THE FACTS ― 参議院議長(1)

THE FACTS  参議院議長(1)

岸井和
2022.12.15

1参議院議長一覧
2在任期間が長い参議院議長(松野鶴平、重宗雄三、河野謙三ほか)
3在任期間の短い参議院議長
4任期途中で退任した参議院議長(河井彌八、土屋義彦、斎藤十朗、井上裕ほか)

1参議院議長一覧

参議院議長は、下の表のとおり新憲法で参議院が設置されて以来75年間で、延べ33人が選出されている。再任重複を除くと24人である(令和4年12月現在)。

参議院議長は3年で交代することを原則とする。衆議院とは異なり解散がないので、3年ごとの参議院の通常選挙にあわせ、その選挙後に開かれる国会の召集日に新議長が選挙される慣例である。

議長の任期が法的に3年と決まっているわけではなく、議長が議席を失っていない限りはその職に留まることは可能ではあるが、半数改選を受けた直後の国会召集日に「先般の通常選挙により参議院は議員の半数が改選された よって改選後初の国会が召集された  この機会に参議院議長を辞任いたしたい  右お願いする」との辞任願が提出され、本会議で辞任を許可したのちに新議長が選出される。新たな議員構成に基づき選挙を行う。これは、2001年(平成13)の井上議長のように非改選で続けて議長に在職する場合でも同様の手続きをとる。

直近の例でいえば、2022(令和4年)7月10日の通常選挙による新議員の任期開始日の26日を受けて開かれた臨時国会召集日の8月3日に山東昭子議長(非改選)は議長を辞任し、新たに尾辻秀久議長が選出された。

他方で、(議長が参議院議員任期満了に伴う通常選挙で引退、落選により)通常選挙後の国会召集日時点で現職議長が議席を失っている場合、召集日には議長は空席となっているので、直ちに新議長の選挙を行う。

直近の例でいえば、2019年(令和元年)7月21日の第25回通常選挙に伊達忠一議長は出馬しなかったため、7月28日の任期満了(2013年(平成25)の第23回通常選挙で選出)とともに議員ではなくなり議長の職からも退いた。議長は不在となったが8月1日に召集された国会で山東新議長が選出された。
なお、1959年(昭和34年)の常会の会期は参議院議員の任期満了日(5月2日)までとなったため、改選議員であった松野鶴平議長は同日までで身分を失い、通常選挙後に召集された臨時会で議長が選出されるまで2か月近く参議院議長が不在となっている。

 

2在任期間が長い参議院議長

議長在職期間が3年との原則・慣行があるため、多くの議長は1100日弱の在任である。在任期間が長くなるためには再任される必要がある。在任期間の長い議長は下の表のとおりであるが、木村議長を除く5人の議長はいずれも再任(再再任)されている。

参議院議長のなかでも存在感を示したのは、在任期間が長い松野、重宗、河野の3人である。この3人の議長の活動の在り方は参議院の在り方の変化と同調している。

 

松野鶴平議長

松野議長は、自民党としての最初の議長である。それまでの緑風会出身の議長と異なり、与党自民党の議長として、参議院自民党の権限、それとともに自己の自民党内での発言権をいかに守るかに力を注いだ。この時代以降、参議院の非党派性は失われ、議長となっても自民党を離党することなく(緑風会の議長も会派離脱をしていなかったが)、自民党の立場を使って権力の基盤を築いていった。

松野は戦前は衆議院議員であったが、戦後に公職追放となり、復帰後の1952年(昭和27)には補欠選挙で参議院議員となり、参議院の実力者としての地位を固め、1956年4月には議長となる。6月の鳩山内閣の新教育委員会法案審議の本会議では岸信介幹事長の要請にこたえて議場に警察官を導入、大混乱の末可決成立させた(国会の攻防(6)参照)。

同じ年の12月の総裁選では、自民党参議院票をまとめて石橋湛山総裁誕生に貢献した。しかし、内閣成立後の閣僚人事の参議院枠は松野の意向が受け入れられなかったため、候補者は「参議院自民党の融和のため」と入閣を辞退した。大臣ポストと天秤にかけても参議院自民党を掌握する松野の意向は無視できなかった。

石橋内閣が短期間で交代し岸内閣になると、人事について岸は松野の意向を原則として受けいれた。例えば、息子の松野頼三を大臣に押し込んでいる。その見返りに岸内閣の提出法案の成立には協力的であった。市町村立学校職員給与負担法改正案(1958年(昭和33))や新安保条約関連法案(1960)成立のために強引な本会議運営を許容した(国会の攻防(5)参照、ただし新安保条約本体のみ)

