衆議院議長とは?―国権の最高機関の長とは何なのか?(13) 

衆議院議長とは?―国権の最高機関の長とは何なのか?(13)

岸井和
2022.05.10

3議長は何をしているのか
 (3)議長のあっせん、調停と辞任
  ②議長の辞任
   星島二郎
   加藤五郎

(3)議長のあっせん、調停と辞任

②議長の辞任

戦後の国会の歴史の中で、衆議院議長が辞任したケースは下の表のとおり12例ある。

病気による辞任や議長本人の不祥事、失言による辞任は別として、国会運営をめぐる問題で辞任したのは1989年の原議長が最後であり、自民・社会二大政党の時代である。星島議長、加藤議長、船田議長の辞任したのは自社の対立がほとんど暴力的な時代であり、議長が辞めることは事態鎮静化のための儀式でもあった。清瀬議長も同様の状況で新安保条約の採決を大混乱のうちに強行したが、その後社会は国会に出てこなくなったので辞任しろとは言われなかった。石井議長は健保特例法を巡る混乱後、与党が議長を利用することに嫌気がさして自ら辞任を申し出た。その後、自社馴れ合いの国会が定着していったため、原議長は久しぶりの議長辞任であったが、このときはリクルート事件で野党の気勢はあがっていて与野党の対立は容易には解消しにくくなっていた。その後については辞任には至っていないが、土井議長が政治改革法案の「あっせん」に失敗したとき1)衆議院議長とは?(9)参照、伊藤議長が定数是問題の「あっせん」に失敗したとき2)衆議院議長とは?(9)参照は出所進退について脳裏をよぎったはずである。

社会が野党第一党の地位を失うと議長への辞任圧力は強くはなくなっていった。与野党の対立は穏健化し、対立の幕引きとして議長の責任追及、辞任という儀式、つまり与党の了解のもとに野党に手柄を与えることで国会正常化とする旧来の慣行はなくなっていた。それだけではなく、過度の紛糾はなくなり、次第に乱闘も牛歩もなくなっていった。議会運営はより規律どおりに進められ、暴力的な激しさは失われるとともに、議長が責任を取らされる場面は減り、野党は議長の首をとることよりも中立・公平な議長を正規の手続きの一環に組み入れて味方につけ、「駆け込み寺」として利用するようになった。これによって近年においては議長の在任期間は長くなる傾向にある。

戦後間もなく、議長の存在の在り方はまだ定まっていなかった。それゆえ議長の党籍離脱の意味も曖昧であった。林議長は完全な党内人事による辞任で、議長職をなげうって党幹事長となった。堤議長は政界が再編された結果、無所属となり後ろ盾を失ったために辞任した。国会の紛糾により議長が辞任したのは星島議長が最初である。

 

〇星島二郎議長の辞任(1958年12月13日) (国会の攻防(5)参照)

星島議長は警職法改正案の審議をめぐる混乱により辞任に至った。

1958年の第30回国会に突然に提出された警職法改正案に対しては、社会党は民主主義を根底から破壊する悪法だとして、国会の内外において徹底的な反対方針を貫いた。

内閣から法案が提出されても与野党の審議日程協議は整わず、星島議長は法案の委員会付託を強行した3)法案の委員会への付託は議長の権限である(国会法56条2項)であるが、これも議院運営委員会の協議を経て付託するのが慣例である。(10月11日)。社会の態度は一層硬化し、委員会室を占拠するなどしたため、議長は付託を取り戻し(15日)、本会議で趣旨説明を行った後に改めて委員会に付託した(17日)。しかし、法案審議が難航したまま次第に会期末(11月7日)が近づいてきた。

11月4日には自民から会期延長の申し入れがあったものの、この取り扱いについても与野党の協議は全くの平行線であり本会議の開会の目途は立たなかった。こうしたなか、星島議長は職権で本会議のベルを押し、与党議員に守られた椎熊副議長が本会議場に入り、抜き打ち的に会期延長を議決した。社会は会期延長を無効として延長後には登院しない一方、院外でのゼネストなどの反対運動は一段と強まった。

