その後は用意されておらず処遇の在り方には難しいものがある。衆議院議長も「上がり」ポストとは言われるものの、自民党の派閥会長経験者ということもあり党内に一定の基盤を持ち続けているが、参議院議長の場合はそうした基盤が弱い。

65歳の土屋義彦は議長を辞任して埼玉知事となり自ら次の道を見出だした。60歳の時に選挙制度改革の与野党調停に失敗した斎藤は議長辞任後もしばらく自民党に復党することもなかった。議長に就任することで党内や派閥内での権限もほとんど失っており、政治的基盤がなくなってしまう。参議院で権力を維持し続けるためには青木らのように議長にならずに、党内の根を絶たないことである。

なお、民主党の江田は、議長退任後、法務大臣となっている。ただし、これには三権の長、議長経験者としての身の処し方として批判はある。

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