続く、池田勇人内閣と松野との関係は難しいものとなった。1960年(昭和35)の総裁選で松野が支持しなかった池田が当選し、池田は重宗雄三参議院議員会長の人事上の意向を尊重するようになった。松野はこの仕返しに池田の思い入れが強かった政治的暴力行為防止法案(衆法)の成立を阻止する(1961(昭和36)6)(国会の攻防(7)参照)。政府の方針で会期末に衆議院を強行突破した同法案に対し、松野は参議院でも強行するならば議長を辞すると内閣を恫喝した。この結果、政府は法案成立をあきらめ、内閣の基盤は大きく揺らいだ。池田が人事について松野と相談することがなかったことへの反発、あるいは松野を使った佐藤榮作ら反池田派の謀略だとも言われた。いずれにせよ、松野の参議院での影響力は強大であった。

松野は参議院の権威を守りつつ、自己の権益をも守ったのであろう。ただ、あまりにも権謀術数に走り、自民党政権を守り抜くというよりは、その時々、相手によって態度を変え、議長としての首尾一貫した姿勢は見受けられない。それも政治と言えばそれまでではあるが。

松野は6年以上議長を務めたが、池田内閣の途中、持病のために通常選挙に伴う半数改選を機に議長を退き、その2か月後に亡くなっている。

 

重宗雄三議長

重宗議長は国会の議長として衆議院議長を含め両院の在任期間最長を誇る。参議院は重宗王国と呼ばれ、重宗天皇ともいわれ、参議院を基盤に絶大な権力を振るった。議長となっても党籍を離脱せず、人事権を中心に自民党の立場を最大限利用した。

重宗は山口県出身ということもあり、同郷の岸や佐藤とは近い関係にあった。池田内閣は松野議長との関係から重宗を尊重していたが、重宗は政治的暴力行為防止法案の時は最後は松野に協力した。その翌年の1962年(昭和38年)も重宗の独断で公職選挙法改正案を成立させる代わりに内閣の最重要課題であった産業投資特別会計法改正案(占領期の米国からの援助を返還するための原資となる法案)を廃案としてしまった(同法案は自らが議長となった次国会に再提出され成立した)。池田との関係は良好とはなりえなかったといえる。

重宗が議長となると、参議院自民党は岸派、大野派・河野派・藤山派連合、石井派・池田派・三木派連合の3派閥体制となり重宗の思いのとおりコントロールすることは難しかった。しかし、佐藤が総裁となると総裁就任で重宗の協力を得た佐藤は参議院の入閣枠では重宗の意向を尊重した。政務次官、参院役員など参議院における人事権を掌握した重宗はその権力を確固たるものとする。その見返りとして法案の成立には政府に協力した。特に日韓条約の際は重宗は異例中の異例といえるほど無理やりな手段で参議院を通過させた(1965年(昭和40))(国会の攻防(8)参照)。強引な運営から野党からも、人事を専横的に扱うことから与党内からも重宗に対する反発は内外から次第に強まっていくが、その強権を生かして議長3選を果たした。

3選後も、大学臨時措置法案審議は参議院委員会で実質審議は行われなかったにもかかわらず、本会議においては政府の強い意向に沿って議長権限で議事日程を変更して強行可決した(1969年(昭和44))(国会の攻防(9)参照)。政権との持ちつ持たれつの関係を利用して参議院内での重宗は絶対的権力者となっていた。重宗は政府に協力しつつも佐藤総理を軽んじるような素振りさえ見せた。議長4選は既定路線かのように思われていた。

しかし、重宗に反発するグループは河野謙三を中心に反旗を翻す。ここで奇策が持ち上がる。社会党は全面的に支持すると河野に議長出馬を勧めた。自民党内の造反派と野党を合わせれば重宗に勝てる勘定なのである。重宗は人事を利用して造反派の切り崩しを図るが、あまりに強権過ぎたがゆえにかえって反発を買い、求心力を失って4選断念に追い込まれてしまった。与野党の枠を超えて重宗独裁への反発がつのっていたのである。

 

河野謙三議長

重宗が議長出馬断念に追い込まれると、自民党執行部は野党主導の河野議長を避けるべく、重宗後継の候補者を立てて河野にも辞退を求めたが、河野は意思を変えず野党と三木派らの自民党造反議員の支持を得て議長に当選した。河野は議長に就任すると直ちに自民党から離党した。

毀誉褒貶はあるものの歴代の参議院議長のなかで最も評価されている議長であろう。それは、彼の登場が自民党支配という既成の概念を覆し劇的であったことも一因であろう。しかし、それよりも自民党内での権力基盤に頼らず、したがって自民党の論理だけでは動かず、また、自らの権力増大のためというよりは参議院としての全うなあり方を模索したからである。政権との取り引きを通じて参議院の存在を保持した松野、重宗とは異なっていた。河野は参議院議員が大臣や政務次官になることに否定的であった。