混迷を深める事態を打開するため、14日から数回にわたり自社の岸、鈴木両党首が会談を持った。この結果、20日には、当面の問題の処理策として警職法改正案を審議未了とすること、衆議院は自然休会とすることなどで合意した。さらに、国会運営の正常化については、議長の高い地位と不偏の立場を確立する、両党は互いに信頼して互譲の精神をもって国会運営にあたることとし、その了解事項として正副議長問題については通常国会の冒頭に両党で話し合う、議長の権威を高めるため25日から幹部会を開くこととなった。

自社両党の幹部会は数回にわたって開催され、第31回国会召集日の12月10日には両党の間で国会正常化の申合せについて妥結した。その内容は、正副議長の党籍離脱の慣行を樹立すること、議事の円滑な運営をはかるために法規、慣例等を尊重し国会法改正も考慮すること、国会に対する集団的要請行動(デモ)の規制について特別委員会で慎重に検討することなどであった。さらに、正副議長の選挙については自社両党一致の議決によることも申合せられた。国会の危機的状況を克服するための合意ではあったが、議長や議院運営委員会などの正規の機関は機能せず、政党間協議で決着をみることとなった。

同日、自社の幹部会のメンバーはそろって星島議長、椎熊副議長を訪問し、国会正常化の合意を報告した。星島議長は「私の期待していた申合せであった。こうなった以上、私が辞職することが国会運営のためによいことだと思う4)1958.12.11 朝日新聞」として、副議長とともに辞表を提出した。辞任が本会議で許可されたのは12月13日であった。

「変則国会」を経て新たに通常国会に臨むにあたり、国会正常化は必須であり、その第一が議長の権威確立であった。議長は一党一派に偏らず、権威をもって議会を運営するとともに、それゆえ各党は議長の判断を重く受け止め従うべきだとの理念はあった。しかし、国会正常化の協議には議長は蚊帳の外であり、自社の合意を得られたものの結果的には議長自身は引責辞任に追い込まれた。自民内では議長交代は早い時期から了解され、すでに本人も辞意を漏らしていたが、後任議長人選について自民各派閥の思惑が交錯したため通常国会まで引き延ばされた。議長は与野党の対立の狭間で、与党の都合で首を切られた。これ以降も議長の受難の時代は続く。

 

〇加藤鐐五郎議長の辞任(1960年2月1日) (国会の攻防(5)参照)

星島議長の辞任を受けて加藤議長が誕生した。加藤は議長の権威を高めるための与野党合意に基づいて党籍を離脱していたが、与野党の抗争と自民の国会対策の都合により辞任に追い込まれた。

発端は1959年11月27日の安保改定阻止国民会議主催のデモであった。デモ隊の約9000人が国会構内になだれ込み示威行進を展開、警察官ともみあいになり多数の負傷者を出す事態となった。

これに対し、加藤議長は国会周辺のデモ規制に関する試案を提示するが与野党の協議は平行線で、自民は単独で国会の審議権確保のための秩序保持法案5)本法案は自民単独で衆議院を通過したが、参議院において廃案となった。を提出した。さらに、議長は12月17日の本会議でデモを先導した社会の淺沼稻次郎ら4議員を懲罰委員会に付すことを宣告した6)懲罰委員会が開かれ議長から懲罰とした理由などを聴取したが、継続審査となり、最終的に懲罰には至らなかった。

これらの処置に社会は激しく怒り、議長不信任決議案を提出(21日否決)したが、社会の怒りは収まらず紛糾は続き、社会出身の正木副議長は「議長を補佐する任に耐えない7)正木副議長の辞職願は12月25日に提出され議長は慰留したが28日に正式受理となった。辞職の理由は「…自分は速かに国会運営を正道にのせるため誠意をもって議長に具申いたしましたが、議長の受け入れるところとなりませんでした。従って残念ながら補佐の任に耐えませんので辞任いたします」というものだった。その字面通りには受け取れないものがある。」として辞任願を提出して議長辞任へと揺さぶりをかけた。12月27日に国会は閉会となるが、その2日後に始まった常会に混乱は引き継がれた。

加藤議長は「国会デモ乱入事件の後始末をすませないで議長辞職は世間に正しい反省を与えることとならない、副議長にからませて議長の進退を政争の具とすることは議長の権威を落とし将来に禍根を残す」と直ちには辞意を示さない強硬な構えであった。

