衆議院議長とは?ー国権の最高機関の長とは何なのか?(3)

衆議院議長とは?ー国権の最高機関の長とは何なのか?(3)

岸井和
2021.10.12

 1議長はどうやって選ばれるのか
  ①衆議院議長の選任と資質
  ②衆議院議長の選挙と権威、公平性、中立性
   ⅰ戦後初期、多党制のなかでの議長選出―理念なき多数派工作による議長ポスト決定
   ⅱ自社二大政党制下の正副議長選出
   ⅲ近年の議長選挙をめぐる与野党の対立
   ⅳ正副議長の党籍離脱 

ⅱ自社二大政党制下の正副議長選出

二大政党となることで多党間の多数派工作による議長選出という事態はなくなり、もっぱら自民内の論功行賞、派閥の理論により議長が選任されるようになった。社会は、副議長を社会から輩出すること、常任委員長の一部を社会に譲ること、あるいは議長の党籍離脱を求める戦略に重点を移した。自民は長年にわたり社会の要求を拒絶し、そのために国会がスムーズに開始できないこともあった。ただ、社会は議長については自民内の手続きに介入することはなく、議長職は衆議院ではなく自民党人事の一環となった。しかし、保革伯仲時代になると国会運営の円滑化のために社会の要求をすべて受け入れざるを得なくなった。正副議長は与野党で分け合い、党籍離脱をし、一定の野党常任委員長を選出することが慣例化していった。

 

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〇第29回国会―星島二郎議長

55年体制下での初の総選挙後の1958年6月の議長選挙は難航した。

自民は正副議長を含めた国会役員は全て与党が占めるべきと主張し、野党社会はこれに猛反発して自民がポストを独占するならば常任委員長の選挙も全て記名投票を行うべきと譲らなかった1)1958.6.8朝日新聞。両党の議論は平行線のまま召集日を迎え、議長選挙を行えないまま会期を決めるという異常事態が起こった2)事務総長が本会議の議事を代行したが、会期の件を諮って可否同数の場合に事務総長には決裁権がないため法的に瑕疵があり、国会史上に汚点を残すと批判された(結果的に会期は全会一致で決定した)。1958.6.11朝日新聞参照。召集日翌日に議長選挙が行われ、星島二郎が議長に椎熊三郎が副議長に選ばれ、常任委員長のポストも選挙の結果、全て自民で占められた。なお、自民が、首班指名前に常任委員長選挙を終わらせるとの社会の要求を受け入れたため3)1958.6.12朝日新聞、特別会召集日(=内閣総辞職の日)から3日目にしてようやく内閣総理大臣の指名が行われた。

 

〇第31回国会―加藤議長―警職法改正案をめぐる混乱と国会運営についての自社合意

議長の権威を高めるとともに公平・中立性をより明確に打ち出すために、第31回国会、1958年12月13日の議長選挙では、自社両党は議長は与党から、副議長は野党から選出することとし、両党はそれぞれに一致して票を投じた。

この前段として、第30回国会における警察官職務執行法改正案をめぐる大混乱、抜き打ち的会期延長により、社会は国会に出てこず、国会周辺ではゼネスト、抗議デモが繰り広げられ国会はマヒ状態に陥った(国会の攻防(5)参照)。

国会の正常化に向けて岸信介、鈴木茂三郎自社両党党首会談(1958年11月22日)が行われ、この場で国会運営については「議長の高い地位と普遍の立場を確立する」「両党は互いに信頼して互譲の精神をもって国会運営に当たり、法規、慣例、申し合わせ決議を尊重して行動する」との合意を見た。さらに了解事項として「正副議長問題については通常国会の冒頭に両党で話し合う」「議長の権威を高めるため、25日から幹部会を開く」ことを申し合わせた。

自社両党の幹部会4)幹部会は、自民の椎名悦三郎幹事長、社会の浅沼稲次郎書記長らからなっていた。において国会正常化の協議が進められ、正副議長の党籍離脱、議長の職権の行使を確実にするための措置をとることなどで合意をした5)1958年12月10日の第5回自社両党幹部会における申し合わせにより、「正副議長の党籍離脱の慣行の樹立」「国会の法規、慣例、申し合わせ、決議を厳に尊重し、必要があれば国会法を改正する」「議事協議会の活用」、「集団的要請活動の規制」の四項目について合意し、さらに附帯申し合わせにより「正副議長は両党一致の議決による」ことなどが合意された。1958.12.11朝日新聞参照。この結果、第31回通常国会の召集日に自民出身の星島二郎議長と椎熊三郎副議長は、両党の合意を受け入れ辞任することが国会の正常化に役立つことを信じるとして辞表を提出した6)1958.12.11朝日新聞。実質的には、前国会の混乱に対する引責辞任であるとともに、正常化のための儀式であった。また、幹部会協議の過程で、副議長を社会に渡すことも了解されていた。