河野は野党七、与党三の「七三の構え」の野党に配慮した立場を表明し、強行採決を否定するとともに参議院の審議時間の確保に腐心した。常会の閉会まで20日間を切ってから参議院に送られてきた法案は成立を保証しないと提案している(この20日間ルールは現在でも一定の効力を持っている)。自らも無所属となって公平な議会運営を心掛け、衆議院のカーボンコピーではない参議院の改革に熱心であった。

1971年暮れの沖縄返還関連法案では強行採決を受け入れず、継続審議とするとともに翌年の常会冒頭で法案を成立させる斡旋を行った(国会の攻防(10)参照)。1975年(昭和50)7月の会期最終日には、公職選挙法改正案を可決成立させる見返りに、酒たばこの増税法案については政府からの強行採決の強い要請をけって廃案としてしまった(国会の攻防(12)参照)。

自民党幹部は政権に協力的ではない河野に対する不満があり、議会を遅滞させているだけだとの批判もあった。しかし、河野議長再選のときには与野党の議席差は少なく、自民党は河野を引きずり落とすことはできなかった。このため自民党は河野3選のときには、社会に副議長ポストを譲り渡す作戦をとった。社会は河野支持をとりやめ安井謙議長選出に協力した。自民党は将来制御の利かない議長が選ばれた場合を考え、議長の任期を1期3年とすることを基本方針とするようになった(ただし前任の議長が任期途中で退任した場合は柔軟な運用をしている)。

河野議長の姿勢は、その後の参議院改革の底流として引き継がれる。他方で、議長は党籍を離脱することで与党参議院議員の人事権を持ちにくくなり、政局的権限は低下する。この後、参議院のプリンスと言われていた斎藤十朗は例外的に2期議長を務めたが、無所属となっていたため国会運営で与党をも掌握できず辞任に追い込まれた。逆に村上正邦、青木幹男らは議長とならず、党の参議院議員会長として自民党内の権限を維持することで政権に対する発言権も保持することとなり、参議院の利益の代表者として参議院のドンと呼ばれるようになった。

 

3在任期間が短い参議院議長

長田裕二議長は前任の土屋議長辞任残任期間

西岡武夫議長(民主党)は任期途中での死亡

井上裕議長は前任の斎藤議長辞任の在任期間及び再任後スキャンダルで辞任

平田健二議長(民主党)は前任の西岡議長死亡の残任期間

倉田寛之議長は前任の井上議長辞任の残任期間

 

4任期途中で退任した参議院議長

「国会がもめるたびに詰腹を切らされる消耗品」とまで言われた衆議院議長とは異なり、政治的な理由から引責辞任に追い込まれた参議院議長は斎藤十朗だけである。

在任中に亡くなったのは、松平、西岡の2人の議長、健康上の理由から退任したのは藤田議長である。

 

河井彌八議長

河井議長は任期満了(1956年(昭和31)63)前ではあったものの、次の通常選挙を控え議長不在の事態が見込まれるため早期に辞任をした(43)。予算が成立したのにあわせての辞任とされるが本当の辞任理由が不明朗であり、野党側からは自民党との闇取引、選挙活動のための議長辞任と批判もあり、辞任許可の採決にあたっては異例の記名投票で反対が出ている。河井(緑風会)の後任は松野鶴平が選出され正副議長ともに与党自民党が占めることとなった。なお、河井は任期満了後の選挙で落選した。

 

土屋義彦議長

土屋議長は、藤田議長が健康問題により途中退任したため、その残任期間を務めたのち再選されているが、土屋も途中辞任しているため合計の在任期間は1072日間と長くはない。土屋は埼玉県知事選に立候補するために1991年(平成3)104日に議長を辞任した(翌年6月に知事選に立候補、参議院議員失職)。三権の長の職を投げうって知事となることには、国会の権威からしても批判も起こった。

 

斎藤十朗議長

斎藤議長は、与野党間の参議院選挙制度改革の議論が難航しているなか自ら改革案を示したが、与党から受け入れられず、その責任を取って2000年(平成12)1019日に議長を辞任した(国会の攻防(19)参照)。斎藤が唐突に独自案を提示したことにも問題があるが、無所属となり自民党内の基盤を失ってしまい、自民党が議長を支えるという姿勢を失っていたことも問題がある。斎藤は議長辞任後、しばらく自民党に復党していないのは意味深である。議長在任期間は1900日で第4位となる。

 

井上裕議長

井上議長は、政策秘書が公共工事発注に絡んで裏金を受領したとの疑惑が発覚し、国会が混乱したため、その責任を取って2002年(平成14)422日に議長を辞任した(秘書が逮捕された翌年5月に議員辞職)。スキャンダル関係による参議院議長辞任はこの一件だけである。井上議長は前任の斎藤議長の残任期間を務めたのち再任されたが、在任期間は551日間と3番目に短命であった。なお、前述の参議院選挙制度改革の混乱の中で、井上が斎藤の後任議長に就任した当日に議長不信任案が採決された(否決)。

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