しかし、野党が議長が辞任しなければ開会式や国会審議に応じないと強硬な姿勢に出て一歩も譲らないことから、自民は国会対策の観点から議長を説得する方向で動き始めた。翌年1月27日には川島幹事長が議長に自発的辞任を要望したのに対し、議長は辞任のための筋道は通すべきでその時期、方法については慎重を期したいとの意向を示した8)1960.1.28 朝日新聞。主要派閥の石井派出身ではあるものの、加藤は党内派閥に深い根をおろしていないために基盤がなく、自民は安易に扱えると考えているフシがあった。しかしながら、自民が淺沼懲罰をけしかけながら議長の辞任を求めることには疑問もあり、先の与野党合意に基づいて党籍離脱をしている議長に対して党の国会対策上の都合から圧力をかけていいのかとの批判もあった9)同上。さらには、党内反主流派は議長を擁護しているため加藤は強気に出た面もある。

それでも自民は、一方では益谷副総理、岸総理、大野副総裁らが次々と加藤の説得に当たるとともに、他方では国会日程を円滑に進めるために野党とも協議をすすめた。1月29日には自社民の国会対策委員長会談で、2月1日に加藤議長が辞任するという含みで国会日程の一応の合意をみた10)1960.1.29 朝日新聞夕刊

こうした経緯を経て、加藤議長は31日に正木副議長の辞任が本会議で許可されたのち直ちに辞意を表明した。その声明は与野党に対する憤懣に満ちたものであった。概要を記せば「デモ隊が国会乱入したときの措置は正しかった、デモ隊乱入で議長が辞任するのはかえって無責任でもある。鈴木社会委員長からほとんど脅迫的な懲罰阻止の申入れがあったが、断固懲罰委員会に付し、また、デモ規制法の立法化に努力した。しかし、社会は不信任を提出しただけではなく、議長室を包囲して威嚇したり、罵詈雑言を浴びせ、また副議長辞任により議長辞任を強要しようとした。副議長辞任とともに議長も辞任というのは主客転倒である。万策尽きた野党は一切の審議に応じないとごね続けた。かつての二大政党下の申合わせは議長の権威を高めることにあったが、議長の地位を党利党略の具に供し、議長更迭という安易な妥協策により一時を糊塗するのは国会正常化を政党自身が傷つけあい、議長の権威を踏みにじるものである。不本位千万ながら辞任を決意したのは重要案件が予定されている国会が私の進退のために再開できないのは主権者たる国民に申し訳ないからである。他人の勧告や強制による辞任ではない。無理がまかり通り道理がひっこむ、正論かく敗れたりと痛感する11)1960.2.1 朝日新聞参照」ということであった。

国会正常化の旗印として党籍離脱をして登場したが、与党内支持基盤も弱い議長が、党利党略の行く末として最後には与野党から集中砲火を浴び、辞任を余儀なくされたことになる。加藤議長はほとんど孤立無援であった。

脚注

脚注
本文へ1, 本文へ2 衆議院議長とは?(9)参照
本文へ3 法案の委員会への付託は議長の権限である(国会法56条2項)であるが、これも議院運営委員会の協議を経て付託するのが慣例である。
本文へ4 1958.12.11 朝日新聞
本文へ5 本法案は自民単独で衆議院を通過したが、参議院において廃案となった。
本文へ6 懲罰委員会が開かれ議長から懲罰とした理由などを聴取したが、継続審査となり、最終的に懲罰には至らなかった。
本文へ7 正木副議長の辞職願は12月25日に提出され議長は慰留したが28日に正式受理となった。辞職の理由は「…自分は速かに国会運営を正道にのせるため誠意をもって議長に具申いたしましたが、議長の受け入れるところとなりませんでした。従って残念ながら補佐の任に耐えませんので辞任いたします」というものだった。その字面通りには受け取れないものがある。
本文へ8 1960.1.28 朝日新聞
本文へ9 同上
本文へ10 1960.1.29 朝日新聞夕刊
本文へ11 1960.2.1 朝日新聞参照

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