これを受け、新たに自民の加藤鐐五郎議長、社会の正木清副議長がそれぞれ与野党一致の形で選出され7)正木副議長については自民内から異論が出たが総裁判断で了解された(1958.12.13朝日新聞夕刊)。正木が警職法改正案反対の特別行動班長であったことから正常化に反するということであった。このため正副議長選挙は3日間遅れた。他方、江崎真澄議院運営委員長は「…正副議長におかせられましては、このたび、議会史上かって類例を見ないほどの多数議員の衆望をになわれまして、その栄職におつきになられましたことは、まことにおめでたく、衷心からお喜び申し上げるものでございます。」と与野党一致での選出を歓迎する発言をしている。(1958.12.13 衆議院議院運営委員会議録) 、幹部会での合意に基づき両者とも選任後に党籍を離脱した。正副議長を自民が独占してきたことを改め、与野党双方に配分し、与野党が国会運営に共同して責任を持つ姿勢を明確にしたこととなる。それとともに、全会一致かそれに近い形で正副議長は選出される基本的な慣行への第一歩であった。とはいえ、これが安定した形で継続するにはまだ機が熟しておらず、正副議長選挙をめぐる混乱が将来にわたって収束に向かったわけでもない。

 

〇第37回国会-清瀬一郎議長再選

1960年2月には自社両党の対立のあおりを受けて加藤議長は辞任をする。後任には清瀬一郎が社会からの特段の異論もなく当選した。

しかし、1960年12月5日に召集された第37回特別会では衆議院議長問題が政権の発足を遅らせた。

自民は召集日の朝に議長として清瀬(再選)を推すことを通告したが、野党は安保強行採決(国会の攻防(5)参照)の責任者であるとして清瀬に強く反対の意思を示し、人選のやり直しを主張した。第34回国会の日米新安保条約の強行採決の時の議長は清瀬であった(第35回は池田総理指名、第36回は解散を前提の召集)。

自民は総選挙で問題は水に流された、内政干渉であるとして清瀬議長を譲らない8)1960.12.6朝日新聞。だが、議長が決まらなければ総理指名も行えないため、自民が社会、民社との党首会談に応じて礼を尽くしたうえで、召集から3日目の7日の夜に本会議を強行開会して正副議長を選挙した9)議長、副議長が選任されるまでの間は本会議の主催者がいないため(事務総長が本会議の議事を代行)、野党の反対を押し切って与党が本会議開会を強行するためには、丁寧に手を尽くす必要があった(1960.12.8朝日新聞参照)。なお、今回も衆議院議長不在のまま召集日に会期の件を決定した。

清瀬議長に対しては野党は白票を投じたが、副議長については自民は今後の国会運営の円滑化ために社会の久保田鶴松に投票した。社会はスジを通したが、深追いをするつもりはなかった。正副議長が決まったことを受け深夜に内閣総理大臣の指名を行い、第2次池田内閣の発足は翌日の8日までずれ込んだ。

 

〇第38回国会―政治的暴力行為禁止をめぐる混乱と久保田副議長(社会出身)の不信任可決

第38回国会では農業基本法や政治的暴力行為防止法、その審議のための会期延長をめぐって与野党は激しく対立し、1961年6月8日に清瀬一郎議長不信任決議案が否決されると、続けて与党は「議長に協力しなかった」という理由で社会出身の久保田鶴松副議長不信任決議案を可決してしまう(国会の攻防(7)参照)。議長不信任に対する報復であった。与野党の感情的行き違いは修復不可能な状況となり、後任の副議長は自民から選出された。ここで、正副議長を与野党に配分し、与野党一致で選出するという合意はいったんご破算となってしまった。社会としては貴重なポストを失うこととなった。

 

〇第45回国会―船田中議長

1963年の総選挙を経た特別会の正副議長選挙はみたび混乱した。総選挙の結果、各会派の勢力図に大きな変化はなかったが、社会は2年前に失った副議長ポスト奪還を目指して徹底抗戦を見せる。社会は副議長ポストと一部常任委員長の割当を要求し続け、各派協議会で結論を得られぬまま12月4日の召集日を迎えた。

召集日の衆議院本会議ではまたしても議長不在のまま会期を決定した。2日連続で本会議の流会が続く中、自民は副議長の件は切り離してまず議長、議院運営委員長のみを決めるように提案したが社会は受け入れなかった10)1963.12.5朝日新聞夕刊。野党第二党の民社が副議長を2人にして自社で分け合う提案をしたが11)1963.12.6朝日新聞夕刊、最終的に常任委員長ポストの割当を巡って与野党間で合意が得られず、全ポストを自民が独占することで押し切ることとなった12)1963.12.8朝日新聞夕刊。議長が決まらない異常事態に社会も抵抗を諦め、召集日から4日目の7日の本会議で粛々と議長選挙を行い、ともに自民から議長に船田中、副議長に田中伊三次が選ばれた。本会議で総理指名が行われ新内閣が成立したのは日曜日を挟んだ9日で、召集から6日目のことであった。

 

1976年の第78回国会までは、正副議長ともに与党自民から選出された。この間、野党第一党の社会は議長選挙では投票しなかったり、白票を投じることも多かった(共産は独自の候補に投票した)。副議長選挙では社会候補者に投票したが、自民候補者が当選した。また、社会も主張はするものの徹底した抵抗は行わなかったため、議長副議長選挙の混乱により新政権の発足が遅れるような事態も起こらなかった。

その後も特別会になるたびに、野党は重ねて副議長は野党第一党から選出すること、常任委員長の各党に配分することを主張し続けていたが、自民はこれを受け入れなかった。これに変化をもたらしたのは保革伯仲という事態であった。

 

〇第79回国会―保革伯仲―再び与党から議長、野党から副議長の慣行確立へ

第79回国会(臨時会)の召集日、1976年12月24日の正副議長選挙では、再び与党議長、野党副議長の慣行が復活し、以降、その慣行が定着する。衆議院議員の任期満了を受けての総選挙後の臨時国会であったが、ロッキード事件、自民内の混乱の結果、自民は選挙で敗北し公認候補者の当選者数は衆議院の議席の過半数を割った(選挙後に保守系無所属議員の追加公認により過半数を確保)。衆議院は保革伯仲の時代となった。

野党の気勢はあがり、国会召集前の各派協議会では副議長を社会に割り当て、常任委員長も野党各党にも配分することを強く求めた。新自由クの西岡武夫幹事長は「(副議長は)社会党の三宅正一氏が適任だと思う」と具体名も挙げた13)1976.12.17朝日新聞。これを受けて社会も国対で副議長は第二党から出し、三宅氏を推すとの方針を決めた14)1976.12.22朝日新聞。自民も国会運営を考えて副議長を社会に譲ることを決断し、召集日前日の各派協議会では議長は自民の保利茂、副議長は三宅で与野党が合意している。共産も合意に従い、党独自の候補者ではなく保利、三宅に投票した。

自民はギリギリ過半数の議席で野党の主張を受け入れ、最初からの与野党の対決、国会の混乱を避けることを選ばざるをえず、結果として与野党で国会運営の責任を分担する体制に移行した。久保田副議長以来15年ぶりに正副議長を与野党で分け合うこととなり、その後、与野党の議席差の大小にかかわらず。この慣行は現在に至るまで続いている15)このとき、野党にも4常任委員長を割り当てたが、これは委員長を除いた委員数が与野党逆転となることを避ける意味合いもあった。常任委員長を野党に割り当てたのは18年ぶりであった。なお、野党に常任委員長を割り当てる慣行も現在に至るまで続いている。。つまり、議長も副議長も与野党一致の形で支持され当選することになった。

 

ⅲ近年の議長選挙をめぐる与野党の対立

〇第127回国会―土井たか子議長

平成(1989年)以降、衆議院議長選挙は12回行われているが、例外的に議長選挙が難航したことが2回ある。1回目は第127回特別会(1993年8月5日召集)の議長選挙である。

このときは、自民が総選挙で敗北し、非自民政権が誕生したときである。自民は政権転落したことで国会において様々な抵抗を試みた。その最初が議長選挙であった。衆議院第一党の自民の主張は「議長は第一党から出すべきだ」というものであった。連立政権側は「与党から出すべき」との姿勢で、両者の折り合いは全くつかなかった。それまでの歴史の中で、こうした問題は議論されたことがなく16)議長候補として取りざたされていた土井自身も「個人として比較第一党(自民)が議長を出すべきだと考えた」等の理由から就任を断り続けていた(1993.8.4朝日新聞参照) 膠着状態となり召集日に議長選挙ができなかった。協議は決着していないまま連立与党が数の力で押し切り、議長選挙は翌日夕刻になりようやく行われた。与党第一党社会の土井たか子が議長に当選したものの与野党一致ではなかった17)自民などは奥野誠亮(自民)に投票した。土井264票、奥野222票、その他である。副議長については与野党一致で鯨岡兵輔(自民)が当選している。なお、議長選挙の混乱の余波を受けて、召集日に会期を決めることができないまま会期2日目を迎えるという異例の事態となった。。議長選挙が遅れたことで、首班指名も召集日翌日となった。

 

〇第148回国会―渡部恒三副議長再選

また、2000年7月4日の第148回特別会では、野党は議長選挙では自民の綿貫民輔に投票せずに白票を投じ、副議長選挙では当選した無所属の会(会派は民主党・無所属クラブ)の渡部恒三ではなく石井一に投票した。自民が民主の推薦する副議長候補石井に強く反対し、拒絶したためである18)前年7月14日の衆議院予算委員会で石井一が自民幹事長の野中広務 (当時は官房長官)を激しく罵倒したため、その意趣返しとして自民は石井の副議長就任に反対したと言われる。2000.7.5毎日新聞参照。自民の姿勢は慣例に反するものではあったが、自民票により渡部が選出(再選)された19)モーニングが間に合わず平服で挨拶にたった渡部は「…ただいま、図らずも、諸君の御推挙をいただき、引き続き本院副議長の重職につくことになりました。…(2000.7.4衆議院会議録)」と議場内の笑いをかった。投票結果は渡部287票、石井189票であった。。正副議長選挙は召集日当日に行われたが当初予定の時間からずれ込んだ。

脚注

脚注
本文へ1 1958.6.8朝日新聞
本文へ2 事務総長が本会議の議事を代行したが、会期の件を諮って可否同数の場合に事務総長には決裁権がないため法的に瑕疵があり、国会史上に汚点を残すと批判された(結果的に会期は全会一致で決定した)。1958.6.11朝日新聞参照
本文へ3 1958.6.12朝日新聞
本文へ4 幹部会は、自民の椎名悦三郎幹事長、社会の浅沼稲次郎書記長らからなっていた。
本文へ5 1958年12月10日の第5回自社両党幹部会における申し合わせにより、「正副議長の党籍離脱の慣行の樹立」「国会の法規、慣例、申し合わせ、決議を厳に尊重し、必要があれば国会法を改正する」「議事協議会の活用」、「集団的要請活動の規制」の四項目について合意し、さらに附帯申し合わせにより「正副議長は両党一致の議決による」ことなどが合意された。1958.12.11朝日新聞参照
本文へ6 1958.12.11朝日新聞
本文へ7 正木副議長については自民内から異論が出たが総裁判断で了解された(1958.12.13朝日新聞夕刊)。正木が警職法改正案反対の特別行動班長であったことから正常化に反するということであった。このため正副議長選挙は3日間遅れた。他方、江崎真澄議院運営委員長は「…正副議長におかせられましては、このたび、議会史上かって類例を見ないほどの多数議員の衆望をになわれまして、その栄職におつきになられましたことは、まことにおめでたく、衷心からお喜び申し上げるものでございます。」と与野党一致での選出を歓迎する発言をしている。(1958.12.13 衆議院議院運営委員会議録)
本文へ8 1960.12.6朝日新聞
本文へ9 議長、副議長が選任されるまでの間は本会議の主催者がいないため(事務総長が本会議の議事を代行)、野党の反対を押し切って与党が本会議開会を強行するためには、丁寧に手を尽くす必要があった(1960.12.8朝日新聞参照)。なお、今回も衆議院議長不在のまま召集日に会期の件を決定した。
本文へ10 1963.12.5朝日新聞夕刊
本文へ11 1963.12.6朝日新聞夕刊
本文へ12 1963.12.8朝日新聞夕刊
本文へ13 1976.12.17朝日新聞
本文へ14 1976.12.22朝日新聞
本文へ15 このとき、野党にも4常任委員長を割り当てたが、これは委員長を除いた委員数が与野党逆転となることを避ける意味合いもあった。常任委員長を野党に割り当てたのは18年ぶりであった。なお、野党に常任委員長を割り当てる慣行も現在に至るまで続いている。
本文へ16 議長候補として取りざたされていた土井自身も「個人として比較第一党(自民)が議長を出すべきだと考えた」等の理由から就任を断り続けていた(1993.8.4朝日新聞参照)
本文へ17 自民などは奥野誠亮(自民)に投票した。土井264票、奥野222票、その他である。副議長については与野党一致で鯨岡兵輔(自民)が当選している。なお、議長選挙の混乱の余波を受けて、召集日に会期を決めることができないまま会期2日目を迎えるという異例の事態となった。
本文へ18 前年7月14日の衆議院予算委員会で石井一が自民幹事長の野中広務 (当時は官房長官)を激しく罵倒したため、その意趣返しとして自民は石井の副議長就任に反対したと言われる。2000.7.5毎日新聞参照
本文へ19 モーニングが間に合わず平服で挨拶にたった渡部は「…ただいま、図らずも、諸君の御推挙をいただき、引き続き本院副議長の重職につくことになりました。…(2000.7.4衆議院会議録)」と議場内の笑いをかった。投票結果は渡部287票、石井189票であった。

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